カルト宗教を研究する宗教学者たちの定義するところによると、宗教団体の健全さは、一つには、その宗教を実践する信徒たちが自分の宗教団体をどれほど自由に批判できるかにかかっているそうです。
しかし、わたしたちクリスチャンにとって重要なのは、健全な宗教とは何かに関する世の基準ではなく、神の基準です。
そもそも聖書は、世の人が言うような意味での「自由な批判」を許してはいないのですから、世の人たちがこの点でわたしたちを批判し、圧力をかけるとしても、わたしたちはそのようなものに屈するべきではありません。
むしろわたしたちは、世に広く見られるような、人や組織のことを批判してしまうという安易な傾向から自分をしっかりと守っている必要があるのです。
ですから、わたしたちに間違った推論を吹き込み、わたしたちが信仰の仲間を“自由に批判する”よう仕向ける背教者の牧師たちには特に注意しましょう。
背教者の牧師たちは、しばしばわたしたちに対し、「わたしは自分の教会の信徒たちに、『わたしのことを自由に批判しなさい』と勧めていますが、あなたのところはどうですか」と尋ねてきます。
しかし聖書は、仲間の兄弟の間違いを批判するよりはむしろ、「全くへりくだった思いと温和さと辛抱強さをもって愛のうちに互いに忍び、一致を守るために真剣に励みなさい」、また「温和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努めなさい」と勧めています。(エフェソス 4:2-3, ガラテア 6:1)
ですから、彼ら背教者の牧師たちは、「自分たちは聖書の教えに従っている」と主張してはいますが、実際には聖書の基準を退け、世の基準で物事を判断するように人々に訴えているのです。
一方、背教したキリスト教の牧師たちとは対照的に、クリスチャンとして正しい道を歩みたいと願うわたしたちは、クリスチャンが批判してはならないこととは何かを、そして批判の仕方はどのようであるべきかを知ろうとして聖書を注意深く調べます。
そうするなら、わたしたちはクリスチャンとして円熟し、批判することに関する間違った教えから守られることとなるでしょう。
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聖書の中には、立派な信仰を持ち、振る舞いも立派であったにもかかわらず、信仰の仲間であるはず人々からの様々な批判を受けた、パウロに関する記述があります。
パウロを批判する人たちの中には、このように言う人さえいました。
「彼の手紙は重々しくて力強いが、身をもってそこにいる様は弱々しく、その話し方は卑しむべきものだ」。(コリント第二 10:10)
何が間違っているのでしょうか。
これらの批判者たちにとって重要だったのは、パウロの伝えようとしている音信がどのようなものであるかではなく、パウロの手紙の文の書き方がどうであるかとか、パウロの振るまいがどうであるかとかいった、実際にはどうでもよい事柄だったようです。
彼らは、パウロのが手紙の書き方が立派なものであることは認めざるを得ませんでしたが、そのことでパウロのことを褒めたいとは全く思いませんでした。
ですから、彼らは卑怯な言い回しに訴えることにしました。
彼らは、積極的な見方をしようとさえすれば、「彼の身をもってそこにいる様は弱々しく、その話し方は卑しむべきものに見えるが、その手紙は重々しくて力強いではないか」と言えるはずでしたが、そのようには言わなかったのです。
ですから、パウロはそのような批判に対し、「離れているときの言葉におけるわたしたちと、共にいるときの行動におけるわたしたちとは同じです」と答える必要がありました。(コリント第二 10:11)
パウロの返答がもっともなものだったことには、あなたももちろん同意されることでしょう。
しかし、わたしたちはこのような無価値な議論に流されて、最も重要な点を見失うべきではありません。
実のところ、パウロが非難されたような、話し方がどうかとか、書き方がどうかとかということはわたしたちには全く重要なことではないのです。
わたしたちにとって重要なのは、話し方や書き方ではなく、そこに記されている、パウロの音信はどうなのかということなのです。
結局、これらの批判者たちの議論は、パウロの持つ些細な長所や短所に人々の思いを向け、もっとも重要な論点から人々の注意をそらすものとなりました。
しかし、そもそもなぜ、パウロのような立派な人にこのような問題が生じたのでしょうか。
実のところ、このような問題がパウロに関して生じたことには、その背後に神の知恵の密かな働きがあったのです。
一世紀のクリスチャンの中には、パウロのように、聖霊の力による特別な啓示を受けるという体験をした人たちがいます。
そのような人は、「第三の天」がどのようにパラダイスの祝福をもたらすかについての壮大な知識を得ました。
「その人はパラダイスに連れ去られ、人が話すことを許されず、口に出すことのできない言葉を聞いたのです」。(コリント第二 12:4)
この啓示はその人にどのような結果をもたらしたでしょうか。
「わたしはそれを誇ることを控えます。だれも、ただその啓示の過大さのために、わたしについて見るところ、あるいはわたしから聞くところを越えて、わたしのことを高く評価するようなことのないためです。それゆえ、高慢になることのないよう、わたしは肉体に一つのとげを与えられました。それはサタンの使いであって、わたしが高慢にならないよう、わたしに終始平手打ちを加えるためのものです」。(コリント第二 12:6-7)
