年の9月から息子たちの小学校でEA(Educational Assistant)としてお仕事をさせてもらっています。息子たちの小学校は全校生徒50人の小さな学校なので、二学年一クラスで勉強しています。

 

昨日、3/4年生のクラスの担任の先生にリーディングの測定をしてほしいと頼まれました。短文を読んで、一分間でどれだけの単語を読めたかという測定です。一番最初に来てもらった3年生の女の子はリーディングがあまり得意ではなく、読むスピードも速い方ではありません。一分が経ち、「はい、そこまで。」と終わりを告げると、「私、良く出来てた?」と聞かれました。咄嗟なことで、質問されるとは思っていなかったので、こんな答えが出てきました。

 

「____が一番最初でしょ?まだ他に誰もやってないから、分らないな。」

 

こんな答えに納得していないような表情だったので、

 

「でも、止まらずに時間まで読んだよね。だからグッドジョブだよ。」とフォローを入れたようなコメントを付け足しました。

 

 

今晩、茶碗洗いをしながら、ふと今日学校でのこの子とのやりとりを思い出したのです。(なぜか、茶碗洗いをする時の私は頭が冴えて、いろいろ考えてしまいます...)そして、もっといい答えがあったのに気づきました。なぜ、「ベストを尽くして読んだ?なら良く出来たと思うよ。」と言ってあげられなかったのだろう...

 

私の「良く出来た」の基準は「他人との比較」にあったことに気づきました。周りと比べて自分の位置はここだから、良く出来ている、または、良く出来ていない、そういう基準で物事や人を測っているのか、とはっとしました。

 

学校で子どもたちを相手にしていると、「十人十色」という言葉に心から納得します。ある子は算数が得意、ある子は文章力がある、ある子はスポーツ、ある子は絵を書くのがとても上手、ある子は気が利く、ある子は心が優しいなど、一人ひとり個性と特色があり、人間を創った神さまは本当に想像力豊かなアーティストだと改めて感嘆します。

 

だから他人と比べるのは、本当は無意味なことなのです。ところが、他人との比較で成り立っているようなこの社会で生きる私たちは、他人との比較という「呪い」から完全に逃れられないというのが現状なのではないでしょうか。

 

例えば、受験に合格することも、面接をパスして採用されることも、自分が販売する商品を買ってもらうことも、よく考えてみると、他人との比較の結果ですよね。

 

ですが、他人と比較することは無意味なだけではなく、ある意味「危険」だと思うのです。他人と比較して生まれるものは「醜い」ものでしかありません。自分が他の人より劣っている場合は、嫉妬やねたみ、または自己卑下に陥りかねません。逆に自分が他人より優れている場合、知らず知らずのうちに傲慢な態度や他人を見下すような態度を持つようになるかもしれません。そして、そういう態度から、最終的に自分や他人を傷つけてしまう可能性もでてきます。

 

 

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。」(ヤコブ 3:14)

 

「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」(ヤコブ 3:16)

 

 

 

子どもたちにも、「周りと比べる」のではなく、「自分と比べなさい」と言っています。が、長い間、潜在意識で培っていた「他人と比較する」という観点がやはり無意識にでてきました。

他人と比べて自分がどうのこうの、というよりも、前の自分と比べて、なにか改善されているか、もっと成長しているか、進歩しているか、という問いの方が正しいと思うのです。

 

競争心の強い私にとっては、頭で理解していても、実際に他人と比較しないことは、これからも大きな人生の課題の一つとなるでしょう。

 

5年前の自分、10年前の自分に、今の自分は「良くやった。良く出来ている。」と言ってもらえるでしょうか。将来の自分に今の自分から「良くやった、良く出来た!」と言ってあげれることを目標に、他人と比較するのではなく、自分の歩みをきちんと見つめていきたいと思いました。