父とは、会う機会がそんなに沢山ありませんでした。
そんな父から急性骨髄性白血病になったと連絡があり、8ヶ月後70歳を迎えて、すぐに逝ってしまいました。
2018.5.30 11時56分
今日は、父への想いと末期を書き留めたいと思います。
25年前、父は1人家を出て、仕事一筋で過ごす道を選びました。
私が年頃になり、辛いことに直面した時、両親の離婚のせいにだけはしないでおこうと、子供ながらに考えていました。
そのせいか、寂しいとか言う感情はあまりなかったように思います。
母は、当然父のことは大嫌いだったので、私も夫婦生活においては、父が悪かったんだと思っていました。
しかし、私が大人になり、だんだん母と父の短所と長所が客観的に見えてきて、父の良さを少しずつ理解することが出来ました。
私にも家族ができ、呼んであげれる場所ができたので、少しずつ交流が増えてきた矢先に、急性骨髄性白血病と診断され、緊急入院。
長い長い抗がん剤治療が始まりました。
なかなか完全に異常細胞はなくならず、
治験もトライし、
一度は寛解状態までもっていくことができたのですが、すぐに一部に効きが悪かったと言われ、
再発に...
この時は、ショックだったと思います。
一度、退院をし、その後の治療方法を考えて行きましょうと説明を受け、
退院2日後、我家でバーベキューをしようと呼びました。
その時、電車で行くと連絡があり、大阪から生駒まで1人で電車に乗り来てくれました。
この時も、結局無理させてしまったと後悔しています。
なぜならその後、筋肉痛、発熱と症状が出てしまい、再入院になってしまったのです。
外で過ごしたい希望が強かった父。
もう、いいんじゃないか、、、と。
治療を辞めて、自由な時間を少しでも長く取りたいとこのタイミングで決めました。
その後は、我家に住み通院しながら、やり残した終活をしよう!なんて明るく話をしていました。
ですが、熱の嵐が治らず、血尿や黒い便と、病状が悪化していき、とうとう酸欠が起こり、最終的には腎臓機能が著しく低下しました。
この間に、仕事仲間が沢山お見舞いにいらして下さり、本人も元気をもらい、あと半年は頑張りたいなど、奈良での生活も期待していてくれたように思います。
腎臓機能低下後、病院から電話があり、早ければ1〜2日ですと....
当日、家族で病院にかけつけました。
とにかく辛そうな姿で驚きましたが、
私達がいる時に、お茶を飲む!と言い、100cc測ってくれ!と言葉はもう分かりにくくなっていましたが、しっかりした様子を見せてくれました。
自らの手で飲み干しました。
その後は、体の身の置き所がないように、いきなり起き上がろうとしたり、布団をどけようとしたりしました。
しんどい中、私達が帰る時は、起き上がりたい!と言って、お見送りをきちんとしてくれていました。
翌朝、私は母を呼び、一緒に病院に向かいました。
到着すると、目は閉じたまま、何とか呼吸している状態でした。
母と私達子供3人と家族5人揃った瞬間、
心電図モニターのアラームが鳴り始めました。
親族、仕事仲間の方も集まり、皆に囲まれながら、モニターの数値が下がってきました。
父の目から涙が滲み出ていました。
それを母は濡れタオルで優しく拭き取っていました。
呼吸が止まる直前、開きっぱなしの父の口元が、かすかに動いたのです。
声は聞こえないものの、確かに数回動かしました。
それを見た私は、周りの人に口が動いてると訴えるのですが、何故か誰も聞いてくれず。
他のことを話していたり、何故か分からないのですが、誰も見てくれてない?!
今振り返ると、私だけが見れた不思議な瞬間でした。
ありがとう
の言葉を感じます。
でも、やっぱり
もっと、父との思い出を作りたかった。
25年前に感じなかった寂しさが今になって、込み上げてくるのが、辛い。
父の家の整理に向かうと
壁一面に私達との写真が飾られていました。
パパ
ありがとう!
病院に向かう朝は、大雨だったけど、
帰宅後ベランダから空を見上げると、
綺麗に光り輝く満月でした。
