30時間の断食も、初の大腸カメラも無事終わり、
ここ数日間に心に強く感じたことを整理する時間がやっとできました。
結論から言うと、これから定期的に「断食と祈り」を
日常生活の一部として取り入れようと決めました。
前回の記事でも触れましたが、
イエスを含めて、いろんな人が断食しながらお祈りをしたことが
聖書全般にわたって記述されています。
「断食と祈り」を語るのに、まずはじめに
明確にしておかなければならないのは、
「断食と祈り」は信仰生活と深い関連があるのにも関わらず、
私たちが救われるかどうかの計りにはならないということです。
言い換えれば、断食をしながらお祈りをしていないからといって、
「イエスを信じたことで救われた」
という事実が取り消されることはありません。
つまり、「断食をしながらお祈りをする」ことは、
救いの条件の一つではないのです。
また、それは、クリスチャンの重荷でも、義務でもありません。
信者になったから「しなくてはいけない」ということではないのです。
キリスト教は、「あれをしなければ」「これをしなければ」
という宗教ではありません。
求められていることはただ一つ、イエスを信じること。
「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」
へブル10章19節
では、なぜ旧約聖書と新約聖書の中で「断食をして祈りをささげる」ことが
いろんな箇所に重要なこととして記録され、
しいては、「断食をして祈りなさい」という教えがあるのでしょう。
簡単にまとめてみると、断食と祈りの関連は、
3つのタイプに別れるようです。
1.悲嘆や悔い改め、または、深い霊的必要を感じるとき (旧約聖書)
2.とりなしの祈りをするとき (旧約聖書)
3.主を礼拝し、主の恩典を求めるとき (新約聖書)
(*参照サイト GotQuestions.org )
このいずれの理由で断食し、祈りをしたとしても、
共通するのは、私たちの心にある「主からそらすもの」を絶ち、
情熱をもって、神を信頼し、祈りを捧げると、
断食せずに祈るときよりも遥かに
パワフルな結果をもたらすことができます。
こういうクリスチャンの誠実な気遣いは、
自分を神の意志と並ぶ位置に置くことで、
「霊的な領域に打ち破りがもたらされ、天の窓が大きく開かれ、
主の御国の供給が大胆に解き放たれる」のです。
(*参考サイト 「祈りと断食によって」)
クリスチャン歴20年になる今年、
今まで以上に、神の御国をこの地でも体験したい
と強く思うようになりました。
断食と祈りによって、
神の素晴らしさを今まで以上に体験し、
神との関係がさらに親密になれることを期待し、祈りつつ...