私となんでも屋パントさんの間で勃発した全面戦争。
私はその概要を限りなく具体的に説明した記事を公開し、『これでようやく100%パントさんに非があることがわかってもらえただろう』と安堵のため息をついて新たな日々をスタートさせた。
しかし今まで何度も書いてきたように、パントさんに非があることが誰にもまったく伝わらず、本人のパントさんが私に謝罪を述べて姿を消したにもかかわらず、パントさん派の人たち全員が私を執拗にバッシングし続けた。
なぜ彼らは私の説明を理解できないのか?なぜ私の記事の内容を理解できないのか?私は難しい書き方は一切していないというのに……。
たとえば、『桃太郎』のお話は老若男女全員がよく知っていると思う。
①━━昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいた。
②━━おじいさんとおばあさんが大きな桃を見つけた。
③━━その桃の中から男の子が出てきて桃太郎と名づけた。
④━━桃太郎が仲間とともに鬼を退治しに行った。
⑤━━鬼を退治して世が平和になった。
『桃太郎』のお話の流れはだいたいこんな感じだと思う。“パントさん事件”の概要を記した私の記事もそれとほとんど同じレベルのものである。
①━━あざけりの迷惑コメントを送ってくる悪人を逆にあざけて成敗する記事を書く
Aさんという人がいた。
②━━そのAさんの記事をなぜか“無実の人々のブログをあざけり笑うもの”と勘違
いしてしまったBさんという人があらわれた。
③━━BさんはAさんに『自分の悪事に気づきなさい!』というメッセージを伝えるべ
く、Aさんの記事をあざける記事を公開した。
④━━そのBさんのブログを真に受けた人たちがAさんのことを“あざけりをまき散らす悪人”と思いこみ、Aさんに非難のコメントを浴びせるようになった。
⑤━━Aさんが誤解を晴らすべく『Bさんの勘違いなのだ』という内容の記事を公開した。
⑥━━そのAさんの記事によって自分の勘違いに気づいたBさんは、謝罪と反省、そして羞恥心地獄から逃れるべくアメブロからしばらく姿を消した……。
これが“パントさん事件”の流れだ。無論、Aさんが私でBさんがパントさんである。
たしかに『桃太郎』の話と比べたらいくらか複雑であることは否定しないが、ある程度の言語力とある程度の理解力さえあれば小学生だって充分理解が可能なはずである。実際私の読者の中にハイレベルな理解力を誇る小学生の子もいるし……。
しかし、『桃太郎』の話を比較対象に用いてこれだけ説明しても、わからない人にはわからないのだろう。
が、残念ながら私の文才では、“パントさん事件”の概要はもうこれ以上わかりやすく書くことはできない。これが私の文才の限界である。
『……これだけ、これだけ具体的にわかりやすく書いたのだから、今まで私を非難してきた人たちも全員真実に気づいて、きっと私に理解を示すようになってくれることだろう……』といった感情を抱きたいところなのだが、私がこれだけ書いてもさっぱり
理解できない人は星の数ほどいることだろう。
ある少年などはパントさんのブログにこのようなコメントを残していた。
「メシアのブログ勘違いばっかじゃん」
おそらくバントさん関連の記事についてのコメントだと思われるが、私は一切勘違いなど犯していないと自負している。
そもそも、いったいどの記事についてのコメントなのか?また、どの記事のどのへんの文についてのコメントなのか?というか、いったい私がなにをどのように勘違いしているというのか?具体的なことがまったく書かれていない。勘違いをしているのは自分のほうだということに微塵も気づけていないのである。
また、“パントさん事件”の真相を詳しく書いた記事を公開した直後、ある人からこのようなコメントを送られたこともある。
「バカナメシア」
私はパントさんにへんな噂を広められた被害者であり、皆から同情されるべき立場の人間なのだ。それだというのに、なぜ『バカナメシア』などと罵倒されなければならないのだろうか?支離滅裂、目茶苦茶としかいいようがない現象である。
なぜ彼らのような理解ゼロの人間が多くいるのだろうか?なぜに彼らは理解というものをできないのだろうか?真相を追及した結果、次のような結論に到達した。
━━彼らにとって“パントさん事件”や私のブログはひとつ上の次元の出来事だからである━━。
ひとつの上の次元で展開されている出来事なのだから、理解というものをできるはずがない。簡単にいえばこれが理由だったのだ。
あるドラマでこのようなセリフが発せられていたのを目撃したことがある。
「あなた、●●大の●●科を出てるんでしょう?私には逆立ちしたって入れないような学校をあなたは卒業した」
このセリフを耳にした私は思わず眉をよせて疑念を抱いてしまった。
