がんと闘う(9)

がん発症から9年
       再発で玄米食を再開。医学的根拠なくても、やり抜いた自信支え

ノンフィクション作家 柳原和子さん

自宅に近い金戒光明寺で。歩くことは健康法の一つだ =京都市(柳原さん提供)

一度はがんを克服した柳原和子さんですが、初発から6年半後に再発。それを機に、一時期やめていた玄米食を再開し、抗がん剤や放射線、ラジオ波治療など、さまざまな現代医療にも取り組みました。そして。がんは消えました。しかし、消えては再発をくり返すがん。達観の域に達した柳原さんは、新たな夢も描き始めました。

再発の予感はありました。その1年半前から徐々に腫瘍マーカーの数値が上がり、一度も下がらなかったからです。でも一方ではもう治ったと思っていました。
仕事も再開していたので、玄米菜食と気功などのうち、そのころ実践していたのは「野菜が多い食事」ぐらいです。
腹部へのエコー検査で発見されたときには、肝臓に最大で5センチのがんが15個もできていました。「余命6ヶ月」を告知され、2日2晩泣きくれました。でも3日目に立ち上がったんです。

さまざまな代替療法をしていた5年間は再発せずに済んだ。なのに、やめてから半年で腫瘍マーカーが上昇した。代替療法の何が良かったかは分からない。でも、何かがある。私は保険の効かない漢方薬を再度飲み始めました。
夜明け前に起きて、気功をしながら歩くという日課も再開し、玄米を炊いて根菜のみそ汁もつくりました。
再発のがんの治療が難しいことを思い、保険の効かないリンパ球療法や、腫瘍巣のある部位を温める高速温熱療法も取り入れました。それでも、初発のときのように一切の社会生活を捨てることはしませんでした。

初発の3年間は、家族や友人、知人からのカンパでしのげたんです。母を亡くしたときに、自ら同じ病気になってその記録を残すと決意した「20歳の誓い」を活字にするよう、出版界から求められてもいましたので、貯金ゼロでしたが、仕事をせずともさまざまな代替療法にも取り組めました。

最発の時は違いました。最初の1年は玄米菜食などのプログラムを徹底しましたが、死ぬ準備もしないといけないし、生活費も稼がないといけない。だから仕事もして、ご飯も楽しんだ。ふつうに生き抜くことを目標にしたのです。

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初発の時の記録は「がん患者学」などに記しましたが、そのころは医療への違和感について、「医師が変わるべきだ」と思っていました。でも、再発後「患者も変わるべきだ」と思うようになりました。

「がん患者学」を読んだ10年目の医師から、「著書を読んで患者のことが初めて見えた」と言われました。医師には患者の姿が見えていないのです。だから、患者はもっと自分の意見を言わないといけない。
私は最先端の治療を受けてきましたが、それは再発した先輩患者がなりふりかまわず医療を求める姿を見てきたからです。私はその姿に学びました。
それに怖かったのです。がんの告知は死、恐怖です。恐怖は古い脳で感じるのに、医療は新しい脳である前頭葉での理解を求める。恐怖は理解を越えるのに、恐怖を抑えるものを現代医学はもたない。

でも、玄米菜食などの代替医療は恐怖を静めてくれるんです。私がかかわったがん患者で現代医療の予測を超えて長生きしている人は食事、生活への考えを変えている人が多い。中でも一番多いのが玄米ですし、玄米菜食の良さは私の体で確信しています。
医学的なエビデンス(証拠)はない。でも、「何かをやっている」「やり抜いた」という自信はその人の命を支えるのだと思います。
オーストラリアの原住民、ポリジニは「何カ月後に死ぬ」と言われると、病気でなくても死んでいくらしいのです。人間はそれほどもろくて、弱くて、そして強いのです。

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再発がんは2年後に消えましたが、昨年12月に再度、肝臓にがんが発見され、脾臓や傍大動脈リンパ節に多発転移しました。
「がんに体が負けてきた」と思い、もうだめかと思いました。ガンを書くことにこだわり続けてきましたが、「もういいな」と思えるようにもなりました。何者でもない私にとって一日一日を積み上げる。そんなふうに思ったら、なんとなく、長生きできるような気もして…。
実際、5月中旬の検査ではがんがすべて消えていたのです。
もちろん、またすぐに出てくると思います。抗がん剤の微量投与で対応しようと思いますが、それとは別に、がん以外の仕事をしたいと思い始めています。私が幼かったころの日本にあって、今日の日本にないものを、やわらかい文章で書けたらいいと思っています。

=6/2産経新聞=