カルト宗教を研究する宗教学者たちの定義するところによると、宗教団体の健全さは、一つには、その宗教を実践する信徒たちが自分の宗教団体をどれほど自由に批判できるかにかかっているそうです。


 しかし、わたしたちクリスチャンにとって重要なのは、健全な宗教とは何かに関する世の基準ではなく、神の基準です。



 そもそも聖書は、世の人が言うような意味での「自由な批判」を許してはいないのですから、世の人たちがこの点でわたしたちを批判し、圧力をかけるとしても、わたしたちはそのようなものに屈するべきではありません。

 むしろわたしたちは、世に広く見られるような、人や組織のことを批判してしまうという安易な傾向から自分をしっかりと守っている必要があるのです。



 ですから、わたしたちに間違った推論を吹き込み、わたしたちが信仰の仲間を“自由に批判する”よう仕向ける背教者の牧師たちには特に注意しましょう。

 背教者の牧師たちは、しばしばわたしたちに対し、「わたしは自分の教会の信徒たちに、『わたしのことを自由に批判しなさい』と勧めていますが、あなたのところはどうですか」と尋ねてきます。

 しかし聖書は、仲間の兄弟の間違いを批判するよりはむしろ、「全くへりくだった思いと温和さと辛抱強さをもって愛のうちに互いに忍び、一致を守るために真剣に励みなさい」、また「温和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努めなさい」と勧めています。(エフェソス 4:2-3, ガラテア 6:1)

 ですから、彼ら背教者の牧師たちは、「自分たちは聖書の教えに従っている」と主張してはいますが、実際には聖書の基準を退け、世の基準で物事を判断するように人々に訴えているのです。



 一方、背教したキリスト教の牧師たちとは対照的に、クリスチャンとして正しい道を歩みたいと願うわたしたちは、クリスチャンが批判してはならないこととは何かを、そして批判の仕方はどのようであるべきかを知ろうとして聖書を注意深く調べます。

 そうするなら、わたしたちはクリスチャンとして円熟し、批判することに関する間違った教えから守られることとなるでしょう。





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 聖書の中には、立派な信仰を持ち、振る舞いも立派であったにもかかわらず、信仰の仲間であるはず人々からの様々な批判を受けた、パウロに関する記述があります。

 パウロを批判する人たちの中には、このように言う人さえいました。

 「彼の手紙は重々しくて力強いが、身をもってそこにいる様は弱々しく、その話し方は卑しむべきものだ」。(コリント第二 10:10)



 何が間違っているのでしょうか。

 これらの批判者たちにとって重要だったのは、パウロの伝えようとしている音信がどのようなものであるかではなく、パウロの手紙の文の書き方がどうであるかとか、パウロの振るまいがどうであるかとかいった、実際にはどうでもよい事柄だったようです。



 彼らは、パウロのが手紙の書き方が立派なものであることは認めざるを得ませんでしたが、そのことでパウロのことを褒めたいとは全く思いませんでした。

 ですから、彼らは卑怯な言い回しに訴えることにしました。

 彼らは、積極的な見方をしようとさえすれば、「彼の身をもってそこにいる様は弱々しく、その話し方は卑しむべきものに見えるが、その手紙は重々しくて力強いではないか」と言えるはずでしたが、そのようには言わなかったのです。



 ですから、パウロはそのような批判に対し、「離れているときの言葉におけるわたしたちと、共にいるときの行動におけるわたしたちとは同じです」と答える必要がありました。(コリント第二 10:11)

 パウロの返答がもっともなものだったことには、あなたももちろん同意されることでしょう。



 しかし、わたしたちはこのような無価値な議論に流されて、最も重要な点を見失うべきではありません。

 実のところ、パウロが非難されたような、話し方がどうかとか、書き方がどうかとかということはわたしたちには全く重要なことではないのです。

 わたしたちにとって重要なのは、話し方や書き方ではなく、そこに記されている、パウロの音信はどうなのかということなのです。

 結局、これらの批判者たちの議論は、パウロの持つ些細な長所や短所に人々の思いを向け、もっとも重要な論点から人々の注意をそらすものとなりました。



 しかし、そもそもなぜ、パウロのような立派な人にこのような問題が生じたのでしょうか。

 実のところ、このような問題がパウロに関して生じたことには、その背後に神の知恵の密かな働きがあったのです。



 一世紀のクリスチャンの中には、パウロのように、聖霊の力による特別な啓示を受けるという体験をした人たちがいます。

 そのような人は、「第三の天」がどのようにパラダイスの祝福をもたらすかについての壮大な知識を得ました。



 「その人はパラダイスに連れ去られ、人が話すことを許されず、口に出すことのできない言葉を聞いたのです」。(コリント第二 12:4)