逆立ちしたって入れないような学校だと?━━同じ人間なのだから、いくらなんでも逆立ちができるようになれるくらいの死に物狂いの努力を重ねれば、誰だってどんなハイレベルな学校にも入ることはできるだろう、と。
身長を3メートルにするだとか、100メートルを3秒で走るようにするだとか、そうしたたぐいの話ではないのだから。
しかし、けっして難しいことが書かれていない私のブログの内容をさっぱり理解できない人間を無数に見てきたことによって、ドラマのセリフが本当のことらしいことを痛感することとなった。
日本で1番入るのが難しい大学は東大だといわれている。私は小学校卒も同然なので高校受験の体験も大学受験の体験も大検の体験もまったくない。そのため東大に入ることがどのくらい難しいことなのかさっぱり見当がつかない。よってあくまでも推測になってしまうのだが、知能が生まれつき低い人は逆立ちができるようになれるくらいの死に物狂いの努力を重ねても、東大には永遠に入ることはできないものなのだろう。
そうした人にとっての東大入学というのは、ひとつ上の次元の出来事なのだと思われる。
私のブログの内容を理解できない人たちもそうで、知能がもともと低く生まれてしまった彼らには、たとえ逆立ちができるようになれるくらいの死に物狂いの努力を重ねても、永遠に私のブログの内容を理解することはできないのだろう。
私は“パントさん事件”の詳細を具体的に書き続け、パントさんが加害者で自分が被害者なのだと訴え続けてきた。それにもかかわらず『バカナメシア』だのといった非難や罵倒が怒涛のように送り届けられる始末なのだから、彼らにとって私のブログはひとつ上の次元の出来事なのだと思われる。
そんな中、“パントさん事件”の詳細を書いた私の記事の内容を理解することに成功した人がひとりだけいる。それは誰か?なにを隠そう、パントさんその人である。
パントさんは私が記事を公開してから逃避するようにしばらく姿を消した。彼は私の記事によって自分がとんでもない勘違いをやらかしてしまったことを自覚し、嵐のような羞恥心に全身を襲われたのだ。そのためにしばらく皆の前から姿を消したというわけなのである。
あるパントさん派の人はパントさんのブログに『メシアも負けじとパントさんの悪口を書いているぞ』とコメントしていたが、パントさんは私のパントさん批判が“負けじと書いた悪口”などではなく“筋の通った論理的事実”であることをわかっていたのだ。
たしかにパントさんは普通ではまずありえないスーパー勘違いをやらかしてしまった人ではある。しかし私の論証の記事を理解できたところを見ると、冷静になればかなりの理解力を発揮できる人らしい。
きっとパントさんは今回の件で『ああ、自分はとんでもなく知能の低い大バカなのかもしれない……』といった劣等感や羞恥心の竜巻に襲われるようになってしまったと思われるが、たとえばパントさん派の人が100人いたとしたら、パントさんの知能と理解力は少なくともその100人よりかは遥かに上なのである。
パントさん派の100人は私の論証の記事をさっぱり理解できない。その一方、パントさんはしっかり理解できて羞恥心地獄を味わうことができたのだから、それは立派な高い理解力の持ち主である証拠である。
パントさん派の人たちよ。リーダーであるパントさんはちゃんと私の記事を理解できているんだぞ。また、私の読者の中の中学生の少年や小学生の女の子も私の記事を理解して楽しんでいるんだぞ。それでもまだ恥ずかしいという感情はないのか?
今書いた中学生の少年は私のとある記事にこのようなコメントを寄せたことがある。
ついつい読みふけってしまう文章です。
文章構成がとてもおもしろい!
文章構成だぞ?文章構成だぞ?あなたたちは文章構成という言葉の意味をわかるか?また、文章構成などという言葉を今までの人生の中で使ったことがあるか?おそらく答えはノーだろう。
あなたたちの知識・言語力・理解力はたったひとりの中学生の少年にも遠く及ばないほど低劣なものなのだ。この事実を肝に銘じてもらいたい。
また、自分の知能の低さを謙虚に肯定するというのも大事なことである。
私のとある記事にとある人がこのようなコメントを寄せている。
「メシアさん、私バカなのかな?要はなにをいいたいのか理解できませんでした……」
この人はたしかに私の記事の内容を理解することはできなかった。しかし、理解できない自分を自覚し、さらに肯定することはできたのだ。
私を非難し続けるパントさん派の人たちというのはそろいもそろって、理解できていない自分に気づくことさえできていない人たちばかりだ。
まずは自分が私の記事を理解できない低能であることを自覚し、そして時間をかけて謙虚な心を獲得していき、自分の低能を肯定できるようになっていくべきだろう。すべてのはじまりはそこからだ。