歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※こちらの記事は、平成20年4月3日に書かれたものです。

さて、去年の4月から惰性で書き続けた『信長(のぶなが)の野望 嵐世記(らんせいき)』の進行記録も今回でやっと最終回を迎えることとなりました!
いやぁ、思いつきで始めてみたはいいものの、書いてみると案外内容を展開できずに苦しいコーナーとなりましたが、約一年の歳月をかけ、やっと終わらせることができました。めでたしめでたし。


【これまでの記事】
・第1回・第2回
・第3回―九州の統一・第4回―四国制圧と長宗我部
・第5回―毛利撃破・第6回―本願寺との激戦
・第7回―足利将軍家の滅亡と本願寺・第8回―畿内制圧完了!
・第9回―東海制圧!・第10回―武田信玄を打ち倒す
・第11回―結城家との対決と北上する防衛線・第12回―蘆名盛氏との決戦!





1556年開始のシナリオ2で始め、大名(だいみょう)は豊後(ぶんご)大友義鎮(おおとも よししげ)。現在1560年。
九州(きゅうしゅう)から攻め上がり、残るは東北(とうほく)・蝦夷(えぞ)を統一するのみとなり、東北に跋扈(ばっこ)する大名は羽前(うぜん)、陸奥(むつ)、蝦夷の蘆名盛氏(あしな もりうじ)、羽後(うご)、陸中(りくちゅう)の南部晴政(なんぶ はるまさ)のみ。


大友家について知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
耳川の合戦ー諍臣を愛せ

同関連記事:
今山の合戦―意識を向ければ情報が入る

同関連記事:
戸次川の戦いに学ぶ―逸って決断してはいけない


1560年5月 蘆名盛氏領 羽前攻め
山形(やまがた)城陥落
尾浦(おうら)城陥落

松本氏輔(まつもと うじすけ) 登用
戸沢道盛(とざわ みちもり) 登用

※米沢(よねざわ)城主、伊達晴宗(だて はるむね)が加勢
※羽前蘆名盛氏による岩代(いわしろ)攻め→撃退

6月 陸奥・蝦夷の蘆名盛氏従属
陸中(りくちゅう)南部晴政従属

天下統一

ということで、最後はあっけなく、戦争というよりも懐柔策の連続で天下統一したわけです。ていうか、毎回こんなものですが。
ていうか、最初に城ひとつ落とせば天下統一はできたようなもの、というのが信長の野望シリーズの醍醐味ですが(特に「嵐世記」は簡単らしいです)。
とりあえず、今回の記録は約4年(1556~1560年)でした。

次回「信長~」をやるときは、果たして何年で統一できるのか。
(ところでどうでもいい話ですが、思えば「信長~」シリーズとであってから10年以上が経過していることに気づきました;)

で、次回の「ゲーム」では何を進めていこうか考え中です。
たぶん昔のゲームをやりこみます。
新しいゲームを買って進める情熱はもはやない(笑

ではまた今度。


ゲームについての次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
フリーセル


参考
ぱんだの楽園建設中
離美童のづれづれ草
北海道独立計画

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・大河ドラマ(『軍師官兵衛』以降)について語ってほしい
・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

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※こちらの記事は、令和2年9月5日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
令和2年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』に関しての楽しみ方を解説していたこのシリーズですが、ドラマの放送休止中の総集編放送に伴い、『麒麟がくるまでお待ちください』の楽しみ方を振り返りたいと思います。

番組を見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名をのせています。


【『麒麟がくる』の楽しみ方】
・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美濃の情勢/織田家の状況
・第5~6回―当時の京都の情勢・第7~8回―尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢
・第9~10回―土岐一族とは/織田家の血縁関係・第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽
・第13~14回―戦国最強の傭兵団/村木砦の戦い・第15~16回―織田一族の関係性/新九郎高政の重臣たち
・第17~18回―斎藤家の血族関係/永禄元年までの織田家・第19~20回―足利将軍家の動き/桶狭間の戦い
・第21回―松平蔵人の親族
・『麒麟がくるまでお待ちください』第2~3回―斎藤道三二代説/前田利家の生涯
・『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称



