1945年9月10日、日本における検閲: 「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16)発令。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が検閲を始めた日。
大東亜戦争終結後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則である。
これにより検閲が実行された。
正式名称はSCAPIN-33「日本に与うる新聞遵則」、昭和20年(1945年)9月19日に発令、9月21日に発布された。「日本新聞遵則」また「日本出版法」ともいう。
このプレスコードに基づいて、主にGHQ批判、原爆に対する記事などが発禁処分に処された。
占領後期になってからは、個人的な手紙などにも検閲の手が回った。
この事実は当時の一般の大衆には知らされず、出版・報道関係者(学校の同窓会誌・村の青年会誌などのミニ・メディア関係者なども含む)以外に存在が広く認知されたのはのちの事である。
1945年9月22日に出されたSCAPIN-43「日本放送遵則(Radio Code for Japan)」 と一対のものである。
新聞遵則は、この放送遵則と映画遵則もこれに準拠した。
昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により失効。
新聞報道取締方針(SCAPIN-16)
プレスコード通達に先立って昭和20年(1945年)9月10日に「新聞報道取締方針」「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16) が発せられ、言論の自由はGHQ及び連合国批判にならずまた大東亜戦争の被害に言及しない制限付きで奨励された、GHQ及び連合国批判にならず世界の平和愛好的なるものは奨励とされた。
朝日新聞の1945年9月15日付記事と9月17日付の2つの記事について、9月18日に朝日新聞社は2日間の業務停止命令 (SCAPIN-34) を受けた。
これはGHQによる検閲、言論統制の始まりであった。
9月15日付記事では「“正義は力なり”を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであらう」といった鳩山一郎の談話が掲載され、9月17日付記事では「求めたい軍の釈明・“比島の暴行”発表へ国民の声」の見出しで「ほとんど全部の日本人が異口同音にいってゐる事は、かかる暴虐は信じられないといふ言葉である」という内容の記事 が掲載されていた。
プレスコード(日本に与うる新聞遵則)(SCAPIN-33)
昭和20年(1945年)9月19日に、SCAPIN-33(最高司令官指令第33号)「Press Code For Japan(日本に与うる新聞遵則)」が最高司令官(D.MacArthur)の名前で通達された。
実施者は米太平洋陸軍総司令部民事検閲部。
検閲は連合国軍最高司令官総司令部参謀部のうち情報担当のG-2(参謀2部)所管下の民間検閲支隊(CCD。Civil Censorship Detachment)によって実施された。
1948(昭和23)年には、GHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた。
新聞記事の紙面すべてがチェックされ、その数は新聞記事だけで一日約5000本以上であった。
連合軍最高司令官は日本に言論の自由を確立せんが為茲に日本出版法を発布す。本出版法は言論を拘束するものに非ず寧ろ日本の諸刊行物に対し言論の自由に関し其の責任と意義とを育成せんとするを目的とす。
特に報道の真実と宣伝の除去とを以て其の趣旨とす。
本出版法は啻(ただ)に日本に於ける凡ゆる新聞の報道論説及び広告のみならず、その他諸般の刊行物にも亦之を適用す。
- 報道は絶対に真実に即すること
- 直接又は間接に公安を害するようなものを掲載してはならない
- 連合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加えてはならない
- 連合国進駐軍に関し破壊的に批評したり、又は軍に対し不信又は憤激を招くような記事は一切掲載してはならない
- 連合軍軍隊の動向に関し、公式に発表解禁となるまでその事項を掲載し又は論議してはならない
- 報道記事は事実に即し、筆者の意見は一切加えてはならない
- 報道記事は宣伝目的の色を着けてはならない
- 宣伝の強化拡大のために報道記事中の些細な事項を強調してはならない
- 報道記事は関係事項や細目を省略する事で内容を歪曲してはならない
- 新聞の編輯に当り、何らかの宣伝方針を確立し若しくは発展させる為の目的で、記事を不当に軽く扱ってはならない
削除および発行禁止対象のカテゴリー(30項目)
江藤淳は、アメリカ国立公文書館分室の資料番号RG331,Box No.8568にA Brief Explanation of the Categories of Deletions and Suppressions,dated 25 November,1946が保管されていたことがわかったと述べている。
この「削除と発行禁止のカテゴリーに関する解説」において次のような具体的な検閲の対象カテゴリーが30項目も規定されていた。
検閲では以下に該当しているか否かが調べられた。
SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
極東国際軍事裁判批判
GHQが日本国憲法を起草したことの言及と成立での役割の批判《修正:2018年4月26日、江藤氏原訳「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」を英文原文に従い修正。修正根拠は記載のアメリカ国立公文書館の典拠文書の記述に拠る。(細谷清)》
検閲制度への言及
アメリカ合衆国への批判
ロシア(ソ連邦)への批判
英国への批判
朝鮮人への批判
中国への批判
その他の連合国への批判
連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
満州における日本人取り扱いについての批判
連合国の戦前の政策に対する批判
第三次世界大戦への言及
冷戦に関する言及
戦争擁護の宣伝
神国日本の宣伝
軍国主義の宣伝
ナショナリズムの宣伝
大東亜共栄圏の宣伝
その他の宣伝
戦争犯罪人の正当化および擁護
占領軍兵士と日本女性との交渉
闇市の状況
占領軍軍隊に対する批判
飢餓の誇張
暴力と不穏の行動の煽動
虚偽の報道
GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
解禁されていない報道の公表
民間検閲支隊(CCD)はさらに10月1日には「進駐米軍の暴行・世界の平和建設を妨げん」という論説を掲載した東洋経済新報9月29日号を押収した。
この記事は石橋湛山によって執筆されたものだった。
村上義人は、これ以降、プレスコードの規定のため、占領軍将兵の犯罪自体が報道されず、各メディアは「大きな男」と暗に仄めかさざるを得なかったと発言している。
また、一般市民の手紙・私信のうち月400万通が開封され、検閲をうけていた。
さらに電信や電話も盗聴された。
江藤淳はGHQによる言論統制についての著書『閉ざされた言語空間』のなかで次のように述べている。
『検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させて来た伝統的な価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられていく。この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。』
削除・発禁処分の事例
戦前・戦中の欧米の植民地支配についての研究書など7769冊に及ぶ書物が官公庁、図書館、書店などから「没収宣伝用刊行物」として没収され、廃棄された。
- 原爆関連
- 栗原貞子の詩「生ましめん哉」
- 峠三吉の詩「にんげんをかえせ」など
- 壺井栄の短編小説「石臼の歌」では、原爆によって家族を失った登場人物(遺族)たちの心理描写がほぼ削除され、疎開先である田舎の風景の描写を増補した表現に差し替えられている。
- 永井隆の『長崎の鐘』は1946年8月には書き上げられていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲により出版許可が下りず、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年1月、日比谷出版社で出版された。
雑誌『創元』1946年12月創刊号に掲載予定だった吉田満による戦記文学『戦艦大和ノ最期』はGHQの検閲で全文削除された。
独立回復後の1952年に創元社から出版。
- 川路柳虹の詩「かへる霊」