“パントさん事件”総括パート③~聖戦の前にちょっとひと呼吸スペシャル~   | メシアのモノローグ~集え!ワールド・ルネッサンスの光の使徒たち~

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混迷をくり返す世界を救うべく、ひとりでも多くの日本人が現代に生を受けた意味に気づかなければなりません。世界を救うのはあなたの覚醒にかかっているのです……。

 私は今までパントさんばかりを誤解の塊のごとくいい続けてきたが、とある知人からの情報により、実は私のほうも少々の誤解をしていたことが明らかになった。


 私は《なんでも屋パントさんという方のブログについて》という記事の中で、パントさんのことを『なんらかの手段で人のメールのやりとりをのぞいている奴だ』となじった。しかし、詳細はちがっていたらしい。


 パントさんの私の真似事記事のひとつに、私ととある女性、Hさんとしておこう。ふたりのメールのやりとりをあざけるものが書かれていたのだ。それは実はHさんがみずからパントさんにメール内容を教えたものらしかったのである。


 私はパントさんの記事があまりにバカバカしい内容ゆえちらっとしか見ず、最初から最後までちゃんと読んだ記事はただのひとつもないのだ。そのために詳細を通暁できず、パントさんが私とHさんのメールのやりとりをのぞいたものと勘違いしてしまったというわけなのである。


 この点は素直に自分の非を認めて謝罪したいと思う。申し訳ありませんでした。


 しかし、とはというものの、そのことをみずから論説せずに黙りっぱなしだったパントさんのほうにも非はあると思う。《メシアVSパント 最終決着》のコメント欄の中で、私は1回目の質問でこう訊いたのだ。『私がなにをどのようにまちがったとらえ方をしたんですか?具体的にいってください』と。(笑)←この文字も揶揄の言葉も使わずに真面目な文章で。そのときパントさんが『僕が君のメールのやりとりをのぞいたというのは誤解なのだ』とさっさと説明してくれればこんなことにはならなかったのだ。


 何度訊いてもへんな返答ばかりをくり返したパントさんのほうも悪い━━これはそこそこ正論に近いと思うのだが、どうだろうか?


 ……が、とはいうものの、まだまだひっかかるあやしい点はあるので真相は闇の中だが……。


 ところで今名前が出たHさんなのだが、私は彼女に相談を持ちかけられたことがある。そしてHさんは私の見当はずれなアドバイスに怒り狂い、『メシアという人にひどいことをされたんです』とパントさんに相談を持ちかけたらしい。それが“パントさん事件”のはじまりの一端でもある。


 が、である。私はHさんにふざけたアドバイスなどした覚えはないし、『おまえの相談なんか乗ってられっかバカ!』『そんなことひとりでなんとかしろボケ!』だのといった暴言を吐いた覚えもない。あくまで私なりに真剣に相談に乗ってアドバイスをしたまでだ。


 しかしHさんにとっては満足のいくものではなかったらしい。Hさんが怒り狂い、パントさんに『メシアに復讐してください』と懇願した理由は、たったのこれだけのことなのである。


 私は客観的にこう思うのだ。Hさんの感情と行動はただの傲慢ではないだろうか?と。いくら満足のいく、納得のいく返事がこなかったとしても、けっしてふざけているわけでも拒絶しているわけでもない私を詐欺師扱いし、『私はこのうえなくひどい扱いを受けた。誰かメシアをやっつけて!』と人に頼み込むのはおかしいことではないだろうか?


 その頼み込まれたのがパントさんなわけだが、もしも私がパントさんの立場だったらHさんに対してこのような感情を抱いていたと思う。


 『この人はなにを傲慢なことをいっているんだろうか?この程度の扱いを受けただけで自分が被害者だと思い込んでしまうなんて……』と。そしてHさんの要求を拒否し、Hさんにとてつもなくひどいことをしたらしいメシアという人をあざける記事を公開することはなかったと思う。


 これはかなり正論に近いと思うのだが、どうだろうか……?


 ちなみに私のなにげない返答に対して勝手に怒り狂ってしまった女性がもうひとりいる。Iさんとしておこう。彼女はパントさんが私の真似事記事を公開した日、私に『がんばってください』というメールを送ってきた。それに対し、私はとある返事をしたのだが、その返事の内容にIさんはぶちきれてパントさんに『メシアにひどい扱いを受けた。助けて~』と泣きついたのである。


 では、私がIさんにどんな返事をしたのか、それを今から書こうと思う。



 「私はメシアだから大丈夫です」



 ……これ、たった1言である。このたった1言に深く傷つき、絶望する人などいるのだろうか?また、このたった1言を吐いた私が加害者として罰を受けなくてはならないのだろうか?私の返事のどこがどう悪いというのだろうか?


 いったいIさんは私にどんな返事をしてもらいたかったのだろうか?言葉の使い方や返事の内容など千差万別なはずであり、また、毎回毎回、自分の納得のいく100点満点の返事がかえってくることなどありえない。たとえ自分にとって100点満点の返事でなかったとしても、『……ま、いいか』と済ませるのが普通ではないだろうか?


 IさんはHさん以上に傲慢な人間に映る。少なくとも私の目には。


 これはかなり正論に近いと思うのだが、どうだろうか……?


