






















先週末参加したリトリート(クリスチャンのカンファレンスみたいなイベント。
日本語ではなんって言うんだろう、、、? 知っている人いたら、教えて下さい!

いろんなこと考えさせられました。
金曜日の夜から開催されたこのリトリート、
最初から深いところを突く!
そのうちの一トピックをこのエントリーで取り上げたいと思います。
日本では謙虚であることに美徳があるので、
どんなに自分に自信を持っていても、一般的に
自分の良い所をべらべら自慢することはありませんよね。
必要以上に「謙虚」になって、
明らかに誰から見ても秀でているのに、
「そんなことない。」って言っちゃいますよね。
謙虚ならいいのですが、
みんなから見ていいと思うことでも、
本当に心から「そんなことない」って自分を否定する心には、
赤信号が光っているのと同じで「要注意」だと思うのです。
そんな時、よくよく考えてみると、
色んなものに後を引っ張られて、全力疾走することはもちろんのこと、
思うように前に進むことさえ出来ないでいるのではないでしょうか?
これらの樹の枝には私達を束縛し、自由を奪う可能性のあるもの
が結ばれています。

罪悪感、衝突、失敗、挫折、不安、怒り、虐待、悲しみ、過食、家庭内暴力、
羞恥心、自己嫌悪であったりと、私たちを束縛するものは数えきれないほどあります。
どうしたら、これらから解放され、本当に自由になれるのでしょう?
嫌だと思いつつ、実は私たちは慣れた環境を心地よく思っているので、
変化を好まないのです。または、自分ではどうすることも出来ない
という諦めが有るからかもしれません。
このリトリートのスピーカーであったシーラさんは
嫌だと思う自分を過去のものとして放下し、
これらの束縛から解放され、自由に前に進む方法を
思い出させてくれました。
それは、どんなに自分はそうする値がないと思っていても
自分の思い描く自分を捨てて、
神様の目に映る私たちを事実として
受け入れることにあるのです。
私達がどんなんでも、
神にとっては愛おしいこどもたちです。
神の目には私達は美しく映っているのです。
独り子のイエスを犠牲にしてまで
私達との関係の修復を望んだ神にとっては
私達一人一人は価値のある特別な存在なのです。
「心の中で思い描くネガティブな自分を象徴したようなボロ着ではなく、
代わりに神様が用意してくれた綺麗な着物を身にまといましょう!」
シーラさんの言葉に励まされ、希望を感じました。
前の記事(「おおかみこどもの雨と雪」)でルカ書第15章に書かれてある息子と父親の話を紹介しました。 (ルカ書第15章全文はこちら)
その中の一部分(18節から23節)を詳しく見てみますと、こう書かれてあります。
、、、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
この放蕩息子は父親の所に戻って、
「雇用者として雇ってもらえないか」と聞く予定でした。
ところが、彼の父親は息子が
「 どうぞ、雇人のひとり同様にしてください 」
と言う前に
「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。」
と遮って、息子の帰宅を心から喜んだのです。
これが神の心です。何の報いを求めることなく、
ただ、自分の子供達が自分のもとに戻ってくるのを
心から望んで、待っているのです。
放蕩した息子でも愛おしいのです。
この息子がしたことでたった一つ正しい事は
父親の差し出した「最上の着物、指輪、と履物」を
ありがたく受け取ったことです。
いくら父親があげたくても
この息子が拒否したなら、「いや、ボロ着でいい!」
と頑固に聞かなかったとしたら、前のままで何も変わりませんよね。
神は私たち一人一人のために
「最上の着物、指輪、と履物」を用意してくれています。
自分が自分に着させていた「ボロ着」を脱ぎ捨て
神が用意してくれた私達にふさわしいと思われる
「最上の着物、指輪、と履物」を身にまとってみませんか?
心から自由になったという解放感に一歩一歩
近づいていくでしょう。
神の恵みがありますように。