数年前、名古屋大学で行われた学術論文の発表会での帰り道に私の後ろから声をかけて下さった東京藝術大学の教授、お顔をしっかりと覚えておりますが、お名前は松田先生だったでしょうか、「質問される池田さんの背中から怒りの火炎がメラメラと立ち上っていましたね」とニコニコしながらお声をかけて下さりました。
私は若い発表者の事をおもい、大変控えめに多少おろおろしながらマイクを持っていたので我ながら不味い発言だったと後悔しておりましたが、理解してくださったことが大変嬉しかったです。

その時先生からご質問がありました
聖林寺の光の光条線は表面側ですか、裏面側ですか?
と質問されました。
私の最後の論文を書いた頃、奈良国立博物館で大きなプロジェクトが組まれ、聖林寺光の復元図が発表されました。確かそこには釘跡が規則正しく打たれてないため、光条線はなかったと発表されたと記憶しております。
確かに、定規で測ったような釘跡ではありませんが、奈良時代の工人達のデッサンは左右対象のものであっても鎌倉時代とは違い、形の正確さに拘らなかったようです。

8本の基準となる光条線の痕少々長さの違いなどありながらも、残欠の光の表面に数ヵ所の釘跡をみることが出来ます

その釘跡は釘の先端のように見え、釘は背後から打ち付けられています。
当初は、私にも迷いがあり最後の論文の図面は光条線が光の背後にあったかも知れないと言う迷いがありました。
それで論文の断面図は後ろに光条線があるかのように作図をしてしまいました。
あれほどに美しいレリーフの光条線で隠れてしまうことは少し残念に思いますが、当時の奈良人の光に対する思いは、どう見せるかではなく、どう存在するかであったと理解してます。
実物大で復元してみるとあれほどに美しいレリーフ模様も光条線もご本体の後ろに隠れ、周円部の模様しか見えません。
後の平安時代以降、光の背後は物理的な力もかからない場所なので丸く円形に切り取られ無くなってさえいます。

私は数年前、体の光と頭の光がたった一本の銅線でつながりしっかりと立つ事を頭光を実物大で制作し、この目で確かめました。
今後身光分も実物大で復元され、一本の茎がたった一本のほぞ穴に入り、すくっと立つ様を見てみたいです。

大蔵経には足の裏から光が立ち上がっていく様子がかかれているので、奈良人は忠実に従ったのだと思います。

今若い彫師達にお願いしている、もこく像は私の最後の図面です、10分の一なので文様に省略があります。
そして我が恩師西村公朝先生の最後の遺言であった台座の蓮弁の花びらが後ろの光の輝きにあわせて見事に花開く様をお見せすることが出来るでしょう。

その花びらの動きは正倉院に残された香台が参考となるでしょう。

わざわざ刺蓮弁にした意味が分かります。

佐藤先生、松田先生、若者達にお伝えください。

もし、光の後ろに支えがあるならば、後の後補と思われます。

私は目にすることが出来ないかもしれませんが後々まで伝えられますように
奈良時代の人達の光の花びらが見事に咲き輝いていたことか🎵

写真は、次の絵本の大しんさまです。

明日は天皇即位の義が行われると、テレビで高御座が撮され、目にすることが出来ました。
奈良時代から続く、日本の歴史。大切な宝です
おそらくは、東大寺法華堂の本尊は、当時の天皇に許され、仏の最高位として、高御座の中に堂々と、耀き、安置されたものと思われます。