「自
分には才能があるはずなのに...なんで上手く行かないんだ...」

「あの人のようになりたい!」
「あの人くらい_____ができるようになりたい!」


自分の目標や夢に達すことができず、もどかしく思っている時に

周りで自分が目指そうとする特定な分野で秀でている人を見ては、

自分もあんな風になれれば...と願う。

夢に向かって努力しているのに、なかなか思うようにならず、気落ちしている時に

夢をかなえて、キラキラ輝いている人が周りにいると、自分と比べてしまう...


夢というものは結構厄介なものかもしれない、そう思うことさえある。


夢。自分のやりたいこと。自分が得意なこと。自分らしく生きることができる、こと。

最近、「自分らしく」いられる場所が自分がずっと避けて来た場所だったことに気づいた。



目標とするなら、「
大道具、小道具、衣装、メイク」といった影で支える役よりも、

やはり「舞台の上に立つ役者」になりたい、そう思ってきた。

ずっとこだわってきたものを手放すのは簡単なことではなかったけど、手放したことで、

「自分らしく」いられる場所が見つかった。


ちょうど最近そんなことがあったばかりだったので、

先週の日曜礼拝のメッセージ「自分らしく生きる」は心に響いた。


神はモーセにこう指示した。

見よ、わたしはユダ族のフルの孫、ウリの子 ベツァルエル を名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。わたしはダン族のアヒサマクの子 オホリアブ を、彼の助手にする



出エジプト記 31:1-6


ベツァルエルの使命は「舞台の上に立つ」ことだった。

そのために必要な神の霊(神の力)、知恵、英知と知識を神から与えられた。

一方で、オホリアブは「ベツァルエルの助手」になるよう命じられた。



オホリアブの気持ちはどうだったのだろう。

「自分もベツァルエルの役を果たせる才能はある。」そうは思わなかったのだろうか。


神は、私たちそれぞれに使命を与えた。そして、その使命を果たせるよう、

私たちを自分の霊で満たし、そのために必要な知恵、英知、と知識を与えてくれる。


だから何も懼れることはない。

ただ、一つだけ邪魔ものが...

私たちのプライドである。


もし、
オホリアブの使命を与えられたら、自分は、どうするだろう。

「自分は、オホリアブでなく、ベツァルエルになる!」と思うか。

それとも、「オホリアブとしての使命を受け入れ、全力を尽くして、その使命を果たす」か。


向上心を忘れてはいけないと思う。

でも、と同時に、自分らしく生きるための場所は

必ずしも自分が頭に思い描いている場所であるとは限らない。


心をオープンにして、神を信頼し、自分を委ねるのなら、自分らしく生きられる。

「舞台に立つ役者」でなくとも、影で支える「大道具、小道具、衣装、メイク」の役でも

心をオープンにして、与えられた使命を心から受け入れるのなら、

自分らしく生きられる場所は、案外思っていたのよりも近くにあるかもしれない。