まずはあらすじ


第1~8回のあらすじ


美濃国明智荘(みののくに・あけちのしょう)〔岐阜県可児市(ぎふけん・かにし)〕、天文(てんぶん)16年(1547年)
明智十兵衛光秀(長谷川博己)は野盗(やとう)と戦っていた。
明智荘はたびたび野盗の襲来を受けており、十兵衛は何か根本的に変える必要性を感じていた。

斎藤山城守利政(本木雅弘)の拠る稲葉山(いなばやま)城に行き直談判し、話の流れで十兵衛は一路、京(きょう)、堺(さかい)に向かうこととなった。

京から帰った十兵衛は、山城守との約束通り医者の望月東庵(もちづき とうあん)(堺正章)を連れ帰ったが、間もなく尾張(おわり)織田弾正忠信秀(高橋克典)が稲葉山城下である井ノ口(いのくち)攻め寄せ、十兵衛は奮戦する。

斎藤山城守利政は戦の裏で暗躍していた守護(しゅご)土岐次郎頼純(矢野聖人)を暗殺した。

一方の明智十兵衛光秀は望月東庵の助手・駒(こま)(門脇麦)を連れて明智荘に戻り、しばし平穏な日々を過ごす

その後、東庵は山城守に尾張の織田信秀の情勢を探るように命じられる

十兵衛は三河(みかわ)出身だという農民の菊丸(きくまる)(岡村隆史)を連れて東庵を追って尾張に潜入した。

東庵から情報を手に入れた十兵衛たちであったが、美濃への帰り道で何者かに襲われるのであった。

尾張から戻った明智十兵衛(長谷川博己)は鉄砲(てっぽう)の構造を知るために明智荘出身の鉄砲鍛冶伊平次(いへいじ)(玉置玲央)という男を探した。

斎藤山城守(本木雅弘)の許可を得て一路京へ向かうが、そこで細川藤孝(眞島秀和)という武士と出会う
彼は将軍家足利義輝(向井理)の側近で、堺で出会った三淵藤英(谷原章介)の弟であった。

遊女屋(ゆうじょや)にいた伊平次に鉄砲の分解を頼んだ十兵衛だったが、松永弾正久秀(吉田鋼太郎)の主人である三好長慶(山路和弘)襲撃の計画があることをきいてしまう

長慶と久秀の救援のために三淵藤英を訪れる十兵衛。

将軍家義輝の命令により藤孝は十兵衛のあとを追う

十兵衛と藤孝は長慶と久秀の救援に間に合うが、十兵衛は負傷してしまう…

京にて三好長慶を助けるために負傷した明智十兵衛光秀。
駒の治療を受けて故郷美濃に戻った十兵衛は山城守に、娘の帰蝶(きちょう)を織田(おだ)家に嫁ぐように説得してほしい、と頼まれるのであった。

十兵衛は、織田信長の人柄を見極めるため再び尾張に潜入するのであった。

尾張に潜入した十兵衛は、織田信長が漁から帰ってきたことに衝撃を受け、その印象を美濃に持ち帰る。

明智荘で、帰蝶に尾張に嫁ぐべきか否かを聞かれた十兵衛は、尾張に行くべきと伝える

ということで、




『麒麟がくる』総集編第1回の感想


第21回までを見切った時点では、僕はすっかり『麒麟がくる』の虜となっていましたが、放送開始当初はそうでもありませんでした。

そこで、総集編第1回でまとめられた本編第1~8回についての感想をかいつまんでみていきたいと思います。




第1回「光秀、西へ」の感想


全体的に悪くはないと思ったものの、細かいところでは文句がありました笑

まず、十兵衛が斎藤山城守に会いに行った理由について、明智荘が野盗に襲われているから斎藤(さいとう)家の力で何とかしれくれ、と言いに行くのかと思ったら「美濃の外の世界が見てみたい!」。

辻褄がよくわかりませんでした 笑

そしてもう一つの文句は登場人物の名前の呼ばせ方

歴史ドラマではよくあることですが、(いみな)で呼ばせている人と通称・官職名で呼ばせている人がいるのはやっぱり気持ち悪いです 笑


武家や公家の名前の形式に興味のある方は、下記リンクをタップしてください:
武家や公家の名前について

参考記事:
『麒麟がくる』第1~2回―当時の三傑と明智家、リアルな戦の描写





第2回「道三の罠」の感想


この回は細かい点なのですが、山城守が土岐頼純を毒殺するときに唄った唄の歌詞が気になりました。

「七里」の読み方は「ななり」ではなく「しちり」では?

