夜、ベッドで読もうと思って取った

「Chiristian Home and School」(Fall, 2014)という雑誌で

子供の鬱病についての記事がありました。



1982年当時のエール医学大学でもまだ

子供の鬱病に対する認知はなかったものの、

最近では若い人達の最大死因のうちの一つとして

注目されるようになりました。


2010年の連邦防疫センターの調査によると、自殺は

アメリカの10歳から24歳までの第三死因とあり、

25歳から34歳までの第二死因とあります。


無邪気な子供が鬱になるなんて誰も想像しがたい事だと思います。

大人のようなストレスもプレッシャーもない生活をして

憂鬱になるわけがない、と普通は気にも留めないでしょう。



だから私達も見落としていました。



次男の変化にようやく気付いたのは

次男が実際に変化し始めた一年後くらいでしょうか。

それまでは、新生児を迎えて忙しかったのもあって、

なんで問題ばかり起こすのかと腹立しく思うだけでした。

それまでは問題一つ起こさず、手のかからない子でしたので、


その変化を不思議に思いつつも、多分年頃のせいだろうとか、

弟が生まれたから多少の変化は当たり前とくらいにしか思っていませんでした。


それが、徐々にいろんな症状が表面化してきて、

なかなかもとに戻らないばかりではなく、

問題も深刻になってきたことに気付きました。


雑誌の中にあげられたこれらの症状の多くが見られました。
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悲しみに覆われる。涙ぐむことや泣くことが多い。

食量と睡眠のパターンに大きな変化が見られる。

集中できない。

体調が悪い(頭痛、胃痛など)。

暇をもてあまし、体力がない。

イライラしやすく、怒りや敵意を持ちやすい。

拒絶されることや失敗することに非常に敏感である。

今まで好きだったものや事に興味がなくなる。

登校拒否、成績が下がる。

孤立し、コミュニケーションがうまくとれない。

自尊心が低く、罪悪感に覆われる。

人間関係に問題が出てくる。

絶望感に覆われる。

家出のことを話したり、実際にしようとする。

自殺や自滅などの考えがある。



そして、これらの症状が長期に渡って続くと、

医者のケアが必要となる下記の「赤信号」に繋がる

と雑誌の記事は続いています。



引っ込み思案になる。

妄想やおかしな考えがある。

暴行、反抗、家出などの行為。

ドラッグやアルコールの使用。

外見、見栄えを気にしない。

褒められる事が好きではない。

自分のことを悪者扱いする。

「もうどうでもいい。」「もう問題にならないから。」
「もうすぐ自分を見なくても済む。」などの発言。

大事なものをあげたり、捨てたり、整理整頓したりする。

長期に渡る鬱の後、急に元気になる。


幸い、次男には沢山の症状が見られたのですが、

「赤信号」となりそうなところで回復し始めたので

専門家にはかかりませんでしたが、

長い4年間でした。


実は、私は専門家医の資料も取り揃え、

電話をかける一歩手前でした。

自分の価値観を見失った息子を見て、

これは鬱病かもとやっと気付いたのですが、

知り合いの友達の9歳の男の子が自殺したことを知り、

初めて、9歳の子供でも鬱病はこんなにも深刻な問題だと分ったのです。



今思えば、早く「鬱病」の症状だと気付いてあげられたら、

次男は4年間もの長い間あんなに苦しまずにすんだはず

と悔やんでしかたありません。


正式に診断されなかったものの、

こうして、雑誌の記事を読んでいると、

改めて、次男が鬱病だったと再確認しました。


そう思った時、神の憐れみと恩恵に

感謝せずにはいられません。

無知だった私たちでしたが、

神は息子を守ってくれ、癒してくれました。

悲劇となり得る無知の道を歩いていたことを思うと、

ただただ、感謝の気持ちでしかありません。



専門家医にかかったわけでもなく、

薬を飲んでいるわけでもないのですが、

息子は一日一日と段々良くなっています。

悲しみに満ちた顔からようやく笑顔がみられ、

いつも怯えているような次男がパッと明るくなりました。

回復し始めてから一年、

小さい頃の次男がようやく戻ってきたように思えます。


長男の障害と赤ちゃんだった末っ子の世話で、

普通に問題なく育っていた次男は大丈夫だと気を抜いたばかりに

次男のニーズを見落としてしまいました。



この一件があり、次男と向き合って、初めて

次男は気持ちが人一倍繊細な子だと分りました。

自分が愛されているということを

常に確認しないと安全感のない子だったのです。

その上、言語上での肯定を常に必要とする子で、

私達も言葉遣いに気をつけなければならないと気付きました。

なんでもないと思って言ったことでも、

次男にとっては「打ちのめされる」ほどのこともあります。


親としてまた一つのレッスンでした。

雑誌を閉じて、睡魔にさらわれてしまう前に

もう一度、息子を癒してくれた神に

心から感謝の祈りを捧げて、目を閉じました。


しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

イザヤ書第53章3節