 ところで、最も解決に導かなければならない重要問題の“パントさん事件”なのだが、わたくしメシアは次のような見解を持っている。


 今まで何度も何度も死ぬほど書いてきたことである。迷惑コメントを送ってくる悪人を逆にあざけて成敗する私のテーマ・論証の記事を、なぜかパントさんが無実の人々の記事をあざけり笑うものと勘違いしてしまったのが発端なのだと。しかしとある知人が、またちがった見解を私に伝えたのだ。パントさんには迷惑コメントという概念がなかったのではないか?と。たしかにパントさんはどんなタイプのコメントだろうと拒絶せずに受け入れる人ではある。そのような見解を持っても不自然ではないだろう。


 要するにパントさんは『相手が批判や罵倒のコメントを送る人間だろうとなんだろうと、その人をあざけておとしめる記事を書いて公開するのは許されないことだ』といった怒りと反感を私に抱いた可能性があるかもしれないという説なのだ。


 しかし、残念ながら、この説はありえないといわざるをえないだろう。《メシアvsパント 最終決着》のコメント欄を見ればわかることなのだが、まずパントさんは私の記事に対し『またまちがったとらえ方をされて残念だ』といった。それに対し私は『私が具体的になにをどうまちがったとらえ方をしたんですか?』と質問した。前述したように(笑)←この文字を使わずに真面目な文章で。


 しかしパントさんはごまかすばかりで、たったの1度として具体的に明確に答えてくれることはなかった。


 もしも本当に私の記事の内容に腑に落ちない点があったのなら、もしも本当に私が誤解をしている点があったなら、『メシアくんはこうこうこうで、こうこうこうしたところを誤解していると思う』といったふうに説明をしていたはずである。しかし私がいくら『私がなにをどうまちがってとらえたんですか?』と訊いてもパントさんはへんないいわけをくり返すばかりで、たったの1度も明確な返答をしてくれなかったのだ。


 これでわかるように、パントさんは私の見解や記事内容が完璧に論理的なものであることを理解・肯定しており、また、『パントさんには迷惑コメントという概念がなかったのかもしれない』という説も誤りであったことが証明されただろう。


 特に『テーマ・論証の記事は迷惑コメントを送る悪人を成敗するものであり、それ以外のテーマの記事の中で私がいつ人をバカにしたりしたというんですか?』という私の質問にパントさんは『はい、追い込まれてます。メシアくん、本当にすみませんでした』と非を認めて謝罪を述べたのだ。もしもパントさんが『相手が迷惑コメントを送る悪人だとしても、人をあざける記事を公開するのはよくないことだ』といった怒りを私に抱いていたならば、私の質問に対してそのことを説明していたはずである。しかし私の誤解をとくための説明をせずに謝罪を述べたのだから、私の見解が正しかったという結論にたどり着いてまちがいはないはずである。そもそも本当に迷惑コメントという概念がなく、『たとえ中傷コメントを送る悪人だろうと、その人をあざけたメシアくんは最低だ!』といった怒りを抱いていたならば、記事をあざけられた私への同情や哀れみの感情はないのだろうか?記事を『なんか長ったらしい』だの『長い上に内容のないブログですね』だの『同じことをくり返し書いてるだけのような……』だのと中傷された私への哀れみを示すのが順番として先ではないのか?まずは記事をあざけられた私への哀れみを記し、それから迷惑コメントを送った悪人をあざけた私への憤激を記すべきである。しかしパントさんは記事を小バカにされ、皮肉られた私への哀れみは示さず、ただただ迷惑コメントを送った悪人をあざけた私のみを糾弾した。よって“パントさんは迷惑コメントを送った悪人を逆にあざける私の記事を、なぜか無実の人々のブログをあざけるものと勘違いしてしまった”という私の見解が正解なのである。


 読者のみなさん、まだ納得いかない?それではもう少し書きましょう。


 私は謝罪を述べたパントさんにこういった。


 それでは、『今までのはすべて自分の勘違いであってメシアさんはなにも悪くはないのです』といった内容の記事を1ヶ月間公開し続けてください。


 しかしパントさんは私のこの要求をこばんだのだ。その態度に激昂の火がついた私はパントさんを徹底しておとしめるべく《“パントさん事件”記念特別企画……》の記事を公開したというわけなのである。


 その記事を公開後、たしかパントさんは《我想故願祈》という記事を新しく公開し、その中でこのようなことをいっていた。



 我想う なぜ伝わらないか…

 

 我想う なぜ気づかないのか…




 パントさんは私になにを伝えたかったのか?私がいったいなにに気づいていなかったというのか?


 結論をいえば、自分が伝えたいことも私が気づいていないこともなにひとつないのである。


 本当に伝えたいことがあったなら、『メシアくん、僕はこうこうこうで、こうこうこうしたことを君に伝えたいんだ』と説明していたはずである。


 本当に私が気づいていないことがあったなら、『メシアくん、君はこうこうこうで、こうこうこうしたところに気づいていない』と説明していたはずである。


 しかしパントさんは最後まで具体的な説明というものをしてくれなかった。私が何度も何度も『具体的にはっきりいってください』といい続けても……。私の見解や記事の内容は完璧にパントさんの図星をつくものであり、愛と正義のリーダーとして《残念ですが…》という記事の中であれだけご立派な言葉を並べ立てた手前あとにひけなくなり、苦しいいいわけを連発してなんとか事をうやむやにしようと必死になったというわけなのである。


 “パントさん事件”についてはもうこれ以上書くことはない。もしも私がこれだけ書いても理解できなかったならば、パート②にも書いたようにその人にとって私の文章はひとつ上の次元の出来事であり、なにをどうあがいても理解することは不可能なことなのである。


 聖戦前に急遽書くことになったこの記事。“パントさん事件”を振り返って改めて思うことは、やはり“世の中にはとにかくいろいろな人がいる”ということである。また、“人間とはおもしろい”ということである。


 花の女王、薔薇。薔薇とひとくちにいってもその種類は数百存在する。人間にしてもまったく同じで、“人間”とひとくちにいってもピンからキリまで無数のタイプが存在し、それぞれの個性や特徴をいかしてお互いを支え合いながら生活を営んでいる。


 そんなある日巻き起こった“パントさん事件”。それにも近々本当の終焉が訪れることになる……。

 

 

 

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