もしかしたら、当時はそう読んだかもしれません。

参考記事:
『麒麟がくる』第1~2回―当時の三傑と明智家、リアルな戦の描写




第3回「美濃の国」の感想


他の方も下記ブログでおっしゃっていますが、このころの明智十兵衛の事績は不明なので、今のうちに思う存分フィクションをやればいいと思いました。

ただ、面白いか面白くないかと言えば、展開が緩すぎて面白くなかったです。
まぁ、まだ始まったばかりでエンジンがかかっていないということで僕の中では全然ありでした!

参考記事:
『麒麟がくる』第3~4回ー美濃の情勢/織田家の状況




第4回「尾張潜入指令」の感想


まぁ面白かったかな、というのが感想でした 笑

皆さんも同じように言っておられますが、菊丸の正体が気になりました。
この頃は明智左馬助(さまのすけ)秀満ではないかという説があり、さまざまな憶測が飛んでいました。

参考記事:
『麒麟がくる』第3~4回ー美濃の情勢/織田家の状況




第5回「伊平次を探せ」の感想


面白くなかったです 笑
平成8年の大河ドラマ「秀吉」や平成26年の「軍師官兵衛」のようなわくわく感がありませんでした。

参考記事:
『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称

また、細川与一郎藤孝との出会い方や、三淵弾正藤英、松永弾正久秀との再会が唐突すぎるなとは思いました。


参考記事:
『麒麟がくる』第5~6回―当時の京都の情勢

関連記事:
『麒麟がくる』第30回―三淵氏の来歴





第6回「長慶襲撃計画」の感想


与一郎藤孝と刀を抜きあった十兵衛があんなに簡単に与一郎藤孝と和解して、松永弾正久秀のもとに行くというご都合主義展開はなんとも不満でした笑

しかし、連歌会(れんがかい)の描写は良かったです!
BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)』さんも言っておられますが、連歌会の描写というのは僕もあまり見たことがなかったので新鮮でした。

ただ、屋内戦の描写でみんな太刀(たち)で戦っていたと思いますが、通常の太刀の長さだと天井とか梁とかに引っかかって屋内でうまく戦えないのではないかと思いました。

参考記事:
『麒麟がくる』第5~6回―当時の京都の情勢




第7回「帰蝶の願い」の感想


十兵衛をめぐるフィクション部分が史実の重厚さに負け始めていると感じました。

そもそもが駒との淡い恋物語が面白くないですし、帰蝶が十兵衛のことが好きなのはいいのですが、それが恋愛感情なのかどうか微妙な描き方をしているところもいらないと思いました。

ただ、これについては後程致し方ない状況だったことがわかりました。

参考記事:
『麒麟がくる』第7~8回ー尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢




第8回「同盟のゆくえ」の感想


美濃パートはやっぱり面白くありませんね笑

何が面白くないかというと、上で述べたように駒と帰蝶の恋愛パートですね。

それと、僕としては帰蝶は十兵衛に恋心を抱いているとは思えないんですが、どうでしょうか?

山城守利政と高政との軋轢(あつれき)(というか高政が勝手に山城守に反発しているだけですが)は良かったと思いました

参考記事:
『麒麟がくる』第7~8回ー尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢




『麒麟がくる』第1~8回の楽しみ方


第1回の楽しみ方―同時代の人物は何をしていたか?―


ドラマの舞台となった天文16年という年がどういう年だったのか?
戦国(せんごく)の有名人たちは何をしていたのか?

ということに言及しました。

まずは織田三郎信長
彼はこの前年の天文15年に元服(げんぷく)したばかり。
天文16年には数え年14歳の少年で、初陣(ういじん)を果たしたのがこの年です。
ドラマにものちに出てくると思いますが、彼はまだ「うつけ者」と言われていた時期です。

続いて羽柴藤吉郎の豊臣秀吉
彼は数え年11歳で、このころは何をしていたのかよくわかりません
家出をして今川(いまがわ)家に仕えていた時期なのかもしれません。

そして徳川次郎三郎家康
彼は数え年6歳で、ちょうど人質として織田家に送りこまれていた時期に当たります。
このころ尾張の熱田(あつた)にいたんですね!


