広島県尾道市の家庭教師”受験ラボ”! センター9割、TOEIC700点越え、TOEFL対策、国公立医学部受験 -3ページ目

広島県尾道市の家庭教師”受験ラボ”! センター9割、TOEIC700点越え、TOEFL対策、国公立医学部受験

対象者:本気で成績を上げたい方
連絡先(メール):dm5afepu@i.softbank.jp
最近の実績:半年でセンター100点アップ、3カ月でTOEIC450→715点、一年で学年トップ、勉強会で国公立医学部合格

【記号論】

記号論に関しては、ノームチョムスキー、ソシュール、時枝誠記の本をかじり読みした程度で、専門的な知識は全くないのだけれど、記号というものについて、ふと考えてみた。
僕たちの身の回りには様々な記号で溢れている。例えば、文字。文字という記号を使って自分の思い、考えを相手に伝える。本にして、保存する。言葉は、人の気持ちの一部分という考えもあるし、言語化したものだけが、人の気持ちの全体であるという意見もあるようだ。僕は後者の意見に近い。自分が悩んでいるとしよう。気分的にはいろんな考えが脳の中をうごめいているが、落ち着いてその脳の中にあるものを眺めてみると、いがいにぼんやりしている。言語というツールでそのぼんやりに形を与えてやらないと、そのぼんやりをつかまえることはできない。
さて、記号の例をあげれば他にもある。音楽、映像、ブランド、お金、外国語、カオの表情、視線、ボディーランゲージ、インテリア、都市、絵、国、領土、時間、いろんな記号で溢れている。そして、その記号が発せられた時、その記号の所有者があっただろうが、その記号は主人を離れて一人歩きすることもできる。他人によって編集され、本来の意味とは異なったふうに解釈させることもある。
何が言いたいのか。記号は便利なものであり、人類の文明の一つだが、時に危険というか、注意しておいた方がいいものであるとも思う。