「人は、長所ばかりを好きにならない。」


九三年の桜花賞は、

柳田に誘われて見に行った。


柳田は、友人の僕が言うのもなんだけど、

惜しすぎる男だった。

顔やスタイルは完璧に近く、

着る物や食べる物の趣味も良い。

そのうえ傲慢さなど微塵もない。

ただ、ひとつだけ欠点があった。

致命的に「計算が苦手」だったのだ。

そのせいで彼は、三度失恋し、二度失業していた。

なにしろ日常的なお釣りの勘定にさえ

支障をきたすほどだったから。


競馬場で紹介された柳田の新しい恋人は、

ベガに勝ってほしいな、と言った。

ベガの左前脚は内向きに曲がっている。

「そこが可愛くって」とはしゃぐ彼女だった。


スタート直後、ベガは二番手の位置についた。

だが第4コーナーで先頭を奪い、ラストスパートを仕掛ける。

残り五十メートル、背後に迫るユキノビジンを

ぎりぎりかわしての、一着だった。


彼女と抱き合って喜ぶ柳田に、

僕はうっかり「いくらの勝ち?」と訊ねてしまった。

彼は両手の指を折り、数を数え出す。

柳田、それじゃ掛け算はできないよ、

そう言おうとしたそのときだ。

彼女が柳田の左手をとると、

その掌に、ボールペンで筆算を始めたのだった。

「いっつもの裏技」悪戯っぽく微笑む彼女と、

くすぐったがって声をあげる柳田。

ふたつの笑顔に、西日が跳ね返った。

ベガは、脚が曲がっていた「のに」愛されたわけじゃない。

曲がっていた「から」愛されたのだ。


柳田のもつ数々の美点を羨んだことは、

それまでに何度もあった。

でもその夕方、かつてない羨ましさを、

柳田の欠点に対して感じている僕がいた。

「才能と愛は案外似ている。」


冬の終わりに、名古屋へやって来た。

僕は無名で、まだ二十九歳だった。

あと一年で芽が出なければ諦めよう。

そう思いながら名古屋にチャンスを求めたのは、

挑戦だったか、逃避だったか。


名古屋に着いた午後、競馬をみた。

じたばたせずに、こういうときは人間以外のものに願いを

こめるほかない。

二000年の高松宮記念。

キングヘイローのことが気になった。

こんなに血統の良い馬もいないのに、

まだG1レースで一勝もできていない

(才能は、あるはずなんだ。眠っているだけなんだ)。


スタートから中盤にかけて、メジロダーリングと

アグネスワールドが主演と助演のように

レースを引っ張ってゆく。

ところが第4コーナーを過ぎると、

それは横並びの群像劇へと化けていった。


もはやどの馬がスターかわからない。

十七頭が荒々しいかたまりとなって

最後の百メートルになだれ込んだそのとき、

コースの大外から全員を抜き去ったのが、

キングヘイローだった。

なんという末脚だ。

G1レース十一戦目にして初めての勝利だった。


僕は気づいてしまった。

彼の才能は、きっと最初から眠っていなかったのだ。

だって才能とはときに、

「思いつづける力」の別名ではないか。


僕も這いつくばってやろう、と思った。

たとえ三十歳までに芽がでなくても、

まだ最初のコーナーを過ぎたあたりじゃないか。

僕は「末脚」がどのくらいのものか、

僕が見届けなければ、

誰に見届けられるというのだろう。

「恋に終わりがあるように、失恋にも終わりがあるのだろうか?」


ためらうことなく ひとりで旅立ちを決めた彼女が、僕は憎かった。


ふたりの未来より、自分の夢を選んだ彼女。

僕らが恋人同士になってから二回目の冬だった。

幸せな恋愛をさまたげるのは、いつだって別のかたちのしあわせなのだ。


空港で彼女を見送った翌日、東京競馬場へ行った。

九六年のフェブラリーステークス。

僕の好きな「砂の女王」ホクトベガは、

そういえば彼女に似ていた。


黒目の、大きくて、澄んでいるところが。


朝から舞っていた粉雪が、僕の視界を覆う。

白濁の幕の向こう側で十五頭の馬たちが駆け出した。

大歓声に包まれながらも僕が静けさを感じていたのは、

粉雪が世界の音を吸収していた生だろうか。

第3コーナーで先頭におどり出たホクトベガは

迷いのない走りで、ほかの馬をぐんぐん突き放し、

あっという間にゴールした。


雪に気持ちを漂白されながら、僕は思い出していた。

彼女の迷いのないところが、僕は好きだったのだ。

好きなあいだは、好きでいつづければいい。

いつかその気持ちを忘れてしまったとしても、

そしてそのことを悲しめなかったとしても、

ひとつ残らず間違っていないのだ。

それは恋の終わりなのか、それとも失恋の終わりなのか、

どちらでもかまわない。そう思った。


いまでも東京には、本当にたまにしか粉雪が降らない。

だけどそれで充分だ。あの白いスクリーンに、

ホクトベガや彼女の姿がプレイバックされるのは、

ごくたまに、で充分なのだ。