 この啓示はその人にどのような結果をもたらしたでしょうか。



 「わたしはそれを誇ることを控えます。だれも、ただその啓示の過大さのために、わたしについて見るところ、あるいはわたしから聞くところを越えて、わたしのことを高く評価するようなことのないためです。それゆえ、高慢になることのないよう、わたしは肉体に一つのとげを与えられました。それはサタンの使いであって、わたしが高慢にならないよう、わたしに終始平手打ちを加えるためのものです」。(コリント第二 12:6-7)



 パウロはその知識に接したとき、その知識の重大さを悟り、その知識は決して語ってはならない種類のものであるということをはっきりと理解しました。

 しかし、それだけではありません。

 神は、そのような知識を得た人が高慢になってそのことを話してしまうことのないよう、いわばその人に呪いをかけられたのです。

 そしてそれは、ある人たちの目には、あたかもパウロが悪霊にでもつかれているかのような印象を与えるものとなりました。



 信仰のない人々は、そのようなパウロの「見るところや聞くところ」によってパウロのことを低く評価し、その外見を越えてパウロのことを高く評価しませんでしたので、こうしてパウロの言うことを信用できなくなりました。

 そしてこのことは、エホバにとっては一種の保険のようになったのです。



 そうです、これはまさしく神の知恵なのです。



 しかしパウロはこう語ります。



 「もしわたしたちの宣明する良いたよりに事実上ベールが掛けられているとすれば、それは滅びゆく人たちの間でベールが掛けられているのであり、その人たちの間にあって、この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし、神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです」。



 「わたしたちはこの宝を土の器に持っています。それは、普通を超えたその力が神のものとなり、わたしたち自身から出たものとはならないためです。わたしたちは、あらゆる面で圧迫されながらも、動きが取れないほど締めつけられているわけではなく、困惑させられながらも、逃れ道が全くないわけではなく、迫害されながらも、見捨てられているわけではなく、倒されながらも、滅ぼされているわけではありません」。



 「わたしたちは常に、イエスに加えられた致死的な仕打ちを、自分たちの体のいたるところで耐え忍んでいます。わたしたちの体の中でもイエスの命が明らかになるためです。生きているわたしたちは、イエスのために絶えず死に直面させられていますが、それは、わたしたちの死すべき肉体の中でも、イエスの命が明らかになるためなのです。こうして、わたしたちのうちには死が働いています」。(コリント第二 4:3-4, 7-12)



 この言葉から分かるように、同様のことは、使徒職を受けたパウロをはじめとする聖なる者たちすべてにも当てはまりました。



 神からの霊の注ぎを受けた聖なる者たちは、どちらかと言えば、外見においては乏しい人たちでした。

 パウロの用いた表現を借りるなら、彼らは生きてはいても死んでいるに等しいかのように見えました。

 その結果、世は良いたよりを宣べ伝える人々の「愚かさ」を見て良いたよりを批判するようになり、全く神の知恵を理解しなかったのです。



 「もしわたしたちが気が狂っていたとすれば、それは神のためであり、もし正気であるとすれば、それはあなた方のためだからです。それは、外見を誇って心を誇らない人たちに対する答えをあなた方に得てもらうためです」。(コリント第二 5:12-13)



 「神は世の愚かなものを選んで、賢い人々が恥を被るようにされました。また、神は世の弱いものを選んで、強いものが恥を被るようにされました。また神は、世の卑しいものや見下げられたもの、無いものを選んで、有るものが無になるようにされました。それは、肉なる者がだれも神のみ前で誇ることのないためです」。(コリント第一 1:27-29)



