1週間ぶりの更新です。
一言では言えないような
忙しい毎日を過ごす今日この頃ですが、
それよりも、散らかっている我が家に埋もれて
とうとう我慢ならなくなったので、
やっと、家の片付けを優先しました。
なので、ブログ少しお休みしてました。
散らかりすぎてお手上げだった我が家も
息子達のお手伝いのおかげで、
やっとツリーや他のクリスマスデコレーションを
飾れるまでに至りました!



夜の静けさの中、ライトアップされたツリーを
眺めながら、クリスマスキャロルを聴くのは、落ち着きますね。
でもそれ以上に、喜びが湧いてくるのを感じます。
そこで、「幸せ」と「喜び」について考えてみました。
ちょっとややこしいですが、英語では
"happiness" と "joy" のことです。
"happiness" は、日本語ワードネット辞書によりますと、
「満足した時にある感情」と定義されています。
それに対し、"joy" は、「喜び、満足の種(もと)であり、
"happiness"より固い、delight より大きな深い喜び』
とハイパー英語辞書に記されています。
さらには、印欧語根において
『宗教的な恐れ、畏怖の念を持つことを表わす』
という意味もあり、Katie Brazelton の本、
「 Praying for Purpose for Women」の第54日の記述で、
「喜びのもとは、命の中にイエスがあることにあります。」
と彼女が定義したのと一致します。
"happiness" は、Katieさんによると、例えば
「セールでいいものを見つけた時、
美味しいレストラントを見つけた時、
子どもがオールAを取った時」にもつ感情で
それこそ、日本語ワードネット辞書で定義されたように、
満足した時に出てくる感情です。
でも逆に満足できたこと(もの)が
無くなった時はその感情も消えてしまう
という一時的なものです。
それに対して、
"joy" は、「喜び、満足の種(もと)」
であるだけに、環境、状況に影響されずに
永く続くものなのです。
クリスチャンにとって、「喜びの種、満足のもと」は
もちろん、イエスにあります。
イエスの愛に基づいて築かれた
私達と神の関係は、「喜びの種」「満足の種」となって、
私たちの心の中で生き続きます。
それは、どんな逆境においても、
自分の身の周り、自分の身に起きていることと関係なしに存在する、
心の中の深い所にある「喜び」なのです。
この違いについて考えている時に、
やっと分った事がありました。
結婚後、しいては出産後も
なぜ、ずっと幸せに思えなかったのか。
私にあったのは、
「幸せ」(を感じさせてくれる瞬間)であって、
「喜びの種」ではなかったのです。
つまり、満足した時は "Happy" だったけど、
自分の思い通りにならなかった時は
もちろんのこと、"Happy" じゃなかったのです。
ですので、思い通りにならないことばかりだと、
「幸せ」だなんて思えませんよね。
結婚して、子どものいる人は共感が持てると思いますが、
独身の時に比べて、自分の思い通りになることなんて
ほぼないのではないでしょうか?
幸せに思えなかったのは、
間違ったものを追いかけていたからなのでした。
「"Happiness"が一切れのチョコレートケーキだとしたら、
"Joy"は、そのチョコレートケーキのレシピーのようなものです。」
Katieさんの例えは本当に適切だなって思いました。
チョコレートケーキはどんなに美味しくても
食べてしまえばなくなります。 だから私達は
常に次のチョコレートケーキを探しています。
または、チョコレートケーキをくれる人を探しています。
でも、自分でそのレシピーを持っていたら、
自分でも作れたら、
そのケーキを売っているレストラントやお店、
そのケーキを作れる人、買ってくれる人
を探さなくてもいいのです。
私はここ数年になって、
ようやく、このレシピーをトライする気になりました。
ずっと、このレシピーを手に持っていたので、
作れた気でいたのですが、
持っているのと実際に作れるのはやっぱり違いますね。
持っていても、実際に作らないと、
ないのと変わりありません。
だから常にチョコレートケーキを探し続けていました。
というか、このチョコレートケーキをくれる人
を探していたと言った方が当たっているかもしれません。
特に、夫と子ども達からは
沢山もらえることを期待してきたのです。
言うまでもなく、もらえなかった時は、その分失望しました。
でも、最近、ようやく気づきました。
レシピーがあるのだから、自分で作れるんだ!と。
2000年前、このレシピーは
世界中の人に与えられました。
2000年以上も存在するこのレシピー、
世界中にはまだ知らない人もいます。
知っていても、自分で試そうと思わない人もいます。
聞いた事はあるけど、何のレシピーかさっぱり分らない人もいます。
どこからどう「手をつけたらいいか」分らない人も沢山いるのではないでしょうか。
でもこのレシピーをくれた神さまは
世界中がこのレシピーを受け入れて
「喜びの種」が植えられるのを心待ちにしています。
このクリスマス、
もっと沢山の人がこのレシピーをトライして
チョコレートケーキを探すのではなく、
作れるようになることを祈ります。
あなたが欲しいのは
美味しいチョコレートケーキですか?
それとも
そのチョコレートケーキのレシピーですか?
「さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
一言では言えないような
忙しい毎日を過ごす今日この頃ですが、
それよりも、散らかっている我が家に埋もれて
とうとう我慢ならなくなったので、
やっと、家の片付けを優先しました。
なので、ブログ少しお休みしてました。
散らかりすぎてお手上げだった我が家も
息子達のお手伝いのおかげで、
やっとツリーや他のクリスマスデコレーションを
飾れるまでに至りました!




