なり前に読んだ『母』、実は内容はほぼ記憶にない。

こういう時に「一度読んだら忘れない人の記憶」が羨ましくなる。

母を想うこういう時だからこそ目に入った『母』。

母親のことを語る内容かと読んでみたら、母親の語る息子の話だった。


拷問死された小林多喜二さんの母が語るかたちで書かれた『母』。

小林多喜二さんの生涯が母のセキさんの視点から語られている。

母を思いやり、兄弟に優しく、家族のために尽くしてくれるそんな息子は

どんな母親でも誇りに思う息子ではないだろうか。

そんな息子が急に、しかも拷問され、不正な死に方をした。


セキさんの気持ちは同じ遭遇に遭った人でなければ分らないだろう。


小林多喜二さんが亡くなった後、セキさんは

「神も仏もあるもんか」と口に出して言うようになったとのこと。

それまでは神さまや仏さまによく手を合わせていた人だったようだ。

自分の息子があんな目に遭って、当たり前の反応だと思う。


そんなセキさんだったが、後々で、娘のチマさんが通う小樽シオン教会の

近藤先生に、自分の葬式は先生にキリスト教でお願いしたいと言うようにまで変わった。


「小林多喜二さんの人格と死」と「イエスの人格と死」が重なって見えたことで

神の「愛する独り子を世の人に与えられた」無限の愛を直に心に感じたのが

最終的にイエスを受け入れる鍵となったのではと思う。

「自分は『神も仏もあるもんか』と怒ったのと正反対に、同じように独り子を失くした神だが、

私たちを愛するがために、自分から進んで独り子を犠牲にした」

そんな神の無限の愛に、同じような遭遇に遭ったセキさんは心を打たれたのだろう。


神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。


ヨハネの福音書 3:16-17



予期していた内容とは全く違うものだったが、

小林多喜二さんのように「夢」と「目的」を持って生きるということ、

困難の中にありながら、明るく一生懸命に生きること、

母と子の堅く結ばれた信頼関係、そしてセキさんのような遭遇に遭った人でも

経験できる神からの安らぎ、224ページとすらすら読めたが、

内容の濃厚な一冊だった。