 神の知恵は、ご自身のものである真の知恵を人々に提供するにあたって、それを人間の持つ愚かさで包んでしまったことにあります。

 ですから、神からの良いたよりに接したいと思う人は、この愚かさの殻に惑わされることなく、その中身に注目する必要があります。

 そして、パウロの外見を批判した人たちは、パウロの外見ばかりに気を取られて、パウロが告げようとしている音信に目を留めることができなかったのです。



 では、このことからわたしたちは批判することに関してどのような警告を受けるのでしょうか。

 2つの事例をもとに考えてみましょう。



(1)

 背教者の牧師の中には、パウロを非難した人たちのやり方に倣い、次のような言い方でわたしたちに批判的な見方を植え込もうとする人たちがいます。



 「エホバの証人は立派な人たちだ、わたしはエホバの証人の大部分が正直でよい人たちであることを知っている。しかし問題なのは、彼らを導いている指導者たちが正直であるかどうかだ」。



 「エホバの証人は本当に熱心な人たちだ。しかし重要なのは、彼らの属している組織が本当に神の唯一の組織であるかどうかということだ」。



 確かに、こういう問いはわたしたちにとって重要な事柄です。

 わたしたちにはそれに対する答えもあります。

 しかし、クリスチャンとしての健全さは、その人の属している組織や指導者よりも、むしろその人自身の状態にあるのではないでしょうか。



 もし、わたしたちエホバの証人ひとりひとりがクリスチャンとして立派なら、それらの正直で熱心で謙遜な人たちが、僕や長老になったとたん、うそつきになったり怠慢になったり高慢になったりすることはないはずです。

 また、そのような立派なクリスチャンたちによって構成されている組織は、それとは別に同じような人々からなる組織がない限り、神に認められる唯一の組織となるはずです。



 ですから、このような背教者の質問は、エホバの証人に関する事実からわたしたちの注意をそらすだけでなく、わたしたちがより重要な事柄を見失ってしまうようにさえ仕向けるものなのです。

 ですから、わたしたちはこういう推論に注意して、自分の思いが重要な点からそらされないように努力する必要があります。



(2)

 エホバの証人の出版物には、聖書に記された神の道徳規準を擁護する言葉が数多く記されています。

 わたしたちはしばしば、世の道徳規準と聖書の道徳規準とを比較して、「世の価値基準は時代と共に変わりゆくものであり、信頼できませんが、聖書の価値基準はそのようなものとは異なり、時代と共に変化するということがありません」などと言います。

 すると、背教者たちはこのように答えるかもしれません。



 「確かに、聖書の教えは神の言葉であり、不変のものだ。しかし、不変の聖書に基づいているとされるエホバの証人の教えはどうだろうか」。



 そして背教者たちは、エホバの証人の過去に犯した間違いをいろいろと列挙することでしょう。

 確かにこれは、わたしたちにとって重要な問題です。

 わたしたちは、自分の間違いを認めてそれを正してきましたし、これからもそうあるべきです。

 その結果、わたしたちが聖書から教えてきたある事柄は不正確で信用できないものだったことが明らかになってきました。



 しかし、ここで背教者たちが成し遂げようとしている事柄には警戒しなければなりません。

 すこし落ち着いて考えてみましょう。

 エホバの証人ほど、聖書の道徳規準を擁護し、人々に実践させることに成功してきたキリスト教の宗派はどこにあるでしょうか。

 他方、道徳に関するキリスト教世界の状態はどうでしょうか。

 答えは非常にはっきりしています。

 ここに書く必要がないくらいです。



 ではどうでしょうか。

 聖書の道徳規準を教え、実践する点で成功してきた人々からなる宗教は、たとえ失敗があるとしても、神のみ言葉を擁護する資格を備えているのではないでしょうか。

 では、それらの人たちが聖書の道徳を人に教えようとしているときに、横やりを入れてじゃまをする背教者たちは何をしているのですか。

 そうです、これらの人たちは、神の言葉が正しい仕方で人々に伝わるのを阻んでいるのです。



 実績ある水泳の教師が新しい人に正しい泳ぎ方を教えようとしているときに、その教師の過去を知る人が現れて、その人が泳げなかったころの話をしきりに吹聴して回るなら、その人は人々のひんしゅくを買うのではないでしょうか。

 ですから、このような背教者の論法は、エホバの証人に関する事実から人々の注意をそらすだけでなく、人々がより重要な事柄を見失ってしまうようにさえ仕向けるものなのです。



