■ JG3385「讃岐丸」

 

 こうして、最終便を待つうち、驚くべき「発表」があった。

 本来、宇野23時25分発の最終27便には、JG2436「阿波丸」が充当される筈だった。
 そして、その「臨時先行便」として22時50分発の9025便・JQDH「土佐丸」が設定されていた。

 

 ところが、これに加えて「臨時便」が2便も「増便」されることになったのだ。
 本来23時25分発の27便・JG2436「阿波丸」は、7分「延発」させて23時32分出航の「B27便」となり、それに「先行」する形で、元の27便の「スジ」で運航する23時25分発の「A27便」が設定されて、JQDC「伊予丸」を充当。
 更に、「最終続行便」という、ちょっと「意味不明な立ち位置」の0時15分出航の「C27」便が登場。「もう日付変わっとるがな」という突っ込みは置いておいて、何とこれにJG3385「讃岐丸」が充当される、というのだ。

 

 最早、どの便で高松へ渡ろうが、「マリンライナー2」号に乗るための「道」は限りなく険しいことに違いはない。
 迷うことなくC27便「讃岐丸」を選択。ただし、相次ぐ増便で、待ち列は明確でなく、ほとんどの人が右往左往。

 

 最終便が「下り一択」になるとはいえ、宇高連絡船の定員は、2千人を軽く超え、青函連絡船の倍近い。それを4便続けて「大名行列」させるほど、ここに並んだ人もいない。仮に、上り最終便から流れてきたところで、そんなに増えるとも思えなかった。
 4便合わせれば1万人近くを輸送できる計算になるので、どう考えても供給過多だが、それでも「もう乗れない」と諦めていた「讃岐丸」に乗れるのはラッキーである。

 

 22時50分、臨時先行便9025便・JQDH「土佐丸」が出航。これ以降は、どの船も「連絡船」としては終航になる。乗って行ったのは、多く見積もっても数百人、もしかすると百人前後かも知れない。

 

 23時25分には、A27便として設定されたJQDC「伊予丸」が出航。実は、先ほどの25便が「恐らく『阿波丸』」と予想したのは、ここの運用からの推理だ。
 25便が高松に着くのは、22時。折り返しになるのは、高松22時15分発の、上りの「最終便」になる28便だとしても、宇野着は23時15分になってしまう。
 そこから下りの「最終便」として27便で出航するには、宇野発の定刻が23時25分だから、10分で折り返す必要がある。上下とも相当に混雑が予想される「最終便」を務めるとなると、かなりきつい運用だ。
 観光船改造された「讃岐丸」を除けば、「阿波丸」は伊予丸型4隻の中でも一番新しい。とは言っても、「伊予丸」「土佐丸」に較べて1年新しいだけだが。それでも、最終便に充てるには、それなりの「理由」になりそうには思う。
 どういう思惑かはわからないが、最後に4隻の宇高連絡船を連ねて運航する、という発想なのかも知れない。

 そこで、なるべく定刻通り運航する便を設定しようとして、残っていた「伊予丸」をひっぱり出してきて、元ダイヤのままのA27便に充てた。本来の27便要員だった「阿波丸」は、折り返し時間を確保した上で、7分後にB27便として「最終航海」をさせる。というのは、どうも現地での表現を見ていると、時刻表上の最終便である27便のダイヤで動くA27便よりも、また本当に最後に動くC27便よりも、B27便を「最終便」として扱っていたように感じるのだ。
 そのため、C27便が「最終続行便」という、不思議な位置付けになっているのか、という感じである。

 

 いや、誰が何と言おうと、「最後の宇高連絡船」には違いない。

 

 そう思い、23時32分発に繰り下がったB27便・JG2436「阿波丸」の出航を見送る。
 A27便、B27便とも、やはり数百人程度を乗せて出航して行った。定員から考えれば、船内はガラガラだろうと思う。

 

 そして、日付が変わった4月10日(日)、瀬戸大橋開業当日になってしまったが、宇野0時15分発、下り最終(続行便)C27便・JG3385「讃岐丸II」は、「宇高連絡船」として最後の航海に出た。


 船内は、やはり混んではいたが、それでも千数百人だろう。比較的自由に動き回ることができた。

 これまた諦めていた「讃岐丸」のスタンプも押し、乗船証明書も配られていたが、在庫が尽きたのか、そもそも「讃岐丸」を動かしたことが想定外なのか、「阿波丸」と印刷されたものが配布されていた。なので「画像は(修正した)イメージです(笑)」。

 

 1時15分。C27便「讃岐丸II」は、高松桟橋に接岸した。
 78年(前身の岡山・高松航路も含めると85年)の宇高連絡船の歴史に幕が下ろされた瞬間だった。


 深夜のせいなのか、世間の注目度の違いなのか、青函連絡船の最後と較べると、妙に静かな最終章だった。

 

 なお、JRが運航する「航路」自体は、2年後の1990(平成2)年3月末まで、高速艇の運航で残されていたが、「鉄道連絡」を目的としたものではなく、付近住民の「交通」の足として残されていたので、連絡船とは呼べないであろう。

 

 ~ つづく ~