「一雨所潤(いちうしょにん) 而諸草木(にしょそうもく) 各有差別(かくうしゃべつ)」 「一雨(いちう)の潤(うるお)すところなりといえども、しかも諸(もろもろ)の草木に各々差別(しゃべつ)あるがごとし。」 妙法蓮華経の薬草喩品第五では、お釈迦様の教えはただ一つなのに、それを聞く側の状態によって、教えの効果が変わってくる、ということが「三草二木(さんそうにもく)のたとえ」によって説明されます。 お釈迦様の教えを聞いてすぐに悟(さと)る者もいれば、中途半端な状態で満足してしまう者もいます。それらはすべて教えを聞く側の心の状態に原因があります。そして、皆が教えを素直に聞くわけではないけれども、お釈迦様はすべての人々が悟(さと)るまで、雨がすべての草木を潤(うるお)すように、いつまでも淡々と同じ教えを説き続けてくださるのです。 たとえば親が子どもに接するときも、兄弟みなに同じように愛情を注いでいるつもりでいても、いつまでも甘える子や早くから自立する子など成長のスピードは様々です。 そのとき「これだけしてあげたのだからもう十分」と思うのは親の自分勝手な線引きです。子どもたち全員が納得するまで愛情を注ぎ続けるのが本当の親の姿でしょう。 お釈迦様が無限(むげん)の慈悲心(じひしん)でいつまでも人々に教えを説き続けるように、私たちも飽(あ)きることなく、子には愛情を注ぎ、友人には親切にし、後輩には世話を焼き、困っている人には手を差し伸べ続けることが大切であると思います。 #法華経 #関西弁 #仏教 #妙法蓮華経 #仏陀 #お経 #お寺 #ブッダ #日蓮大聖人

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「無上宝聚(むじょうほうじゅ) 不求自得(ふぐじとく)」 「無上(むじょう)の宝聚(ほうじゅ)を求めざるに自(おのずか)ら得たり」 この一節は、信解品(しんげほん)で語られる「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)のたとえ」に出てくる言葉です。 お釈迦様の弟子で長老の須菩提(しゅぼだい)、迦旃延(かせんねん)、迦葉(かしょう)、目犍連(もっけんれん)は、自分たちと同じ声聞(しょうもん:一定の悟りまでしか到達できないとされた修行者)である舎利弗(しゃりほつ)が、お釈迦様から将来における成仏(じょうぶつ)を約束されたことにとても感動します。 そして、今まではお釈迦様と同じ最高の悟り・阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)に達することができないと思っていた自分たちにも成仏の可能性が示されたことを、「求めてもいないの最高の宝物をいただいたような気分である」と感謝します。 私たちはいつも「あれが欲しい、これが欲しい」と思っています。そして、その欲しがっていたものを誰かがくれたとしたら、ここぞとばかりに相手に感謝をします。 しかし、すでに持っているものに対してはどうでしょうか。命や家族、友だちや仕事など、すでに手にしているものについては、その有り難みを忘れがちです。 欲しいと言わなくても、私たちはすでにたくさんの宝物をいただいている。そのことに気づき、感謝の念を起こすことの大切さを教えてくれる経文です。 #法華経 #関西弁 #仏教 #信解品 #お経 #お寺 #仏陀 #ブッダ #妙法蓮華経 #日蓮

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