関連記事:
山岡荘八『徳川家康』第4巻―徳川家康の生涯を貫く思想

関連記事:
山岡荘八『徳川家康』第3巻―言葉と人間の本質を見極めた「人間学」

関連記事:
山岡荘八『徳川家康』第2巻―これぞ徳川家の柱石・三河武士の死にざまだ!!





第2回の楽しみ方―社会風俗について―


放送当時、僕は演出には不満があったのですが、時代考証にはちょっと感心してました。

今回僕が感心したのは二点です。

一点は稲葉山城の構えと井ノ口の城下町の様子
この頃の城は天守閣はなくて、現代的イメージとしては「城」というより「砦」といった感じです。

それがリアルで、というか僕のイメージ通りでうれしかったです。

あとは戦の仕方。
織田軍が「エイッ、エイッ、エイッ、エイッ」と掛け声をかけながら攻めてくるのがよかったですね。

戦に関してもそういった僕のイメージとぴったり合っていて、その点は満足しました。

参考記事:
『麒麟がくる』第1~2回―当時の三傑と明智家、リアルな戦の描写




第3回の楽しみ方―美濃の情勢―


斎藤道三の台頭について簡単にご説明しました。

斎藤道三台頭以前の美濃は

【美濃の守護就任のための争い図】
土岐頼武・斎藤利良 vs 土岐頼芸・長井長弘


という状態になっていました。

この抗争の結果、左京大夫(当時。さきょうのだいぶ)頼芸の陣営が勝利します。
その後、長井越中守長弘が死んで息子の景弘が長井(ながい)家を継ぎますが、いつの間にか家臣(かしん)長井新九郎規秀が長井家を乗っ取ります。

そのうち守護代(しゅごだい)の斎藤大和守利良も死んで、なぜか斎藤(さいとう)家を長井新九郎が継ぎます。

この長井新九郎がのちの斎藤山城守利政、つまり道三なんですね。




第4回の楽しみ方―当時の織田家の状況―


三郎信長の織田家(世襲の役職名を取って「織田弾正忠(だんじょうのちゅう)家」または「勝幡(しょばた)織田家」と言われています)は弾正忠信秀の父信定(彼ももちろん「弾正忠」です笑)の代にようやく勢力を伸ばしてきた家です。

織田家は美濃の斎藤家と同じように守護代の家でしたが、代々守護代を世襲していたのは織田伊勢守(いせのかみ)家〔岩倉(いわくら)織田家〕と言われる嫡流の家でした。
弾正忠信秀の家はその伊勢守家の家来の大和守(やまとのかみ)家〔清州(きよす)織田家〕のそのまた家来の家でした。

つまり、信秀や信長の弾正忠家が尾張の実権を握るには、織田大和守家、伊勢守家、斯波(しば)家の三家を打倒しなくてはいけなかったんですね。

そんな中で、弾正忠は三河にも美濃にも進出していたわけです。

なかなかの離れ業ですが、尾張国内でも戦っている、三河で松平(まつだいら)家や今川家と戦っている、美濃では斎藤家と戦っている、というように周りは敵だらけだったわけですね。

そう考えるとこののちの織田家と斎藤家との関係に筋道が通っていきますし、信秀があまり美濃に深入りしなかった理由もわかります。

参考記事:
『麒麟がくる』第3~4回ー美濃の情勢/織田家の状況




第5回の楽しみ方―当時の京都の情勢―


まず前提として、

・当時の武士に江戸(えど)時代の武士のような忠義の心はなかった!