パウロはその知識に接したとき、その知識の重大さを悟り、その知識は決して語ってはならない種類のものであるということをはっきりと理解しました。
しかし、それだけではありません。
神は、そのような知識を得た人が高慢になってそのことを話してしまうことのないよう、いわばその人に呪いをかけられたのです。
そしてそれは、ある人たちの目には、あたかもパウロが悪霊にでもつかれているかのような印象を与えるものとなりました。
信仰のない人々は、そのようなパウロの「見るところや聞くところ」によってパウロのことを低く評価し、その外見を越えてパウロのことを高く評価しませんでしたので、こうしてパウロの言うことを信用できなくなりました。
そしてこのことは、エホバにとっては一種の保険のようになったのです。
そうです、これはまさしく神の知恵なのです。
しかしパウロはこう語ります。
「もしわたしたちの宣明する良いたよりに事実上ベールが掛けられているとすれば、それは滅びゆく人たちの間でベールが掛けられているのであり、その人たちの間にあって、この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし、神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです」。
「わたしたちはこの宝を土の器に持っています。それは、普通を超えたその力が神のものとなり、わたしたち自身から出たものとはならないためです。わたしたちは、あらゆる面で圧迫されながらも、動きが取れないほど締めつけられているわけではなく、困惑させられながらも、逃れ道が全くないわけではなく、迫害されながらも、見捨てられているわけではなく、倒されながらも、滅ぼされているわけではありません」。
「わたしたちは常に、イエスに加えられた致死的な仕打ちを、自分たちの体のいたるところで耐え忍んでいます。わたしたちの体の中でもイエスの命が明らかになるためです。生きているわたしたちは、イエスのために絶えず死に直面させられていますが、それは、わたしたちの死すべき肉体の中でも、イエスの命が明らかになるためなのです。こうして、わたしたちのうちには死が働いています」。(コリント第二 4:3-4, 7-12)
この言葉から分かるように、同様のことは、使徒職を受けたパウロをはじめとする聖なる者たちすべてにも当てはまりました。
神からの霊の注ぎを受けた聖なる者たちは、どちらかと言えば、外見においては乏しい人たちでした。
パウロの用いた表現を借りるなら、彼らは生きてはいても死んでいるに等しいかのように見えました。
その結果、世は良いたよりを宣べ伝える人々の「愚かさ」を見て良いたよりを批判するようになり、全く神の知恵を理解しなかったのです。
「もしわたしたちが気が狂っていたとすれば、それは神のためであり、もし正気であるとすれば、それはあなた方のためだからです。それは、外見を誇って心を誇らない人たちに対する答えをあなた方に得てもらうためです」。(コリント第二 5:12-13)
「神は世の愚かなものを選んで、賢い人々が恥を被るようにされました。また、神は世の弱いものを選んで、強いものが恥を被るようにされました。また神は、世の卑しいものや見下げられたもの、無いものを選んで、有るものが無になるようにされました。それは、肉なる者がだれも神のみ前で誇ることのないためです」。(コリント第一 1:27-29)
神の知恵は、ご自身のものである真の知恵を人々に提供するにあたって、それを人間の持つ愚かさで包んでしまったことにあります。
ですから、神からの良いたよりに接したいと思う人は、この愚かさの殻に惑わされることなく、その中身に注目する必要があります。
そして、パウロの外見を批判した人たちは、パウロの外見ばかりに気を取られて、パウロが告げようとしている音信に目を留めることができなかったのです。
では、このことからわたしたちは批判することに関してどのような警告を受けるのでしょうか。
2つの事例をもとに考えてみましょう。
(1)
背教者の牧師の中には、パウロを非難した人たちのやり方に倣い、次のような言い方でわたしたちに批判的な見方を植え込もうとする人たちがいます。
「エホバの証人は立派な人たちだ、わたしはエホバの証人の大部分が正直でよい人たちであることを知っている。しかし問題なのは、彼らを導いている指導者たちが正直であるかどうかだ」。
「エホバの証人は本当に熱心な人たちだ。しかし重要なのは、彼らの属している組織が本当に神の唯一の組織であるかどうかということだ」。
確かに、こういう問いはわたしたちにとって重要な事柄です。
わたしたちにはそれに対する答えもあります。
しかし、クリスチャンとしての健全さは、その人の属している組織や指導者よりも、むしろその人自身の状態にあるのではないでしょうか。
もし、わたしたちエホバの証人ひとりひとりがクリスチャンとして立派なら、それらの正直で熱心で謙遜な人たちが、僕や長老になったとたん、うそつきになったり怠慢になったり高慢になったりすることはないはずです。
また、そのような立派なクリスチャンたちによって構成されている組織は、それとは別に同じような人々からなる組織がない限り、神に認められる唯一の組織となるはずです。
ですから、このような背教者の質問は、エホバの証人に関する事実からわたしたちの注意をそらすだけでなく、わたしたちがより重要な事柄を見失ってしまうようにさえ仕向けるものなのです。