 わたしたちはこのことを覚えておくことにしましょう。

 最初にキリスト教の教えが伝えられたとき、ユダヤ人の中には高等な教育を受けた人たちや、物事を行う点で訓練を受けた人たちがたくさんいましたが、神に選ばれて聖なる者となり、人々を指導したのは、それらの人々ではなく、たとえば漁師のようなごくごく平凡な人たちでした。



 「兄弟たち、あなた方が自分たちに対する神の召しについて見ていることですが、肉的に賢い者は多くなく、強力な者も多くなく、高貴な生まれの者が多く召されたのでもありません」。



 「神は世の愚かなものを選んで、賢い人々が恥を被るようにされました。また、神は世の弱いものを選んで、強いものが恥を被るようにされました。また神は、世の卑しいものや見下げられたもの、無いものを選んで、有るものが無になるようにされました。それは、肉なる者がだれも神のみ前で誇ることのないためです」。(コリント第一 1:26-29)



 これらの人たちは、物事を組織し、神学上の論議を推し進める点で訓練を受けていたわけではありませんでした。

 ですから、これらの人たちの間にはそれに応じた混乱がありました。



 たとえば、パウロが諸国民のクリスチャンたちに律法の終わりについて教えているときでも、これらの人たちの中には、「兄弟、あなたが見るとおり、わたしたちはみな律法に対して熱心です。しかし、わたしたちはあなたについて、あなたが諸国民の中にいるすべてのユダヤ人に対してモーセからの背教を説き、子供に割礼を施すことも、厳粛な習慣に従って歩むこともしないように告げている、とのうわさを聞いています」などと言う人たちが大勢いました。(使徒 21:20-21)



 ですから、パウロはこれらのユダヤ人たちに宛てて書いた手紙の中で、「その弱さと効果のなさとのゆえに、先行のおきては押しのけられることになります」、「廃れたものとされて古くなってゆくものは、近く消えてゆくのです」と語る必要がありました。(ヘブライ 7:18, 8:13)



 このことを知るなら、わたしたちは、使徒15章に記されている1世紀の統治体の決定も、教理上の決定としてはずいぶんと未熟なものであったことを理解することができます。

 一世紀の統治体でさえ、自分たちの下した決定が諸国民に限定されるものではないことを認め、考え方や物事の行い方を訂正する必要があったのです。

 しかし、このような未熟な人々こそが、神から選ばれた人たちでした。



 ですからわたしたちは、選びに関する神の見方を考慮に入れ、信仰によって神に受け入れられている人々の未熟さをむやみに取りあげないことによって、他の人だけでなく自分自身をも選んでくださった神に敬意を払う必要があります。



 この現代においても、高等な教育を受けたわけでも、物事を組織する点で訓練を受けたわけでもないのに、神に受け入れられる信仰を示し、神に用いられている人たちからなる集団があります。

 そうです、それはわたしたちエホバの証人のことなのです。










会衆の長老たち・・・。

彼らも人間ですので、間違いを犯すこともあります。



それにしても、

「あまりにもひどいんじゃないだろうか?」

「こんな人が長老だなんて・・・」

と感じてしまうこともあるかもしれません。



では、どのような見方をすべきでしょうか。







こういう長老がいたと考えてみてください。



人種差別をする。

感情的になることがあり、問題を起こす。

自分の信仰を否認するほど、人を恐れる。

人の言うことをなかなか信じてくれない。頑固。

立場・特権重視。目立ちたがり。



または、こういう指導者がいたとしたらどうでしょうか。



ぼそぼそ喋るので、何を言ってるかわからない。

ついカッとなって、人を殺したことがある。

一人では背負いきれない仕事を背負っている。

親族のうちの何人かが叱責されている。

神に頼らずに、自分の所有物に頼る。





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自分の会衆に、そのような「年長者」がいたら、

「許せない」

「信じられない」

「これが神の組織なのか」

と考えるでしょうか。



もしそのように感じてしまうとすれば、

それは大きな間違いと言わざるを得ません。

なぜなら、上に記した「罪」や「不完全さ」は、

聖書中の年長者・指導者の記録だからです。

使徒たち、預言者たち、王たちの記録なのです。





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エホバは、どんな人間にも「完璧さ」を求めてはおられません。

