かつてPCゲームの世界には,エキセントリックな感性の実験場ともいうべき観を呈していた時期があった。かつてといっても,ほんの十数年ほど前の話なのだが。それを示す最たる例の一つが,外科手術をプレイ内容とするゲーム「Life & Death」であろう。  当時の感覚でも明らかにキワモノだったのだが,完全日本語版も発売されたし,脳手術を扱った続編「Life & Death II THE BRAIN」が出たことを考えると,それなりのセールスをマークしたようだ。おいそれと体験できない事柄をコンピュータで再現するという意味において,当時の感覚では正しくゲーム的であったといえないこともない。  さて,そんな枕で今回紹介する本は,杉田玄白の『解体新書』である。オランダの解剖学書『ターヘル?アナトミア』を入手した杉田玄白,前野良沢らの蘭方医が,1771年,千住小塚原の刑場で実際の腑分け(遺体の解剖)に立ち会ってその記述の正確さに驚き,翻訳を思い立ったというのは教科書にも出ている話だが,驚くべきことにこの本,いまでも書店で普通に手に入る。  紹介しておいてこんな言いぐさもなんだが,DQ10 RMT,200年以上前の解剖学書を現代の庶民たる我々が読んだところで,知識として得るところはほとんどない。だが,ざっと読み流してみると,面白い点がいくつか見つかる。  一つは,この本を編纂するに当たって,参照された海外の解剖学書の多さだ。ラテン語の『カスパル解体書』やアルメニアの『ミスケル解体書』など,その数は9冊にのぼる。教科書的な説明だけを聞いていると,『ターヘル,rmt?アナトミア』がたまさか手に入った貴重な海外書籍であったかのように思い込んでしまうが,別にそんなことはなかったらしい。近年見直しが進んでいるとおり,江戸鎖国下の日本は,我々が思うほど国際情勢から孤立した存在ではなかったのである。  もう一つは訳者の前書きにも指摘されているように,誤訳が多いことだ。いや,単に全般的に翻訳のレベルが低いという話ではない。例えば「○○○という組織は△△△の葉に似た形をしている」といった記述で,△△△という植物が日本や中国になくても,彼らはきちんとそれを認識したうえで翻訳している。  ではどんなところが問題かというと,原書『ターヘル?アナトミア』の前文に書かれている,改版のいきさつだったりする。「医学校のテキストとして使いやすいようにこうした」という意味の記述があるのだが,訳者いわく,そのくだりは「大げさにいえば,ほとんどが誤訳」なのだそうである。  江戸時代に生きた彼らが,医学校なるヨーロッパの社会制度を知らなかったのは無理もない。そもそも彼らは『解体新書』の上梓にいたるまで,『ターヘル?アナトミア』がオランダの解剖学書だと信じ込んでおり,ドイツで出版された本の翻訳書であることに気付かなかったのである。  そこから,近代という新時代への飛躍の大きさを想うのもよいし,日本語ローカライズ版PCゲームでときどき見られる,背景を押さえていない翻訳とプレイの厄介さを思い出してみるのも一興だ。「engineer」という戦闘ユニットが「技術兵」とか訳されていて,なんだかピンと来なかったりした体験は,多かれ少なかれあるものだろう(適訳は「工兵」)。あるいは映画「300」でもおなじみ,クセルクセス王のペルシア帝国に置かれていたエリート部隊「Immortal」(不死隊/不滅部隊)は,もちろん不死身なはずもなく,単に定員と同数の予備兵力が確保されていて,損害が出ると即座に補充される仕組みだったわけだが,「シヴィライゼーション」シリーズに出てくるこのユニットに,過大な期待を抱いてしまったりとか,そんな感じだ。  些末な誤訳を含みつつも『解体新書』には,蘭学という新分野の開拓に弾みをつけた,偉大な業績があった。翻って,すっかり商業的に洗練されてしまったゲーム業界に,新たな感性を吹き込む発想は,どこから生まれ得るものだろうか? かつてのエキセントリックさへのノスタルジー以外に,我々が何かを見いださなければならないのは事実だろう。
関連トピック記事: