自分の記憶の一番最初

自分のいた場所は父のひざの上である


古い写真を見ても父が私を抱っこしている写真はほとんどない

当時の自宅の縁側などで胡坐を書き、そこに私を座らせている


そのころの写真を見ると、私の生まれる前、つまり母と付き合っていたころ、あるいは結婚後まだ子供の生まれる前などの姿があった


私の母は一人娘で亡き祖父はとても大事にしていたそうだ

95歳になった祖母は「とても気を使ってくれるやさしいひとだった」と語っている

確かに祖父などを交えた食事の写真では祖父も楽しそうにしている


一方母だけとの写真ではガキ大将が彼女に甘えているようなしぐさだ


こういった写真を父の生前に見ることはなかった

あるいは見ていてもその「意味」を理解することはなかった


厳しくて固いイメージの父とは異なる姿だ


もしもう少し違うタイミングでこの写真を見ていたら、父とも少し違う思い出が残ったかもしれない


父と私の親子関係を象徴するような写真かもしれない

父が旅立って早いもので4年目を迎えた

40年余りの親子としての時間だったが、きちんと話が出来た記憶がほとんどない

父は大学教授のを父に持ち、自らもいわゆる「県立一高」から「国立理数系」に進み、国家公務員を勤め上げた

「まじめ一徹」

かたや私はそこそこの私立高校に補欠合格するも付属としての優先進学に失敗して一浪、そこそこの私立大学に進むも中退して正社員経験はなし・・・

これが一人息子なのだからさぞかし父は「苦労」したことだと思う

事実、事あるごとに父と私は対立することが多く、特に中学、高校時代はそれこそ連日衝突していた

もっとも衝突といっても相手は戦後の復興期に練習船で生還が約束されない南極観測にまで出向いた筋金入り

理論でも腕力でもそれこそ「大人と子供」

加えて口数が少なく短気と、まあこちらにとっても当時はありがたくない親どころか、無礼にも憎しみの対象でさえあった

残念ながら大人になってからも変わらない、というほどひどくはなかったが少なくとも理解しあえていた、とはお世辞にもいえなかった


しかし、そんな父親がいなくなって見ると無性にさびしい

涙さえ出てきた


なぜなんだろう


不思議なご縁で私は父を送った年と子供を授かった年が同じなのだ

つまり、その年の6月までは「息子」

12月に「父親」

と立場が180度変わっている


わずかな差で祖父に会えなかった子供も今年幼稚園にあがる


これからの自分を考えるためにも、自らの生い立ちの記憶と父について少し整理してみようと思う