それでも、私はあえていいます。「なぜ、そんなに死に急ぐ」と…。(2)
        =歌人 宮田美乃里の壮絶な死をふりかえる=

宮田美乃里さんの頬を伝う涙の意味

宮田美乃里さんの「書き込み」(No.740)を読むと、自分がいかなる考えによって「乳がん」の医学的治療を拒絶することによって死を迎えるのかということが述べられていて、生き抜こうとする意欲が感じられない。これに対して、多くの方から励ましや批判やさまざまな「書き込み」がある。それらは、宮田美乃里さんにとって、どれもが正しく、どれもが的外れなのかもしれない。彼女は幼少の頃より、様々な体験や精神面のことから、厭世的な気持ちをもち、人生の苦しさから逃れたいという思いが強かったようである。

宮田さんの「書き込み」を読みながら、程度の差こそあれ、実は私も同じような人生を歩んでいたのだと思った。
私も幼少の頃から人となじむことが出来なかった。幼稚園でもだいたい一人で遊んでいた。小学校も休み時間は、校舎にもたれて、皆が遊んでいるのを眺めていた。そして、ガキ大将の苛めの対象になっていたように思う。
小学校3年生の冬、軽い結核になり、半年休学した。勉強も遅れたし、学校へ行くようになっても午前中だけで午後は家で安静、体育は見学だった。コンプレックスはますます大きくなった。だから、小学校時代の友達はいない。

以前にも書いたことがあるが、小学6年の担任の先生(男性)が、「子どものころに結核になると、治っても社会に出ると再発することがある」と話したことがある。子供心に「自分の人生は短い」と思った最初だった。
TVで新選組の沖田総司のことを知った。当時は勤皇方が主役のドラマが多かったから新選組は映画でもTVでも常に敵役である。

(司遼太郎は著書の「新選組血風録」のTV映画化の話があったとき「映画やTVは新選組を歪曲して描くから」と断ったそうである。関係者が「先生の意向に沿ったドラマを作りますから…」と何度も頭を下げて、ようやく実現したのが昭和40年「NETTV(10チャンネル)で放送された「新選組血風録」である。これが新選組の史観を変える歴史的なドラマとなった。)

私が見たドラマで、主人公を追い詰めて、あと一太刀で…というところで咳き込む新選組隊士がいた。「沖田総司といって、剣は強かったが、結核で25歳で死んだ」と父が教えてくれた。沖田総司に自分を重ねて、「俺も25歳までの命」と小学生のころから思っていた。
中学1年、友達と夏休みに学校の「水泳教室」へ行く約束をしていたが、ツベルクリン反応が出て水泳禁止。高校1年の春の健康診断で「胸に結核の跡がある。就職に影響するから注意するように」(知らぬうちに結核が出来て治った跡があったらしい)と言われた。それでも、中学、高校と恩師にも恵まれて、級友たちとも遊ぶようになり中学3年の担任は母に「お子さんは明るくなった」と告げた。

18歳で社会人となって、最初の数年間は健康診断が怖かった。入社当時残業が月50時間~70時間。経理で決算の仕事を行っていたから、月のうち3週間は残業漬けで、早く帰れるのは1週間ほどであった。もちろん土日祝日も出勤した。残業の時は毎日退社は午後9時~10時。子どもの頃に聞かされた「社会人になると再発する」という担任の言葉がいつも心にあった。
自分が健康に少し自信を持ち始めたのは、25歳というトラウマの壁を超えた時からだった。だから、それまで自分の人生設計ということは考えたことがなかった。

人生が面白いと思うのは、若いころだけが青春ではない、ということだ。私が「青春」を感じたのは40代からである。今でも青春を感じているかもしれない。
30代になるまで、自分は強度の孤独心を持っていた。暗い人生だった。そして、いつも心の中で「助け」を求めていた。
「提橋さんは面倒見がいい」と言われことがあるが、それは、自分の心の裏返しで、自分がそうして欲しい、助けて欲しいというサインを発している時なのです。でも、それが人に通じることなどあるはずがありません。
そして、そのような状況を救って欲しくて「愛」を求めていた自分がありました。
多分、宮田美乃里さんも同じような思いを持っていたのではないでしょうか。

宮田さんの20代は人生の中でも一番輝いていた時代でしょう。フラメンコダンサーとして活躍し,愛する男性もおられたわけですから。
しかし10年来おつきあいしていた男性が去って、その衝撃から人生の暗転が始まりました。「書き込み」に寄せられた中には宮田さんの生き方を批判するものもあります。「乳がんだからといって人生を簡単に捨ててしまうような生き方はけしからん。世の中にはもっと辛いことを背負って必死に生きている人達がたくさんいる」というような意見もありました。でも、もしかしたら、その人達は、辛さを背負ってもなお耐えて生きるその人の人生を支える「愛」(愛といってもいろいろあります)があるのかもしれませんが、宮田さんはその「愛」を失っていたのです。
人は自分の為にだけ生きて人生の喜びがあるのでしょうか?
人は誰かの役に立ち、誰かのために生きるという生き方もあります。多分宮田さんはそのような生き方しかできない方で、それを失ったために生きる意欲をなくしてしまったのかなあ、と私は思います。

