「人は、長所ばかりを好きにならない。」
九三年の桜花賞は、
柳田に誘われて見に行った。
柳田は、友人の僕が言うのもなんだけど、
惜しすぎる男だった。
顔やスタイルは完璧に近く、
着る物や食べる物の趣味も良い。
そのうえ傲慢さなど微塵もない。
ただ、ひとつだけ欠点があった。
致命的に「計算が苦手」だったのだ。
そのせいで彼は、三度失恋し、二度失業していた。
なにしろ日常的なお釣りの勘定にさえ
支障をきたすほどだったから。
競馬場で紹介された柳田の新しい恋人は、
ベガに勝ってほしいな、と言った。
ベガの左前脚は内向きに曲がっている。
「そこが可愛くって」とはしゃぐ彼女だった。
スタート直後、ベガは二番手の位置についた。
だが第4コーナーで先頭を奪い、ラストスパートを仕掛ける。
残り五十メートル、背後に迫るユキノビジンを
ぎりぎりかわしての、一着だった。
彼女と抱き合って喜ぶ柳田に、
僕はうっかり「いくらの勝ち?」と訊ねてしまった。
彼は両手の指を折り、数を数え出す。
柳田、それじゃ掛け算はできないよ、
そう言おうとしたそのときだ。
彼女が柳田の左手をとると、
その掌に、ボールペンで筆算を始めたのだった。
「いっつもの裏技」悪戯っぽく微笑む彼女と、
くすぐったがって声をあげる柳田。
ふたつの笑顔に、西日が跳ね返った。
ベガは、脚が曲がっていた「のに」愛されたわけじゃない。
曲がっていた「から」愛されたのだ。
柳田のもつ数々の美点を羨んだことは、
それまでに何度もあった。
でもその夕方、かつてない羨ましさを、
柳田の欠点に対して感じている僕がいた。