ということをわかっていないと京都(きょうと)の情勢を理解するのは難しいです。

基本的に当時の武士たちは「殿様のため」というよりも、個々の武将(ぶしょう)単位の利害判断で動いている感じです。

武士の主従関係を現代の雇用関係に例えると、江戸時代は終身雇用のイメージですが、戦国時代は武将個人単位の契約的要素が強いようです。

というわけなので京都における具体的な敵対関係については下記第6回の項目で説明したいと思います。




第6回の楽しみ方―具体的な京都の勢力模様―


というわけで、当時の京都をめぐる情勢の確認を図で示したいと思います。
詳しい解説は

『麒麟がくる』第5~6回―当時の京都の情勢

をご覧ください。

①大永(たいえい)7年(1527年)ごろの勢力図


②天文元年(1532年)ごろの勢力図


③天文12年(1543年)ごろの勢力図


④天文15年(1546年)ごろの勢力図


⑤天文18年(1549年)ごろの勢力図


てな感じで対立関係が目まぐるしく変わっていました。




第7回の楽しみ方―尾張国内の政治情勢―


そして、このとき解説したのは当時の尾張の政治情勢です。

当時守護を担当していたのは斯波左兵衛佐義統

織田家は守護を補佐する守護代という役職を担当していました。

しかし、代々守護代を担当していたのは「織田伊勢守家〔岩倉織田家〕」と呼ばれる嫡流(ちゃくりゅう。本家のこと)です。

織田家の一族にはさらにその下に「織田大和守家〔清州織田家〕」と呼ばれる家があり、大和守家は本来伊勢守家の家来だったのですが、16世紀前半にごねて、尾張半分の守護代となっています
(守護代が同時に二人いたということです)

これが今回名前だけ登場した「織田彦五郎(信友)」の家です。

弾正忠信秀は「織田弾正忠家〔勝幡織田家〕」と呼ばれる家の当主で、大和守家のそのまた家来となっています。

参考として、下図をご覧ください。


しかしこのままだと「守護」とか「守護代」とか専門用語が多くてわかりにくいかもしれないので、現代の会社組織になぞらえてみました笑↓

※「営業」「人事」などはわかりやすくするために当てはめただけで、実際の役割とは関係がありません。

「株式会社尾張守護」の営業部長である弾正忠信秀さんが、副社長と社長を飛び越えて、勝手に代表印を持ち出して「株式会社美濃守護」の副社長とアライアンス(業務提携)契約を交わそうとしているわけです。




第8回の楽しみ方―当時の三河情勢―


物語中で土岐美濃守頼芸が「今川義元を敵に回したくない」みたいな発言をしていたと思います。

駿河(するが)〔静岡県(しずおかけん)〕にいるはずの今川治部大輔義元が、尾張〔愛知県(あいちけん)西部〕や美濃〔岐阜県南部〕にそんなに圧迫感を与えているのか疑問に感じると思いますので、その辺を説明したいと思います。

まず前提知識としてもっておきたいのが、当時の「国人(こくじん)領主」のイメージです。

ドラマで描かれている天文末期(1540年代末)のころはまだまだ統一が進んでおらず、郡や市町村レベルの領主たちが大きな力をもっていました。

それがいわゆる「国人領主」です。
(厳密にいうと織田氏は国人領主化していないのですが、ここではその説明は割愛します)

というわけで、ドラマの舞台の天文17年ごろの有力国人領主(一部は「国人」ではありませんが)を勢力図にしてみるとこうなります。
※勢力範囲は大体です。

(参考:「ドンちゃんの他事総論」)

(参考:「ドンちゃんの他事総論」)

青系が織田弾正忠家〔勝幡織田氏〕、つまり弾正忠信秀や三郎信長側の勢力。
赤系が今川治部大輔(義元)側の勢力です。

三河においては何となく今川方についている勢力の方が多いのが分かります。
(そのうえ、渥美(あつみ)半島の中程にある田原(たはら)城は今川氏直轄となっています)

今川氏は駿河の大名とはいえ、傘下の国人衆を伝ってすぐにでも三河・尾張国境に出陣できてしまう状況なんですね。

参考記事:
『麒麟がくる』第7~8回ー尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢

こんな感じで、『麒麟がくる』第1~8回分の感想と解説の総集編をやらせていただきました。

ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・明智 十兵衛 源 光秀
あけち じゅうべえ みなもと の みつひで
・斎藤 山城守〔通称は新九郎〕 藤原 朝臣 利政〔他多数。入道道三〕
〔長井 新九郎 藤原 規秀〕
さいとう やましろのかみ〔通称はしんくろう〕 ふじわら の あそん としまさ〔他多数。入道どうさん〕
〔ながい しんくろう ふじわら の のりひで〕