限界も理解しておられます。

それでも「長老」として任命されるには、

確かに資格にかなっている必要があります。

しかしその資格とは「完全さ」ではありません。



確かに「問題長老」と呼ばれる方たちも

いるかも知れません。

個人の好みや意見を押し付けたり、

間違った理解のまま教えたり、

独自の基準を作ったり、

「世」のやり方や精神態度を持ち込んだり、

「ニッポン人」的だったり・・・。



しかし、会衆に一人か二人の「問題長老」が

存在するということが、

この組織が「神の是認を受けていない」という

ことにはなりません。

過去の聖書中の年長者・指導者の記録から

明らかでしょう。



しかし時には、

会衆内の多くの問題や

そうした長老たちの問題を目にして、

「不甲斐ない」

「頼りない」

「長老として、羊を守っていない」

と感じることがあるのも事実です。



ここで思い起したいのは、

「君たち」に求められていることの大きな責任の一つは、

「風からの隠れ場」

「雨あらしからの隠れ場所」

となることです。





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組織内に見受けられる問題は、

「風」でしょうか。

成員や長老自身が抱えている問題は、

「雨あらし」でしょうか。



いいえ、

それは「不完全さ」に他なりません。



しかし、

あなたが真理を学ぶ上で、

反対や迫害が生じたとき。

または、

災害などで困ったとき。

怪我や病気などで、

まったく動けないとき。



そのように大変な状況に追い込まれたとき、

そんなあなたの必要を見て、

積極的に援助の取り決めを設けてくださるのは、

他でもない長老たちではありませんか。





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会衆に交わる全ての人たちは、

自分自身の不完全さや罪深さと

毎日闘っているのです。

長老たちも例外ではありません。



しかも、長老たちは

成員の誰かが困っていて援助に忙しくしていても、

「内密の事柄」として扱っているゆえに

他の成員には気付かれないように

多くの働きをこなして行かなければなりません。



それでも、次から次へと問題が生じます。



会衆内の不和。

家族内の問題。

自身の問題。

会衆の必要。

家族の必要。

自身の必要。





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完全な「釣り合い」を長老たちに求めたいと思うことも

あるかもしれません。

しかし、

「対処しにくい危機の時代」である今日、

一体誰が長老として

「完全な働き方」

「完全な歩み方」

が出来るというのでしょう。



あなたが本当に困ったとき、

長老たちは確かに助けてくれます。

では、それ以上に、

長老たちに何を求めるべきでしょうか。

その前に、

感謝できることを探すべきではないでしょうか。



「働き人が少ない」のは、

伝道の面だけではありません。

「指導者」「年長者」も不足しているのです。

であるがゆえに、

長老たちには本当に多くの要求が課せられます。



あまりにも考えることが多くて、

長老自身の足元がぐらついてしまったとしても、

一体誰がこれを責めてよいでしょうか。

あなたには、

長老たちを助けることはできなかったのでしょうか?

長老たちが苦しい思いをするのは、

彼等自身の不完全さだけが原因でしょうか。





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私たちが長老たちに求めても良いこと。

それをよく考えましょう。

私たちが「自分で」扱わなければならない状況。

それをよく見極めましょう。

成員一人一人が対処すべき問題。

それをはっきりと判別しましょう。



政治家であれ、

教師であれ、

上司であれ、

下の人たちがどんなに問題を起こしても、

上の人たちが注目され、

責任を追及されてしまう。



そういう世の中で

今わたしたちが暮らしているという事実を、

クリスチャン会衆内においても

決して見失わないように注意しましょう。







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納骨堂ですが、なにか?

千葉大会ホールの敷地内に建設されている納骨堂についてネット上で時々議論になることがあるので、自分なりにこの問題について考えてみた。というのも実は自分としては何でこのことが問題になるのかということ自体が疑問だったからである。

死者を手厚く埋葬すると言う習慣は洋の東西を問わず人類にとって普遍的といっても良い習慣である。アブラハムやサラ、イエス自身も墓に埋葬されている。そして御存知のようにアメリカのベテル、正確には現在アメリカにおける印刷出版業務を一手に引き受けているウォールキルの「ものみの塔」農場の敷地内には墓地があるのは有名な話だし、他にもブラジル支部など土地に余裕のある支部にはやはり墓地があってベテル奉仕者であれば誰でもあらかじめ希望しておけば万が一のときにそこに埋葬してくれるそうである。実際問題多くの国では土葬が主流なのでベテル奉仕者に限らず全てのエホバの証人は亡くなった時には埋葬場所を必要としているのである。