夜の静けさの中、ライトアップされたツリーを
眺めながら、クリスマスキャロルを聴くのは、落ち着きますね。
でもそれ以上に、喜びが湧いてくるのを感じます。

そこで、「幸せ」と「喜び」について考えてみました。
ちょっとややこしいですが、英語では
"happiness" と "joy" のことです。
"happiness" は、日本語ワードネット辞書によりますと、
「満足した時にある感情」と定義されています。
それに対し、"joy" は、「喜び、満足の種(もと)であり、
"happiness"より固い、delight より大きな深い喜び』
とハイパー英語辞書に記されています。
さらには、印欧語根において
『宗教的な恐れ、畏怖の念を持つことを表わす』
という意味もあり、Katie Brazelton の本、
「 Praying for Purpose for Women」の第54日の記述で、
「喜びのもとは、命の中にイエスがあることにあります。」
と彼女が定義したのと一致します。
"happiness" は、Katieさんによると、例えば
「セールでいいものを見つけた時、
美味しいレストラントを見つけた時、
子どもがオールAを取った時」にもつ感情で
それこそ、日本語ワードネット辞書で定義されたように、
満足した時に出てくる感情です。
でも逆に満足できたこと(もの)が
無くなった時はその感情も消えてしまう
という一時的なものです。
それに対して、
"joy" は、「喜び、満足の種(もと)」
であるだけに、環境、状況に影響されずに
永く続くものなのです。
クリスチャンにとって、「喜びの種、満足のもと」は
もちろん、イエスにあります。
イエスの愛に基づいて築かれた
私達と神の関係は、「喜びの種」「満足の種」となって、
私たちの心の中で生き続きます。
それは、どんな逆境においても、
自分の身の周り、自分の身に起きていることと関係なしに存在する、
心の中の深い所にある「喜び」なのです。
この違いについて考えている時に、
やっと分った事がありました。
結婚後、しいては出産後も
なぜ、ずっと幸せに思えなかったのか。
私にあったのは、
「幸せ」(を感じさせてくれる瞬間)であって、
「喜びの種」ではなかったのです。
つまり、満足した時は "Happy" だったけど、
自分の思い通りにならなかった時は
もちろんのこと、"Happy" じゃなかったのです。
ですので、思い通りにならないことばかりだと、
「幸せ」だなんて思えませんよね。
結婚して、子どものいる人は共感が持てると思いますが、
独身の時に比べて、自分の思い通りになることなんて
ほぼないのではないでしょうか?
幸せに思えなかったのは、
間違ったものを追いかけていたからなのでした。
「"Happiness"が一切れのチョコレートケーキだとしたら、
"Joy"は、そのチョコレートケーキのレシピーのようなものです。」
Katieさんの例えは本当に適切だなって思いました。
チョコレートケーキはどんなに美味しくても
食べてしまえばなくなります。 だから私達は
常に次のチョコレートケーキを探しています。
または、チョコレートケーキをくれる人を探しています。
でも、自分でそのレシピーを持っていたら、
自分でも作れたら、
そのケーキを売っているレストラントやお店、
そのケーキを作れる人、買ってくれる人
を探さなくてもいいのです。
私はここ数年になって、
ようやく、このレシピーをトライする気になりました。
ずっと、このレシピーを手に持っていたので、
作れた気でいたのですが、
持っているのと実際に作れるのはやっぱり違いますね。
持っていても、実際に作らないと、
ないのと変わりありません。
だから常にチョコレートケーキを探し続けていました。
というか、このチョコレートケーキをくれる人
を探していたと言った方が当たっているかもしれません。
特に、夫と子ども達からは
沢山もらえることを期待してきたのです。
言うまでもなく、もらえなかった時は、その分失望しました。
でも、最近、ようやく気づきました。
レシピーがあるのだから、自分で作れるんだ!と。
2000年前、このレシピーは
世界中の人に与えられました。
2000年以上も存在するこのレシピー、
世界中にはまだ知らない人もいます。
知っていても、自分で試そうと思わない人もいます。
聞いた事はあるけど、何のレシピーかさっぱり分らない人もいます。
どこからどう「手をつけたらいいか」分らない人も沢山いるのではないでしょうか。
でもこのレシピーをくれた神さまは
世界中がこのレシピーを受け入れて
「喜びの種」が植えられるのを心待ちにしています。
このクリスマス、
もっと沢山の人がこのレシピーをトライして
チョコレートケーキを探すのではなく、
作れるようになることを祈ります。
あなたが欲しいのは
美味しいチョコレートケーキですか?
それとも
そのチョコレートケーキのレシピーですか?
「さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。
御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。」 ルカ書2章8-14節