かな木陰にあるパティオの椅子に腰掛け、


コンピュータに向かってカタカタ打っている自分の姿。


どこかのリゾートで海を見ながら、コンピュータに向かってカタカタ打っている姿。


ジャズをBGMにコーヒーのアロマに包まれたオシャレなカフェで

カタカタコンピュータのキーを打っている姿。


それが「理想の仕事をしている」自分の姿。


「ライター」というカッコイ仕事は40代に入ってから持ち始めた夢。

でも、その理由を突き詰めていくと...

そこには「認識されたい」という自己中心な願望が根底にあった。

「持っている言語力を使って、福音を伝える仕事をしたい」

なんて聞こえがいい、もっともらしい理由をつけて、

このブログもそういう「企み」があって始めたもの、と言っても過言ではないと思う。

「日本語を取り戻す」ために、「一人でも多くの人がイエスのことを理解できるように」など、

嘘ではないけど、本当に本当の理由ではない理由を立て前に「努力」してきた。


主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

詩篇 127:1


この数年注ぎ込んできた努力がむなしく感じる原因はここにあったのだ。


自分の立てたプランに神を押し込むのではなく、

神のプランに自分を完全に委ねることができるとき、

神はようやく、私を最も理想なものへ導くことができる。



「神さま、あなたの導きを信じます。どこへたどり着くにしても、

自分にとって一番適切で最高なアレンジメントであることを信じています。」


自分の中で築き上げて来た「理想の仕事」を手放した。


すると、すぐに一つのドアが開けられた。

そのドアの向こうには「心地良い、自分にピッタリな居場所」があった。


ありがとう、神様。