ああ、浜松の空にまた朝日が昇った。太陽は、そのお決まりの威厳を携え、詩人には幻想を、労働者には汗を与える。私はというと、絞首台に向かう囚人のような気持ちでベッドを離れ、創造性の棺とも言える制服に袖を通した。出勤の道すがら、鳥たちは飽きもせずさえずっていた。彼らの歌が存在の賛歌であるならば、私の沈黙は機械文明への祈りか呪いか。私は考えていた。ネジのことを。無数のネジ。それぞれが、まるで宗教儀式のように等しい注意力と、機械のような知性を要求してくる。工場に着くと、同僚たちの表情は、まるで通夜の帰り道のようだった。私たちは無言の会釈を交わし、それぞれの歯車の位置についた。誰もが、今日も昨日と寸分違わぬ繰り返しを受け入れていた。時間は流れる。かつて本のページをめくり、ギターを爪弾いていた私の手は、今や部品を組み込むという単調な運動に終始する。景色を味わい、人の心を読み取るためにあった目は、ネジのズレを恐れ、上司の叱責を回避することにばかり集中していた。その上司は、組立ラインの絶対君主のように振る舞っていた。そして、脳。ああ、我が哀れなる脳よ。彼は遠くを夢見る——哲学の対話、良質な小説、あるいは数式の解答。だが夢は長く続かず、A部品とB部品の混同という現実的な懸念と、機械音の咆哮に引き戻される。昼休みは、沈黙の中でパンをかじる時間だった。誰もが、誰にも語らぬ空虚な思考に沈んでいた。そして午後も、何事もなかったかのように続いていった。一日が終わり、私はまるで永遠を生きたかのような疲労感と共に工場を後にした。だが明日が来れば、また「輝かしい一日」が始まるのだろう。もっと多くのネジ、もっと多くの部品、もっと多くの意味のない努力。そして人生は続く。この交換可能な歯車たちが織りなす、悲喜劇のような日常のなかで。