ハイチの歴史のブログ

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ハイチってどんな国?

2010-03-16テーマ:ブログ

ハイチの歴史ハイチってどんな国?

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歴史はすべて現在に繋がっています。貧困の理由も歴史的背景の影響を多く受けています。ハイチの歴史を知ることでハイチへの理解を深め、現在のハイチに私たちができることを最大限していきたいと思っています。

先コロンブス期 (〜1492年)

紀元前4000年から1000年までの間にインディアンのアラワク人(タイノ人)が南アメリカ大陸から移住してきました。1492年にクリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を「発見」するまで、部族集団に分かれて生活していました。ヨーロッパ人征服時にいたインディアンの数は、およそ100万人から300万人程だろうと推測されています。

植民地時代 (1679年〜1804年)

1492年にクリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を「発見」。それから四半世紀のうちにアラワク人(タイノ人)は、スペインの入植者によって絶滅させられます。その後は、西アフリカの黒人奴隷を使って主に島の東部を中心に植民地経営をしました。
1697年のライスワイク条約でフランス領とされた、島の西側3分の1が現在のハイチの国土です。主に林業とサトウキビ・コーヒー栽培によって巨万の富を産みだしました。

黒人反乱と黒人国家の成立 (1804年)

1789年のフランス革命が勃発し、それを受け、黒人奴隷とムラート(混血の自由黒人)が1791年に蜂起しました。黒人反乱軍が一時勝ちましたが、1802年ナポレオンが派遣した軍に鎮圧されます。再び反乱軍が立ち上がり、イギリスの支援を受け1804年1月1日独立を宣言しました。

賠償金の圧迫と国内の混乱 (1826年〜)

1826年に開催したパナマ会議でハイチの承認が議題として取り上げられましたが、独立を承認する国家はありませんでした。結局ハイチはフランスからの独立の承認を得る代償として賠償金の支払いに応じました。この賠償金は長年借金としてハイチを苦しめることとなります。奴隷制の復活による国民の反乱や、軍事により統一した東部(現ドミニカ共和国)のスペイン系住民が独立を宣言し敗北するなど、混乱が続きました。

米国による占領 (1915年〜1934年)

1870年代末以降、まだ国家分裂や反乱は続きましたが、近代化への道を歩み始め砂糖貿易などで経済が発展し始めました。しかし賠償金や、近代化のための借金もふくらみハイチの財政を圧迫しました。またドイツによる干渉とハイチ占領・植民地化の試みも繰り返されたため、カリブを裏庭とみなすアメリカの警戒を呼び、1915年、アメリカは債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領しました。アメリカ軍は1934年まで軍政を続け、この間合衆国をモデルにした憲法の導入、分裂を繰り返さないための権力と産業の首都への集中、軍隊の訓練などを行いましたが、これは現在に続く地方の衰退や、後に軍事独裁を敷く軍部の強化といった負の側面も残してしまいました。またハイチの対外財政は1947年までアメリカが管理し続けました。

デュヴァリエ独裁政権 (1957年〜1986年)

1957年、クーデターで誕生した軍事独裁政権下で、ゼネストやクーデターが繰り返され政治は混乱したが、9月に行われた総選挙をきっかけに、フランソワ・デュヴァリエが大統領に就任しました。彼は当初、黒人進歩派とみなされ「パパ・ドク」と親しまれましたが、翌1958年から突然独裁者に転じ、警察や国家財政などを私物化し近代でもまれに見る最悪の軍事独裁体制を誕生させました。
デュヴァリエは戒厳令を敷いて言論や反対派を弾圧し、多くの国民を逮捕・拷問・殺害しました。デュヴァリエの死後、跡を継いだ息子のジャン=クロード・デュヴァリエが、クーデターで追われる1986年までの長期に渡り、デュヴァリエ父子主導の下、暗黒時代が続いた。

デュヴァリエ以降 (1987年〜)

1987年に新憲法が制定され、民主的選挙によって選出された、アリスティドが1991年に大統領に就任。しかし、同年9月のラウル・セドラ将軍による軍事クーデターにより、アリスティドは亡命。軍事政権は、国連(国際連合ハイチ・ミッション)及びアメリカ合衆国の働きかけや、経済制裁などの圧力、更に軍事行動を受けた結果、政権を返上しました。軍事クーデターを起こしたセドラ将軍は下野し、アリスティドは1994年に大統領に復帰しました。

2004年に入って武力衝突が発生。1994年以降に国軍の解体が進められていたこともあり、反政府武装勢力に対し政府側は武力で十分な抵抗することは出来ませんでした。アリスティド大統領は辞任し、隣国ドミニカ共和国へ出国、中央アフリカ共和国に亡命し、中央アフリカ共和国においてフランス軍の保護下に入りました。
三者評議会は直ちに賢人会議を立ち上げ、長く国連事務局にあったラトルチュを首相に指名、組閣が行われました。

2004年6月1日の国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)が発足が発足し、治安確保、政治プロセス支援、人権・人道支援の調整のため幅広い分野での活動が展開されており、以降国内治安情勢は安定化してきました。
しかし、経済状況は現在に至り改善されず、多くの国民が貧困に苦しんでいます。そして2010年1月12日、大地震がハイチを襲いました。

ハイチってどんな国?


参考WEBサイト
| ウィキペディア(Wikipedia) | 外務省HP |