そうやって考えていけば日本にも協会の所有する施設内に墓地なり納骨堂なりがあっても「だから何の問題があるの?」と感じるほうが本当だろう。でもそうは感じない人がかなりの数に上る、現役、元を問わず多くの人が多少なりとも困惑していることが様々な書き込みからうかがえる。(自称擁護派の「実はあの納骨堂には別の用途があるのだ」などというとんでもない書き込みまであったのには笑った)

なぜだろうか。なぜ多くの日本のエホバの証人はこの話に引っかかりを感じるのだろうか?まず第一に、ある有名なサイトによると日本のある地域ではエホバの証人の成員が亡くなったときには遺骨は埋葬せず処分しなければならないという暗黙のルールがあったということである。実は自分の場合これも意外だった。というのも自分も何度かエホバの証人の葬式に出たことがあり、特に子供の頃など興味があって、どこに埋葬されたのか(子供ながらも寺に付属する墓地に埋葬するのは良くないのではないかという思いがあったからだろう)を尋ねたりしたこともあったが、少なくとも自分がいた地域では市営の共同墓地に埋葬されたと言う答えが長老達から帰ってきてそれで納得していたので。

もちろんこんな指示は協会の出版物をどんなにひっくり返しても出てこないし、上に述べたようにこれは日本だけのローカルルールと言っても差し支えないだろう。ではいったいどこからそんなルールが出てきたのか。協会のライブラリーを検索してみて唯一これが原因ではないかと思える記事を見つけることができた。

目ざめよ 76年 11/22 16‐19ページ 「日本の葬式の費用はかかり過ぎる?」という記事である。全体を読んでみるとこれは日本の「目ざめよ通信員」による寄稿であり、日本の葬式がいかに金のかかるものかを具体的な数字を挙げて述べている。そしてそれに比較して日本のエホバの証人の葬式がいかに質素なものかが強調されているわけである。でもその簡素さを強調するくだりで問題の記述がある。

(引用始まり)
「エホバのクリスチャンの証人の行なう葬式は,伝統的な仏式の葬式とくらべて普通の場合はるかに少ない費用ですみます。これは聖書の勧める慎み深さと穏当さに加えて,死者に関する聖書の教えを彼らが理解しているためです。一例として,最近エホバの証人の王国会館の一つで行なわれた葬式を考えてごらんなさい。
葬儀屋に提供を求めたものと言えば棺と,遺体を火葬場に運ぶライトバンだけでした。故人を火葬に付してのち埋葬するたいていの仏教徒は墓石に多大の費用を投じますが,この場合のクリスチャンの家族はそれも必要のないものと考えました。最も大切なのは創造者の前における人の立場であることを悟っていたからです。創造者はキリストの犠牲によって贖われた人々を将来,復活させるでしょう。この家族は仏教徒がするように毎年,宗教的な墓参りをすることもありません。これもまた墓石に費用をかけない別の理由です。」
(引用終わり)

確かにこれはいろいろに解釈できそうな文章である。「それも必要ないもの」と言ったときの「それ」が高価な墓石だけのことを言っているのか「後に埋葬する」ことも含んでいるのかが明確ではない。棺と火葬場に遺体を運ぶバンだけを頼んだというくだりでは遺骨の埋葬がなされなかったことを暗示しているようでもあるが、でも最後には「これもまた墓石に費用をかけない別の理由です」というところは高価な墓石は購入しなかったが埋葬はなされたように取ることもできる。

いずれにしてもこの件について、つまり埋葬すべきではないといった見方を裏付ける明確な指示はないのである。

日本のエホバの証人が墓あるいは埋葬について複雑な思いを持っている根本的な理由は、日本の場合それが先祖崇拝と密接に結びついているからに他ならない。実際それが原因で今でも親戚の葬儀の際などに苦労をしているエホバの証人は少なくないはずである。またエホバの証人になるにあたって以前に持っていた様々な習慣を捨て去ったり、その過程で親族友人からの様々な圧力を経験してきた人は多いはずである。それらを振り切って献身した人の場合は特にこの問題に関して適切なスタンスが取れなくなり極端な傾向が現れても不思議ではない。

