🌷過去メモをここに移して

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⬇️2019年のメモ⬇️

 

松波閑子

『愛は共に痛むもの』より

 

謙遜って何だろう

「私などつまらない人間でございます。

小さい者、弱い信仰の持ち主でして‥‥」

こう言えば大抵の人は

謙遜な人だと思ってしまう。

そしてほめる。

 

女のくせに文章を書いて説教して

噛みついて何ていやな奴だろう、

こう思われているに違いないと

時々自分のことを思う。

そして厭になる、自分が。

 

又、無教会の人たちは

黙って伝道している。

それなのに、やれ勉強したの、

伝道者になったのと

鳴物入りで不愉快な奴だと

思う人もあらんと

自己嫌悪に陥ること屡々である。

 

そんな時、謙遜て何だろうと考えてみる。

 

冒頭に書いたことが

(人がとは言わない、真にそう言って

真に謙遜な人もおられるだろうから)

もし本当に謙遜をあらわすなら

私はうそだと言いたい。

人間など初めからつまらないものだ。

だいたい基督教界では

人間が人間をほめすぎる。

ほめたたうべきお方は

ただ一人であり

そのお方から見ればみんな五十歩百歩、

たいして変わらない罪人なのに

どうして人は人をほめるのか。

素晴らしい信仰の人をほめる。

なんとおろかな行為かと思う。

その人はうつわに過ぎないのに。

トイレの花びんもあれば、

正倉院の花びんもある。

それはそれでよいのだ、

大事なのは神の栄光である。

ほめられるなんて恥ずかしいことだ、

この私をすべてご存知のお方が

いらっしゃるのに、

と言った人の言葉に胸を打たれる。

そうなんだ、

謙遜であろうとする心の奥にさえ、

正しき自分、美しい自分、

自己満足、自己称賛や快感が

ひそかにあるーー

それくらい人は罪深い。

ルターは

「神の命によってなされた最善の行為と言えども、罪のゆるしを乞わねばならない」

と言っている。

私は人のことを考えるそこに

もう賞賛やその反対を意識する

自分の罪を感じるので、

こう祈るのです。

 

「神様、私を赦してください。

私の罪をきよめ、

ごう慢をうち砕いてください」と。

ここにのみ、真の謙遜があり、

ここにとどまりつづけたいと思います。

なぜなら真の謙遜の井戸は

底のない井戸のようなもので、

ここまでへり下ったら

もうよいだろうというものではないように思うからです。

どうだ、自分はへり下っているだろうと思ってしまうと井戸をもうおりてゆかないからです。

神が人になり給うた、

ああ何とおどろくべき謙遜でしょう❗️