・織田 備後守〔弾正忠。通称は三郎〕 藤原〔忌部〕 朝臣 信秀
おだ びんごのかみ〔だんじょうのちゅう/だんじょうのじょう。通称はさぶろう〕 ふじわら〔いんべの あそん のぶひで
・土岐 次郎 源 頼純
とき じろう みなもと の よりずみ
・細川 与一郎 源 藤孝
ほそかわ よいちろう みなもと の ふじたか
・征夷大将軍〔将軍家〕 足利 左近衛中将〔略称「左中将」。通称不明〕 源 朝臣 義藤〔義輝〕
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕  あしかが さこんえのちゅうじょう〔略称「さちゅうじょう」。通称不明〕 みなもと の あそん よしふじ〔よしてる〕
・三淵 弾正左衛門尉〔または弥四郎〕 源 藤英
みつぶち だんじょうさえもんのじょう〔またはやしろう〕 みなもと の ふじひで
・松永 弾正忠〔または弾正少弼。通称は不明〕 紀〔藤原?、源?〕 朝臣 久秀
まつなが だんじょうのじょう〔またはだんじょうのしょうひつ。通称は不明〕 き〔ふじわら?、みなもと?〕 の あそん ひさひで
・三好 筑前守〔通称は孫次郎〕 源 朝臣 長慶
みよし ちくぜんのかみ〔通称はまごじろう〕 みなもと の あそん ながよし
・織田 上総介〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ かずさのすけ〔通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・明智〔三宅〕 左馬助〔通称は弥平次〕 源 朝臣 秀満
あけち〔みやけ〕 さまのすけ〔通称はやへいじ〕 みなもと(の あそん ひでみつ
・羽柴 藤吉郎 平〔のち豊臣〕 秀吉
はしば とうきちろう たいら〔のちとよとみ〕 の ひでよし
・徳川 次郎三郎 源 家康
とくがわ じろうさぶろう みなもと の いえやす
・土岐 修理大夫〔通称は次郎〕 源 朝臣 頼武
とき しゅりのだいぶ〔通称はじろう〕 みなもと の あそん よりたけ
・斎藤 大和守〔通称は新四郎〕 藤原 朝臣 利良
さいとう やまとのかみ〔通称はしんしろう〕 ふじわら の あそん としなが
・土岐 美濃守〔通称不明。左京大夫〕 源 朝臣 頼芸
とき みののかみ〔通称不明。さきょうのだいぶ〕 みなもと の あそん よりあき/よりのり
・長井 越中守〔通称は藤左衛門尉〕 藤原 朝臣 長弘
ながい えっちゅうのかみ〔通称はとうざえもんのじょう〕 ふじわら の あそん ながひろ
・長井 (官職・通称不明) 藤原 景弘
ながい (官職・通称不明) ふじわら)の かげひろ
・斯波 左兵衛佐〔通称不明〕 源 朝臣 義統〔義元〕
しば さひょうえのすけ〔通称不明〕 みなもと の あそん よしむね〔よしもと〕
・織田 大和守〔通称は彦五郎〕 藤原〔忌部〕 朝臣 信友
おだ やまとのかみ〔通称はひこごろう〕 ふじわら 〔いんべ〕 の あそん のぶとも
・今川 治部大輔〔通称不明〕 源 朝臣 義元
いまがわ じぶのだゆう〔通称不明〕 みなもと の あそん よしもと
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
くわちゃんの独り言
やまもも書斎記
真田のよもやま話


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《令和6年11月19日更新》※この記事は、令和2年6月25日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第20弾として「岩村(いわむら)城の合戦」について書きます。


【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】
・第1回 今山の合戦・第2回 耳川の合戦
・第3回 沖田畷の合戦・第4回 小豆坂の合戦>
・第5回 長良川の合戦・第6回 桶狭間の合戦
・第7回 稲葉山城の合戦・第8回 金ヶ崎城の合戦
・第9回 姉川の合戦・第10回 二俣城の合戦
・第11回 一言坂の合戦・第12回 三方ヶ原の合戦
・第13回 野田城の合戦・第14回 叡山焼き討ち
・第15回 一乗谷城の合戦・第16回 小谷城の合戦
・第17回 第一次高天神城の合戦・第18回 長篠の合戦
・第19回 第二次高天神城の合戦