実際に避けなければならないのは焼香などの崇拝行為、あるいはお供えをするなどの霊魂不滅の教理に根ざした習慣だけなのだが、日本の場合それらの行為が葬儀や埋葬の習慣とあまりにも密着しているので感覚的に切り離すことを難しく感じてしまっても不思議ではない。


これが他の国、とりわけキリスト教国の場合は事情が全く異なってくる。そう、キリスト教は一神教であり、崇拝しなければならない対象は神のみである。


墓は崇拝の対象ではないのだ。

だから墓や埋葬に関するスタンスは全く異なっていると言えるだろう。時々映画でもやるように教会で告別式があった場合どうするかといった問題はあるかもしれないが、それを除けば基本的にエホバの証人式ではない葬儀や埋葬に立ち会ってもそこで何の崇拝行為も求められることはないのでなんの問題もないはずである。

結論として日本人と外国人との間ではこの問題に関して大きな見方感じ方の違いがあるということは言えるだろう。だから前出の日本の目ざめよ通信員の同じ記事を読んでも恐らく大半の外国人は日本の葬式が高価であるという事実だけに注意を引かれただけであるのに対し、多くの日本人はあえて行間を読み取ってしまってあのくだりが埋葬禁止を暗示していると取ってしまったのではないだろうか。

あの記事の筆者にその意図があったかどうかは分からないが、いずれにしても各国の通信員の記事というのは、最終的に統治体の許可を得て掲載されているとはいえ筆者の見解が強く反映されるものであり、それが必ずしも統治体の意図と合致しているわけでないこともある。だから時々「読者の声」のなかでそれらの記事が叩かれることさえある。自分がよく覚えているのは「オートバイ、路上の騎士あるいは破壊者?」という日本の、恐らくバイク好きの人によって書かれたと思われる寄稿が後日、幾人もの読者によって「あんな危険なものとんでもない」叩かれていた、つまりそういう意見を載せることによってこれは決して統治体の公式の意見ではないことを示したわけである。

前出の日本の葬式に関する記事も同じような通信員による寄稿と言うことで、ものみの塔の研究記事などとは重みが全く違うと言うことも覚えておくことができるだろう。

さて、では何で日本支部は納骨堂を作ったのだろうか。始めに断っておくが自分はベテル関係者でもなんでもないので、これから述べることは全くの推測である。でもあえて大胆に推測してみると。

まず、なぜ納骨堂を作ったのか。当然それは誰かを埋葬する必要があったからだろう。日本では法的に遺骨をどこでも勝手に埋葬することはできない。きちんと埋葬所あるいは納骨堂として登録されている場所に埋葬する必要がある。(埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行つてはならない。という条文がある)その理由でかつでは海などに散骨することは日本では遺体放棄として法に触れると考えられていたようだが最近の政府の見解では違法とは見なされてはいないようだ。

でもそうであっても、散骨するには生前の本人の明確な希望がなければならないであろう。それがない場合、公営の墓地の区画を購入して埋葬するか、あるいは一部のエホバの証人がやっているように焼却場で遺骨をすべて処分してもらうことになる。でも遺骨をその場で処分してもらうと言うことはかなり稀なことであって、焼却場によってはやってくれないところさえあるようである。

で、協会の所有地に埋葬される必要があったのは誰かと言うことになるのだが、自分としてまっさきに想像がつくのは海外から来た宣教者達である。彼らのほとんどはかなりの高齢になっており、すでに亡くなった方も少なくない。協会はこれらの宣教者達の世話を最後まで行う責任を持っている。そして子供のいない彼らの場合、亡くなっても遺骨を引き取ってくれる人は恐らくいないだろう。

だからと言って親族でもない人が斎場で(宣教者の場合、日本に親族がいるはずもないので)遺骨を処分してくれと言うのはおかしなことだろう。高齢の宣教者たちは現在海老名ベテルに移っているようだが、そうなると住所からも「ものみの塔」の職員であることは分かってしまうし、そんなことが続けば海老名市の斎場から「ものみの塔」では亡くなった職員の遺骨を埋葬せずに次々に破棄しているなどというとんでもないうわさが流れてこないとも限らない。狂信的と思われないためにも遺骨は通常通りに引き取るしかないだろう。でも引き取ってしまえば今度は埋葬しなければならない。

