がんと闘う(11)
ミスターシービーで3冠 吉永師が死去。64歳胃がん
「伝説」の87年菊花賞。記憶に残る名人また一人…
ミスターシービーを史上3頭目の3冠に導いた、元騎手でJRA調教師の吉永正人(よしなが・まさと)氏が11日午後12時51分、胃がんのため茨城県牛久市内の病院で死去した。64歳。鹿児島県出身。通夜は13日午後6時から、葬儀・告別式は14日正午から、ともに茨城県美浦村美駒2500の2、美浦トレーニングセンター厚生会館本館=(電)029(885)1816=で。喪主は長男でJRA騎手の護(まもる)氏。ミスターシービーとのコンビでは、最後方からの追い込みという豪快な戦法で一世を風靡(び)。シービークロス、モンテプリンスなど強豪馬の手綱を取り競馬ファンをうならせた。
減量苦と闘い、ミスターシービーで3冠制覇の偉業を達成した不屈のホースマンが静かに逝った。吉永氏は1カ月前から千葉・柏の国立がんセンターに入院。胃がんの治療が続けられたが効果はなく、数日前に自宅に近い茨城県牛久市の病院に転院していた。
前日の夕方、中山競馬の騎乗を終えた長男・護騎手が見舞いに訪れた際は元気そうな様子で、「そろそろ帰るよ」と病床の父に声をかけると「うん」と返事が返ってきたという。ただ、11日朝になって病状が急変。護さんや長女悦子さん、二女泳子さんら親族にみとられて安らかに旅立った。護さんは「痛みが激しかったのに、これまでよく頑張った。今はお疲れさまと声をかけてあげたい。3冠も獲ったし幸せな人生だったと思う」と静かに語った。
競馬ファンに残した記憶は鮮烈だった。ミスターシービーで史上3頭目、シンザン以来19年ぶりの3冠を決めた83年菊花賞は今も語り継がれている。1周目は最後方。2周目3コーナーで常識破りの仕掛けを試み、3馬身差の圧勝。杉本清アナウンサー(当時)が「大地が弾んでミスターシービー!これが3冠の脚!」と絶叫した。
豪快なレースぶりとは対照的に、普段は寡黙だった。3冠を達成しても出てくるコメントは「馬の気に任せた、それだけです。力を信じていたから…」の繰り返しだった。
最愛の妻を胃がんで亡くし、護さんを含む3人の子供と離ればなれで暮らす時期があった。そんな精神的な苦痛に加え、骨太で筋肉質のために油断すると60キロになってしまう体重を、週末には51キロまで落とす減量苦とも闘わなければならず、成績が落ち込んだ。故寺山修司さんはそんな吉永氏をエッセーで「最後方強襲戦法の名手」と称え、エールを送り続けた。
寡黙な仕事師の孤独は、後に「気がつけば騎手の女房」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するみち子さんと77年に再婚(後に離婚)、シービークロス、モンテプリンス、そしてミスターシービーといった名馬と出合うことで解消していくことになった。体力の限界を理由に引退、89年に調教師になってからはファイヴナカヤマ、ジーティーボスなどのオープン馬を送り出したものの、騎手時代ほどの輝きは放てなかった。調教師定年まで残り6年足らず、最後方からの強襲が得意だっただけに、これからが活躍の時だったのかもしれない。競馬サークルはまた1人、偉大なホースマンを失った。
9月11日(月)
●●訃報●●吉永正人調教師逝去-------------------------------------------------------------
騎手時代に3冠馬ミスターシービーやモンテプリンスとの名コンビで知られ、一気の追い込みや果敢な逃げなど個性的な思い切った騎乗で多くのファンを魅了した吉永正人調教師(享年65歳)が、今日11日(月)午後12時51分、病気療養中のところ亡くなった。
通夜は13日(水)午後6時から、告別式は14日(水)午後12時から、美浦トレーニングセンター厚生会館本館で行われる(喪主は長男の吉永護騎手)。
吉永正人
昭和16年10月18日生まれ
鹿児島県出身★騎手時代の成績
通算2753戦461勝(昭和36年~61年まで)
重賞37勝
8大競走勝利 6勝(他に宝塚記念1勝)★調教師時代の成績
通算3586戦199勝(JRA競走のみ、平成元年開業)
重賞1勝 平成10年中山大障害・秋(ビクトリーアップ)(JRA報道室発表)
王監督 84日ぶりに福岡入り 現場復帰に強い意欲 2006年9月29日(金) 10時4分 毎日新聞
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