『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の萩原裕雄氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

合戦の概要がわからなければ何を学べるかわからないので、まずは合戦概要です!
※記事下部に人物の読み仮名をのせています。




三度にわたる攻防戦


舞台になったのは美濃(みの)東部にある岩村城(岐阜県恵那市(ぎふけん・えなし))。

この岩村城付近は斎藤(さいとう)家臣である加藤遠江守光泰などと同じ、加藤次藤原景廉を先祖とする遠山(とおやま)氏が勢力をもっていました。

加藤遠江守に興味のある方は、下記リンクをタップしてください(遠江守の登場する記事に飛びます):
『麒麟がくる』第15~16回―織田一族の関係性と斎藤新九郎高政の重臣たち

遠山氏は右大将源頼朝に重用された加藤次以来、長らく岩村付近に勢力をもっていました。

下掲地図を見ていただけると分かると思うのですが、この東美濃の辺りというのは南信濃(しなの)・三河(みかわ)に通じる地域で、東山道(とうさんどう)ルートの交通の要衝となっておりました。
※今でもこの付近を中央道(ちゅうおうどう)が通っていますね。技術が発達しても、陸路のルートはあまり変わらないものです。

それだけ重要な土地ですから、甲斐(かい)・信濃を領する武田(たけだ)軍と尾張(おわり)・美濃を領する織田(おだ)軍は三度にわたって攻防戦を繰り広げます。



遠山氏の立場


はじめは独立勢力的な性格をもっていた遠山氏ですが、弘治(こうじ)元年(1555年)、南信濃を手にした武田大膳大夫晴信〔のちの信玄〕による侵攻を受けます。

遠山氏は本家の岩村遠山氏のほかに北部苗木(なえぎ)城に拠る苗木遠山氏、南部の明知(あけち)城に拠る明知遠山氏などのいくつかの流れに分かれます。

上記、武田大膳の侵攻により遠山氏のいくつかは武田氏に降ります。

しかしある程度の独立は保っていたようで、翌弘治2年(1556年)の斎藤新九郎高政による明智(あけち)城攻めのときに、遠山氏のいくつかの勢力は新九郎に加勢しています。

関連記事:
『麒麟がくる』第17~18回―斎藤家の血族関係と永禄元年までの織田家

また織田氏との関係も良好で、時期は不明ですが、織田備後守〔弾正忠〕信秀の妹であり織田上総介信長の叔母であるおつやが岩村遠山氏の当主大和守景任に嫁いでいます。
※この婚姻は、尾張を統一してすらいない備後守の時代に結ばれたとの説もあり、だとしたら備後守の先見の明に驚きます。

この、遠山大和守とおつやとの婚姻が、のちに悲劇を生むことになります。



武田軍による侵攻


武田家に浸食されつつも、何とか半独立を保ち、織田氏と武田氏との同盟の仲介役を担っていた遠山氏に転機が訪れます。

苗木遠山氏が断絶したことを受けて、織田上総介は、織田氏の血を引く飯羽間(いいばま)遠山氏の子を苗木遠山氏へ養子に行かせます。

また、本家岩村遠山氏の当主大和守が跡継ぎがいないまま病死したことによって本家も断絶の危機に立たされました。

そこで上総介は、自身の五男である御坊丸〔のちの源三郎勝長〕を養子として岩村城に送ります。

↓織田弾正忠家略系図
※クリックで拡大されます。




またこのころ、比叡山(ひえいざん)焼き討ちや足利将軍家義昭の呼びかけによって、武田信玄は織田家と敵対し始めていました。

関連記事:
叡山焼き討ち―問題が山積みのときの対処法

織田氏による上記の遠山氏懐柔により織田方とみなされた遠山氏は、武田家臣で信濃飯田(いいだ)城主であった秋山伯耆守虎繁の侵攻を受けることとなります。



第一次岩村城の合戦


元亀(げんき)3年(1572年)10月、飯田城に拠る秋山伯耆守は主君武田信玄の遠江(とおとうみ)侵攻、同じ武田家臣の山県三郎兵衛の三河侵攻に合わせて東美濃岩村城を目指しました。