ですから、わたしたちはこういう推論に注意して、自分の思いが重要な点からそらされないように努力する必要があります。
(2)
エホバの証人の出版物には、聖書に記された神の道徳規準を擁護する言葉が数多く記されています。
わたしたちはしばしば、世の道徳規準と聖書の道徳規準とを比較して、「世の価値基準は時代と共に変わりゆくものであり、信頼できませんが、聖書の価値基準はそのようなものとは異なり、時代と共に変化するということがありません」などと言います。
すると、背教者たちはこのように答えるかもしれません。
「確かに、聖書の教えは神の言葉であり、不変のものだ。しかし、不変の聖書に基づいているとされるエホバの証人の教えはどうだろうか」。
そして背教者たちは、エホバの証人の過去に犯した間違いをいろいろと列挙することでしょう。
確かにこれは、わたしたちにとって重要な問題です。
わたしたちは、自分の間違いを認めてそれを正してきましたし、これからもそうあるべきです。
その結果、わたしたちが聖書から教えてきたある事柄は不正確で信用できないものだったことが明らかになってきました。
しかし、ここで背教者たちが成し遂げようとしている事柄には警戒しなければなりません。
すこし落ち着いて考えてみましょう。
エホバの証人ほど、聖書の道徳規準を擁護し、人々に実践させることに成功してきたキリスト教の宗派はどこにあるでしょうか。
他方、道徳に関するキリスト教世界の状態はどうでしょうか。
答えは非常にはっきりしています。
ここに書く必要がないくらいです。
ではどうでしょうか。
聖書の道徳規準を教え、実践する点で成功してきた人々からなる宗教は、たとえ失敗があるとしても、神のみ言葉を擁護する資格を備えているのではないでしょうか。
では、それらの人たちが聖書の道徳を人に教えようとしているときに、横やりを入れてじゃまをする背教者たちは何をしているのですか。
そうです、これらの人たちは、神の言葉が正しい仕方で人々に伝わるのを阻んでいるのです。
実績ある水泳の教師が新しい人に正しい泳ぎ方を教えようとしているときに、その教師の過去を知る人が現れて、その人が泳げなかったころの話をしきりに吹聴して回るなら、その人は人々のひんしゅくを買うのではないでしょうか。
ですから、このような背教者の論法は、エホバの証人に関する事実から人々の注意をそらすだけでなく、人々がより重要な事柄を見失ってしまうようにさえ仕向けるものなのです。
わたしたちはこのことを覚えておくことにしましょう。
最初にキリスト教の教えが伝えられたとき、ユダヤ人の中には高等な教育を受けた人たちや、物事を行う点で訓練を受けた人たちがたくさんいましたが、神に選ばれて聖なる者となり、人々を指導したのは、それらの人々ではなく、たとえば漁師のようなごくごく平凡な人たちでした。
「兄弟たち、あなた方が自分たちに対する神の召しについて見ていることですが、肉的に賢い者は多くなく、強力な者も多くなく、高貴な生まれの者が多く召されたのでもありません」。
「神は世の愚かなものを選んで、賢い人々が恥を被るようにされました。また、神は世の弱いものを選んで、強いものが恥を被るようにされました。また神は、世の卑しいものや見下げられたもの、無いものを選んで、有るものが無になるようにされました。それは、肉なる者がだれも神のみ前で誇ることのないためです」。(コリント第一 1:26-29)
これらの人たちは、物事を組織し、神学上の論議を推し進める点で訓練を受けていたわけではありませんでした。
ですから、これらの人たちの間にはそれに応じた混乱がありました。
たとえば、パウロが諸国民のクリスチャンたちに律法の終わりについて教えているときでも、これらの人たちの中には、「兄弟、あなたが見るとおり、わたしたちはみな律法に対して熱心です。しかし、わたしたちはあなたについて、あなたが諸国民の中にいるすべてのユダヤ人に対してモーセからの背教を説き、子供に割礼を施すことも、厳粛な習慣に従って歩むこともしないように告げている、とのうわさを聞いています」などと言う人たちが大勢いました。(使徒 21:20-21)
ですから、パウロはこれらのユダヤ人たちに宛てて書いた手紙の中で、「その弱さと効果のなさとのゆえに、先行のおきては押しのけられることになります」、「廃れたものとされて古くなってゆくものは、近く消えてゆくのです」と語る必要がありました。(ヘブライ 7:18, 8:13)
このことを知るなら、わたしたちは、使徒15章に記されている1世紀の統治体の決定も、教理上の決定としてはずいぶんと未熟なものであったことを理解することができます。
一世紀の統治体でさえ、自分たちの下した決定が諸国民に限定されるものではないことを認め、考え方や物事の行い方を訂正する必要があったのです。
しかし、このような未熟な人々こそが、神から選ばれた人たちでした。
ですからわたしたちは、選びに関する神の見方を考慮に入れ、信仰によって神に受け入れられている人々の未熟さをむやみに取りあげないことによって、他の人だけでなく自分自身をも選んでくださった神に敬意を払う必要があります。
この現代においても、高等な教育を受けたわけでも、物事を組織する点で訓練を受けたわけでもないのに、神に受け入れられる信仰を示し、神に用いられている人たちからなる集団があります。
そうです、それはわたしたちエホバの証人のことなのです。