申請から数日後、念願の名簿が小保茂のもとに届けられた。名前だけは開示できると厚生労働省が判断してくれたのである。
そして名簿により、小保茂が探し続けている小隊長の名前が判明した。その名は━━吉山英雄━━というものだった。
しかし安否や住所などの照会は親族以外にはできないらしく、名前だけではやはり探し出すことは難しい。
そんなとき、小保茂が重要な手掛かりとなることを思い出した。
「『ばってん』とかいう言葉をときどき使ってたんですね。だから九州の人じゃないかなあって思ってね……」
議員の秘書にそのことを伝えると、九州の有力紙・西日本新聞に知り合いがいるから投稿してみようということになった。そしてさっそく西日本新聞に協力を依頼し、新聞のお便りの欄に投稿をした。
しかし、たった400字の小さな記事。しかも吉山英雄が本当に九州にいるのか、存命なのかも定かでない状態であった。
が━━奇跡は起こった。なんと新聞に掲載したその日に、福岡にいる吉山英雄の家族から電話がかかってきたのである!小保茂はさっそく吉山英雄の家族の待つ福岡へと向かった。
━━たどり着いた福岡県・筑後市の駅前。そこでひとりの女性が小保茂にあいさつをする。
「こんにちわ、どうも」
「どうも。小保でございます」そういって小保茂はぺこりと頭を下げた。
次の瞬間、女性の左側にふと視線を向けると、そこにはひとりの背のすらりとしたスーツ姿の老人の男性がいた。その男性に小保茂は笑顔で話しかける。
「どうも、やっぱり隊長さんに似ているところあるわ!」やや間を置いて小保茂はたずねる。「……ご本人ですか?」
それに相手の男性は小さく微笑みながら答えた。
「フフ、はい」
その人こそ、小保茂が60年間探し続けていた小隊長こと吉山英雄だったのである……!
小保茂は声を弾ませていった。
「私より若い!あの節はお世話になりました。年めされとらんねぇ、90歳には思えんですねぇ」彼は続ける。「覚えとりますか?」
それに吉山英雄は微笑んで答えた。
「はいはい、わかってる」
「いろいろなところに手をまわしたけど……半ばあきらめておりました」
それからも小保茂は話を続け、吉山英雄はただただ静かに微笑み続けた。
かくして小保茂は60年間伝えられなかった感謝の思いを、ついに伝えることができたのである。
ところで、小隊長・吉山英雄はあの事件からどのような経緯をたどっていたのか?実はあのあと独居房に入れられたもののそれ以上の懲罰は受けず、小保茂たちが帰国した1年後に無事に日本に帰国していたのである。
吉山英雄本人を目の前にして、小保茂は心の底から感激をこめていう。
「体張って助けてくれたね。よく覚えております。元気でいてくれてよかった……」
極限状態を生きたふたりの60年ぶりの再会。それはどんな状況にあっても誇り高く生きることの大切さを我々に教えてくれる。
━━奇跡の再会から3年後の2009年、奇跡の立役者の大山学がとあるプレゼントを持って小保茂のもとを訪れた。
実は高齢のためになかなか会えないふたりのため、大山学は福岡まで行って吉山英雄からいろいろと話をうかがっていたのだ。吉山英雄はあの事件のときの心境をこう語る。
「命懸けでおるんだから、そら撃たれるかもわからん。撃たれたら私も死ぬかもわからない。そりゃ覚悟しておりました。部下のために死ぬならそれでもいいと……」
━━小保茂の家に着いた大山学は、1本のビデオテープを小保茂に渡した。それはなんと吉山英雄からのビデオレターだったのである。以下、吉山英雄の小保茂へのメッセージ。
小保さん、こんにちわ。お元気ですか?もう1度、会いたいな。もう1度会って、また昔の話をできればいいかなって思ってる。
あんたが探してくれたってねぇ。俺はほんとにびっくりしたよ。60年近くたってからあんたに会おうとはね……思ってもみなかった。
軍隊当時もあの抑留生活の中でも、だいぶあんたとは縁が深かったからなぁ。
君の健康を祈っとるよ。元気でひとつ過ごしてくれ。
「いやぁ、よかった……」
吉山英雄からのビデオレターを見終えた小保茂は、そういって満面の笑みをこぼした。
シベリア抑留~60年前の命の恩人~ 終わり