でも、公営の墓地を一人一人のためにいちいち購入するのは費用的にもばかにならない。ネットで調べてみると公営と言っても一区画50万円から150万円くらいはするようだし、それ以外にも毎年永代使用料を払い続けなければならない。

しかも万が一それら宣教者の遠い親戚などが海外から訪れて彼らがどこに葬られたのかを知りたがったりした場合のことを考えても本人の同意なく勝手に遺骨を処分するのははばかれることであろう。そうやって考えると最も費用がかからないのは協会所有の土地の一部を埋葬所として登録することであろう。そうすれば高い費用を払って外部の墓地を購入する必要はない。

さらに想像力を働かせると、もしかしたら日本支部は日本人の感情を考慮に入れて当初そのような可能性は考慮に入れていなかったかもしれないが、定期的にある地帯訪問などで統治体の成員やあるいは彼らに任命された他の海外からの監督から、他の支部には墓地があるのになんで日本支部にはないのかと言われた可能性すらある。(なにせ最近はどの支部も費用削減に躍起になっているようだから)

では、なぜ日本支部はそのことを公表しないのだろうか。まあ、他の支部でも別にわざわざうちには墓地がありますよと公表しているところはないだろうし、そんなことをわざわざ公表する必要性や機会というのはないということだろうか。うん、たしかに王国宣教とかに「ついに納骨堂完成!」とか載るのは変かも。前にも言ったように決してお参りをする目的ではないので。

(後記)

この記事に対してたくさんのコメントを頂いたが、その中で過去に長老団宛の手紙としてこの件は個人の決定の問題であり、先祖伝来の寺院墓地に埋葬すること、そのために寺院に料金を支払うことさえ問題がないとする明確な指示が与えられていたと言うコメントがあった。その方の書き込みによると:

「以下は長老団宛の手紙の抜粋です。
1988年1月29日付

エホバの証人が関係する葬式に関する情報
(第2ページ目)

火葬および遺骨の扱いについて

時として火葬場で,あるいは遺骨の取り扱いに関し問題に直面する場合があります。火葬後の遺骨の扱い方について,あるクリスチャンは「あなたは塵だから塵に帰る」と述べた創世記3章19節の言葉を考慮し、遺骨を持ち帰らないことにしました。それが可能なら,そうすることは全く問題ありません。しかし,地方によっては遺骨を持ち帰るよう条例で定めているところもあります。ある証人は死者に対する敬意と,遺体を敬意を持って扱った神の僕たちの例に倣って遺骨を持ち帰り,納骨堂に納めるという方法を取ります。この「納骨堂」は,都道府県知事の許可を受けた公共または民間の施設ですので,その後の宗教行事を何ら心配することなく利用できます。しかし,持ち帰った遺骨を自分たちで勝手に埋めたり,処分したりすることは違法行為となります。


次に,納骨堂の代わりにきちんとした墓に遺骨を埋蔵したいと考える人がいるかもしれません。証人自身が宗教儀式に何ら関係を持たずにすむようであれば,先祖伝来の墳墓のある寺院墓地または霊園など,一般の施設を利用することに問題はありません。ただし,寺院墳墓の場合,寺側が納骨に関連し宗教行事を執り行うことを慣例にしている所もありますので、事前に十分に話し合い,寺側の協力と理解を求めることができるでしょう。寺院墓地を利用するに際し支払われる金銭は,偽りの宗教を支持するためのものではなく,単に土地の使用料および管理費とみなすことができます。

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以上述べた事柄は,葬式を執り行うことになるかもしれない長老たちにとってはもちろんのこと,葬式に関連したさまざまな疑問を抱く兄弟姉妹たちにとって大変役立つ情報となるに違いありません。それで,この情報をまず長老および奉仕の僕たちと共に話し合い,葬儀に関連した種々の問題にあらかじめ通じ,関係する方々を指導できるよう備えをして
いただきたいと思います。

※ この手紙には,他にも「葬式や法事」に関する見方などについても記されていますが,特に注目すべき内容は含まれていません」

ということであった。確かに組織はこの件に関して平衡の取れた実際的な指示を与えていることが分かる。寺院墓地に埋葬することさえ問題ないのであれば、大会ホールに納骨堂があって一体何が問題なのと感じるのは当然であろう。

ではいったいなぜ埋葬を非とするようなローカルルールが一部地域で一人歩きしてしまったのだろうか?