でも、あと10年生きて、40代を迎えたら私のように「青春」に出会ったかもしれない。私の場合は、40代に入って人との出会いによって人生が変わったように思います。もちろん、結婚し子供が出来て、自分の人生は大きく変わりました。しかし、一番大きく人生を変えたのは「電解還元水」という天職を得たことです。
ある医学博士から「電解還元水を普及させることで『病のない社会が作れる』」と言われました。それが真実か否かは別にして
この言葉を聞いたときに心が震えました。この仕事に出会ったから今の自分があります。私がこの仕事を始めた頃は、ブームの後の批判の嵐の中のどん底からのスタートでした。しかし、私や、私の家族の体験、お客様からお礼の言葉をいただくうちに、社会のために役立つ仕事だという確信をもちました。その確信が持てたればこそ,今日までこの仕事を続けててくることができました。人さまから感謝の言葉をいただける仕事に出会えたのは、本当に天の導きだと思っています。
さて、ガンについてですが、西洋医学はガンについてほとんど無力だといわれています。このような現実を知っているから宮田美乃里さんは、治療を拒否して生きることを選択されたのかもしれません。

しかし西洋医学も見捨てたものではありません。西洋医学に従事する医師など関係者の方々で心ある人達が「国際統合医学学会」を立ち上げ、代替医療に取り組んでいます。
先般、わが「水の舞普及界」も電解還元水のPRのために展示会に出席いたしました。
宮田さんも、手術を受けて代替医療なども取り入れるなど、生きる可能性をもっと求めて欲しかったと,私は思います。宮田さんの本心はもっと生きたかったに違いないのです!
頬を伝う涙がそれを物語っています。私は無念です。
写真をご覧ください。私はこの写真を見るたびに、宮田さんはまだ生きているとしか思えないのです。しかし、宮田さんはすでにこの世の人ではありません。どうにもならないこの現実が無念です。

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宮田美乃里さんの頬を伝う涙

◆森村誠一氏HP「森村ワールド」より
静脈やいのち支えし青き河
かなしき流れよ一条(ひとすじ)の孤独
 
死にきれぬ浜辺に冬日の射しにけり
こころ空(うつ)ろに石拾うなり
 
胸深し傷より涙あふれいず
時雨(しぐれ)に溶けて落ち葉ぬらさん


魂の切影(たましいのせつえい)

畏友アラーキこと荒木経惟から、最新写真歌集『乳房、花なり』を手ずからさりげなく贈られ、なにげになくページを開いた私は、全身が痺れるような衝撃をおぼえた。

進行性の乳癌に冒され、余命数ヵ月と宣告された女流歌人宮田美乃里氏は、乳房を切除しても女であることの存在証明を刻むために、荒木氏のカメラの前に、自分の裸身を公開した。余命のすべてを結集して詠んだ歌を従え、荒木氏のカメラによって定着された彼女の裸身は、生死の境界を漂流する者の壮絶さに輝き彩られていた。歌はすべて死を見つめた彼女の辞世である。

私はこのとき、この歌人がこの世にある限り、彼女を小説の形に書き留めておきたいという猛烈な衝動をおぼえた。それは彼女を書かなければ作家になった意味がないとおもいつめるほどの切実な衝動であり、作家の業のようなものであった。私は直ちに荒木氏に連絡を取り、会えるかどうかも分からない死の床に臥している歌人に会いに行った。そして明日をも知れぬ歌人のベットサイドに通うようになった。

この特集(HP)は、一期の歌人宮田美乃里が病床で詠みつづけた未発表の歌であり、余命を燃やした火花である。彼女をモデルにした小説は「小説宝石」11月号より連載開始される。死の彼岸に軸足をかけた歌人の心の内奥には、幾重ものバリアが張りめぐらされ、とうてい立ち入ることのできない領域であるが、作家としての特権を最大限に駆使して、不可侵の領域は私の想像力で補い、ただ一人の運命の異性を探し求め、300年の時空をさすらう永遠の恋人(エンドレスカップル)を書きたい。

もし、奇跡が生じて病気が全快したら、何をしたいと私が問うたら、宮田氏の目から突然涙が噴き出し頬を滴り落ちた。

この特集の写真はすべて森村撮影、宮田氏から委任されアップロードした。

2005年3月28日午前6時21分、宮田美乃里氏は永眠した。享年34歳であった。