歌って、語りだと思う。
演技でもあると思う。
ただ音程が取れているだけの歌い方なら、機械でもできる。
感情の深みがなければ、ボーカロイドにだって負ける。
それに、どんなに技術があっても、雰囲気が合ってなければ人の心は動かない。
だったら、本家を聴けばいい。
そう思うようになってきた。
だから、“歌ってみた”を投稿するなら、
その楽曲を一つの「作品」として、自分の声でプロデュースし直す。
そのくらいの覚悟で向き合わないと、聴かれる意味がない気がした。
そのためには、まず歌詞を読み解く必要がある。
読みながら「ああ、ここ、知りたくなかった」と思うこともあるし、
「え、そういう意味だったの?」と心が揺れることもある。
けれど、それが面白い。
そして時に、自分には荷が重すぎるとも思う。
今まで僕は、そこまで深く考えていなかった。
「このコード、好きだな」とか、「雰囲気いいし、歌ってみようかな」とか。
ただの感覚とテンションで、感情を“当てはめる”ように歌っていた。
悲しいなら悲しく。
怒ってるなら怒ってるふうに。
それがダメだったわけじゃないけど、それ以上ではなかった。
表現はしていたけど、語ってはいなかった。
「一発録り」にこだわることで、“こなす”ことに満足していたのかもしれない。
その中で少しずつ技術は身についたかもしれないけど、
“語り手が作品の本質を知らないまま語る歌”になっていたと思う。
好きで歌う。
それは素敵だ。
でも、それだけじゃ自己満足で終わる。
投稿しても、それはカラオケと変わらない。
だから今は、深く理解して、演じて、歌うこと。
学ぶこと、読み解くこと。
趣味としての覚悟と、
仕事として向き合う覚悟は、全く違うものだと知った。
音程が取れてる?
テクニックがある?
もちろん、それも大切。
でも本当に大事なのは、
楽曲に寄り添って、自分の声がそこに生きられるかどうか。
ピアノの「ド」をどう弾くかで表情が変わるように、
声もまた、鳴らし方ひとつで意味が変わる。
同じ音でも、違う使い方ができる。
そんな可能性を、ずっと考えていたい。