日は、私が日曜学校(3歳~6歳児のクラス)を教える番でした。

「教える」側なのに、いつも最後には「学ぶ」側になってしまいます。

昨日も例外ではありませんでした。



昨日のレッスンは「マタイ による福音書の第20章1-16節」で

イエスが語られた寓話、ぶどう園で働く労働者についてでした。


1 天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 
2 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 
3 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 
4 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 
5 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 
6 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 
7 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 
8 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 
9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 
10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 
11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 
12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 
13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 
14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 
15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。 
16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。 


本当のところ、今までこの話を読んでは、

「やっぱり不公平じゃないか。」と思っていました。

すんなり、「イエスの言う通りだ」と思えないところがありました。

人間の限りある観点からこの話しを理解しようとしていたからです。

それが、今回このレッスンの準備をするに当たって、

神は、ようやく私の「目についていたうろこ」をはがしてくれ、

この話の主旨を初めて理解し、納得しました。


聖書の不思議なところは、繰り返し同じことを読んでいても、

毎回毎回新しいメッセージが得られることです。

そして、読む人によっても、その人に必要なメッセージとなって、

糧らとなってくれます。


今回、私が得たメッセージとは、

「私たちが報酬を貰えるのは、私達の行いによるものではなく、

神の恩恵によるもの」

だということです。

私達が貰った「永遠の命」という報酬は、

私たちが善を行い、徳を積んだから貰えたのではなく、

神が憐れみの神で愛のある神であるから貰えた報酬なのです。



それに値する価値がないのにも関わらず、

貰えたという恩恵なのです。

最後にやってきた労働者のグループのように、

最初のグループと同じだけ働いていないのにも関わらず、

同じだけの報酬を貰えるという恩恵です。


神の恩恵は、イエスを信じる人になら誰にでも貰うことが出来ます。

息を引き取る最後の一瞬前だとしても、心からそう信じるなら、

それでも神の恩恵に授かることができます。

もう長い間、イエスを信じている人から見れば、

それは不公平なことなのでしょうか?


私はそうは思いません。

最後の最後で神の恩恵を受けると決心される方は

同じように永遠の命を貰うことはできます。

ですが、その直前までの一生を

貰える筈の神の恩恵、祝福なしで過ごして来たことになるのです。

もし、楽で悩みなき人生だったとしても、

神と繋がるその親密な関係なしで生きて来たのだから

最高のものをミスしてしまっているわけです。


クリスチャンであるということは、永遠の命を手に入れるために

いろんな儀式、しきたり、またはルールに縛られて生きることではなく、

天の国で一緒に過ごせる時まで、この地上で

神との関係、イエスとの関係を深めながら、

神からの恵みと祝福の中に生きることです。


改めて、救いが自分の行いによるものではないということに

平安を感じ、感謝の心を持ちつつ、

人々の祝福となる「福音」がもっと多くの「労働者」に

伝わることを願っています。