一週間ほど前の雪化粧の日光連山。中央の三角にとがった高い山は女峰山。 この山々の連なりの左に
一つだけ離れて大きな山が。 その名は男体山。
( こちらは、昨年四月の撮影です。お天気が良い日でしたが、春霞に霞んで見えます。)
今朝の日光連山は、上の画像と変わらぬ白い景色でした。
昼間は雲が広がり・・・・・多分、雪が・・・・・と思っていたら・・・・・・・・・。
男体山の登山口にほど近いところに勤務している夫が、たった今、帰宅しました。
今日の山の上は、雨だったそうです。
男体山と女峰山は、夫婦山。この二つの間にあるいくつかの山の中には太郎山という子供の山もあり、
三つ揃って、日光の山岳宗教のシンボルとなっています。
この山々は、私にとって、いえ、日光に生まれ育った者には、故郷の象徴以外の何ものでも有りません。
最近、仲良く並んだこの山々を眺めていて、
男体山に父が、女峰山に母が重なって見え、10年前の有る出来事を思い出しました。
両親は結婚して60年。10年前の金婚式のお祝いに、子供達家族が全員集まりました。
お祝いの席で、父の言った言葉を思い出すと、今でも涙が出ます。
父の母は、明治の女。大変気性の激しい人でした。当然嫁いびりも・・・・・・・。
母は、夫と子のために嫁いびりにもひたすら耐え、姑に30年間仕え、最後の看取りまで果たしました。
母に取って、死にものぐるいの本当に苦しい30年間であった事は、違い有りません。
父も、妻と母の間に有って、どちらの見方もすることが出来ず、辛さは同様だったろうと想います。
姑が留守の間に、母が愚痴をこぼすと、いつもこう言ったそうです。
「言いたいことは、全部言っていいんだよ。聞くからな。そうか、そうか。言いたいだけ言ったかい?
だけどもう少しの辛抱だ。いつかは思いのままに出来る日が来るから、待ってくれ。悪いなあ・・・・・。」
父の精一杯の慰めだったのでしょうね。
そんな父が、祝いの席で、子供達家族を前にして、
「・・・・・そう言うわけで、お母さんには本当に苦労を掛けました。こうして、50年、よく付いてきてくれた。
私は幸せだよ。姑で30年苦労をかけてきた償いは、30年いやそれ以上掛けてお母さん孝行
することだと思っています。あと10年は元気でいなければ、私の責任は果たせない。
それまで、なんとか元気で頑張りたいと思います。・・・・・・・・」
自分のことより母の健康を気に掛け、少しでも手伝おうとする退職後の父の姿を いつも見ていました。
その姿はこんな父の思いが込められていたのだと、その時初めて知ったのです。
夫婦げんかを見たことがない。子から見てそれが自慢の両親です。
「年老いた今は、二人合わせても一人前にならないね。困ったものだ。」と笑いながら、
思いやりの心でしっかり繋がった両親です。
父がいて、母がいる。母がいて、父がいる。
自分の両親を早く亡くした私の夫は、そんな私の両親を見て、
「(わたしたちも)手本にしなくては・・・・。」と、口にすることが有ります。
父の気持ちを知った時から、まもなく10年。
お父さん、責任は果たし終わったなんて、まだ言わないでくださいね。
10年で十分なんて、誰も思っていません。11年でも12年でも・・・・・・・
ずっとずっと元気でお母さんを支えて欲しいです。
お父さんが力尽きそうなら、足りない分を私がサポートするからね。お願いです。
デンドロビューム 「エンジェル ベイビー グリーン 愛」