志賀直哉の「暗夜行路」を読んだ後の
「天北原野」(上、下)は、すらすらと読めました。
三浦綾子さんの本は、久しぶりだったのですが、
読みづらかった「暗夜行路」の後だったせいか、
やはりとても読みやすく、親しみが感じられました。
三浦綾子さんの小説を最後に読んだのは十何年も前のことだったのですが、
「原罪」をテーマに、登場人物一人一人が背負う十字架を
これでもか、これでもか、というほど投げかけられ、
唖然とさせられてしまうのは、どんなに時間が経っても同じでした。
自分の身勝手のために犯した罪が他の誰かに不幸をもたらし、
その不幸から生じる罪がまた次の誰かを不幸にする。
チェーインリアクションとなって、広まっていき、
「一人の罪が決してそこで終わることはない」
罪の恐ろしさを改めて気付かせてくれるストーリーでした。
何事をする前にもきちんとその行動の結果を
考えてから行動する重要さを忘れてはいけないと思いました。
軽はずみでしたことが誰かの一生を変えることもあるのだから。
テーマがテーマなので、重々しい雰囲気が始終漂う「天北原野」でしたが、
心に最もインパクトを受けたのは、主人公「貴乃」の生き方です。
書かれてある通り、彼女の人生は
「耐えて、耐えて、耐え抜く」
ものだったのです。
「死んだつもりで嫁いで、後は耐えて、耐えて、耐え抜く」人生。
「死んだつもりで嫁ぐ」
これはすこし理解できるのですが、だからといって、
本当に耐えて耐えて耐え抜くことができるのだろうか。
どれくらいの葛藤が心の中で生じ、
それをどれくらいの「ちから」で抑制するか
考えただけでもおそろしく辛いことでしょう。
小さなことでもこだわり続ける私にはできないことだと思いました。
クリスチャンオーサーであっただけに、期待もあったのですが、
思っていたほどキリスト教の教えについて触れていなかったのが
少し残念だというのが本音でした。
が、今こうしてレビューを書いていて、
「死んだつもりで生きる」
こそ、クリスチャンの生き方ではないか!と気付きました。
イエスは、「死ぬため」に人間として生まれて来たのです。
この世に命を与えられた目的、それはたった一つ、
人間の罪のために十字架にかけられることだったのです。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
ヨハネによる福音書 3章16-17節
そのイエスが死後3日に復活し、天に帰られました。
それを信じる者は、イエスと同様、死んで葬られ、復活して
新しい命を与えられたことになります。
もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
ローマの信徒への手紙 6章8節
次の言葉は確実である。「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。
もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。
テモテへの手紙二 2章11節
あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
コロサイの信徒への手紙
つまり、クリスチャンは
「死んだつもりで生きている」のです。
果たして、私にはできているのだろうか。
と自分に問いかける良い機会となりました。