幸せは自分の内側に見出せるってよく言いますよね。
外側にいくら幸せを見出そうとしても結局は幻想でしかない。
それはとてもよくわかるのですが、最近自分にとっての幸せの定義がわからなくなってきました。
確かにコーヒーを飲んだり、好きなアニメを観たりゲームをしたり。
それはそれで確かにほっとするし夢中になれるし好きな時間であることに変わりはないんです。
けど、生きている時間それだけをずっとやってていいって言われても虚しくなるんですよね。
だからといって他に何が自分にとって楽しいことなのかわからない。
仕事にしてもそうです。
今やってる仕事はずっと続けていけるものではない。
毎回のように精神が削られていく。イライラする。攻撃的になる。つまらない。退屈。我慢。こんな感情を生み出していくだけ。
だからと言って他に何がしたいかって聞かれても特に思い浮かばない。
そもそも誰かの指示で動くのが嫌だから組織には向かない。
でも自分で起業するなんて面倒くさすぎてやる気がおきない。
つまり現代社会のシステムにおいて僕は仕事をしたくないってことになる。
じゃあ、現代社会のシステムから外れて自分の得意なことを仕事にするか。
これも僕にとってはよくわからない。
ゲームやったりアニメ観たりはもう30年以上続けてるけど、仕事になる気配は無い。いくら頭をひねったところでそれを仕事にするアイデアは出てこない。
どうしてここまで閉塞的な世界で生きているのだろう?
もしかしてそれが僕の本当の望みなんだろうか?
そんなはずはない。
だってちっとも楽しくないんだもの。
自分にとって好きなことをしたりホッとする時間を作っていけば少しずつ本来の自分に戻り自分の本当の望みが見えてくる。
それは本質だと思う。
僕の場合はその時間以上に我慢をしたり苦しいと思ってしまう時間が圧倒的に多い。そのせいで我慢して苦しい周波数の現実を投影しているのかもしれない。
だけどその理論に従ってしまえば何か今の生活をひっくり返すほどの出来事が起こらない限り、この悪循環から抜け出すことができなくなってしまう。
人によってはそれが病気や仕事を辞めるっていうことなのかもしれない。
けど、僕の場合はそんな出来事を経ても尚、更に苦しい悪循環に突入するだけになってしまった。
必要なときに必要な分だけのものは用意されるっていうけど、
その必要なときってどれくらいのタイミングなんだろうね。
のどが渇いて死にそうになったときの1杯の水くらいな感じなのかな。
外側に振り回されてても仕方ないと思うけど、
内側の幸せを探していてもお腹は膨れないわけで。
つまりは最低限の生命を維持する延命措置を延々続けているわけで。
それも経験のひとつであることには変わりはないけれど、
もうそれは十分に経験したと自負できるから終わりにしたい。
全てを投げ出して終わりにしてみてもいいけど、
そこで湧いてくるのが恐れの感情。
それをしてしまったら、ほんの少しのホッとできる時間や好きなことをする時間を
奪われてしまうのではないかという恐怖。
仕事をしなくてお金が無くなれば住むところがなくなり、趣味どころじゃなくなるっていうストーリー。
わかってる人はそんな不安な未来を考えなくていいよっていうかもしれない。
だけど、事実僕はその一歩手前まで足を踏み入れてしまっていた。
そのときは僕もそんな未来なんて来ない。大丈夫なんとかなるって思ってたけどね。僕が今のやりたくもない心を砕かれるだけの仕事を選択しなければそうなってしまっていた。
そんな日々で心は擦り切れ、幸せなんてものがわからなくなってしまったのかもしれないですね。
こうやってなんとなく書き連ねていけば何かアイデアがくるかもしれないって思いましたが、今回は特になかったです。
まあ、こんな悪循環にはまっている人もいるんだなって思ってもらえれば。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。