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二俣城の合戦―「見る」のではなく「観る」

当主、遠山大和守の病死により城主不在となっていた岩村城ですが、大和守の正室(せいしつ)であり織田上総介の叔母であるおつやが指揮を執り、秋山伯耆守に決死の抵抗を試みました。

遠山氏は去る元亀元年(1570年)にも秋山伯耆守の攻撃を受けていて、主だった武将が討ち死にするなど結構な打撃を受けていました。

激戦の末、岩村城は秋山伯耆守の包囲網に降ってしまいます。

その条件のひとつが、

「おつやを秋山伯耆守の正室とすること」

でした。

秋山伯耆守はこの条件を記した勧告文書を岩村城に送る間に本気でおつやに恋するようになり、その熱烈なラブレターを受け取ったおつやも伯耆守に恋するようになったといいます。

この降服によって織田上総介改め弾正大弼(だんじょうのだいひつ)は、重要拠点であった岩村城を失ってしまいます。

加えて、五男御坊丸も人質として甲府(こうふ)に送られる、という痛手を受けます。

織田弾正は激怒したといいます。

弾正は同年12月には嫡子(ちゃくし)・勘九郎信重〔信忠〕の軍を送り込み岩村城奪還を試みますが、敵わず。
※第二次岩村城の合戦。

そして、月日が流れます。
※参考:同時期に武田信玄の本隊によって二俣(ふたまた)城の合戦、一言坂(ひとことざか)の合戦、三方ヶ原(みかたがはら)の合戦が行われています。

関連記事:
一言坂の戦い合戦に学ぶ―がむしゃらになれ

関連記事:
三方ヶ原の合戦―最強の能力「豹変力」




織田信長の岩村城奪還


元亀4年(1573年)の野田(のだ)城の合戦後に武田信玄が死んだことにより、跡を継いだ武田四郎勝頼の猛攻が始まりました。

関連記事:
野田城の合戦―統率力と「イメージ(印象)」の力

天正(てんしょう)2年(1574年)1月、武田軍は軍を岩村城からさらに進め、明知城が落城。
※大河ドラマ『麒麟がくる』に登場する「明智城」とは別の城です。

4月には軍を三河に進め、足助(あすけ)城も落城しました。
※その後、5月に第一次高天神(たかてんじん)城の合戦が勃発。

関連記事:
第一次高天神城の合戦-場を俯瞰する


武田四郎により更なる圧迫を受けていた織田氏・徳川(とくがわ)氏ですが、翌天正3年(1575年)年、転機が訪れます。
5月に起こった長篠(ながしの)の合戦によって武田軍は壊滅、山県三郎兵衛、馬場美濃守等主だった武将を失います。

関連記事:
長篠の合戦―プライドよりも信頼関係を重視せよ

勢いを得た織田弾正大弼改め右大将は、再び嫡子・勘九郎改め秋田城介信忠を総大将とした大軍を岩村城に向かわせます。


↓岩村城の合戦時の周辺図(広域)※クリックで拡大されます。



長篠の合戦の大敗によって武田家を見限った武将もいたとは思いますが、遠山一族の多くは心の底から武田家に臣従(しんじゅう)していたわけではなかったようです。

秋田城介の侵攻によって、岩村城を除くほとんどの城砦が織田方に呼応します。


↓恵那郡十八砦(鶴ヶ城(つるがじょう)以外の青字の城砦が織田家に呼応した「十八砦」です)
※クリックで拡大されます。




上記地図を見ると分かると思うのですが、岩村城は完全に包囲されております。

武田四郎は援軍として岩村に向かいますが、伊那高遠(いな・たかとお)城で雪に阻まれ進軍できず。
※上掲地図を見ると、進軍できていたとしても美濃に入ったところで進路を阻まれているので、岩村城には到着できなかったものと思われます。

岩村城は耐え切れずに落城。
秋山伯耆守とおつやの方は助命を条件に降服しますが、織田右大将は彼らを岐阜(ぎふ)に連行しました。

そして、長良川(ながらがわ)畔にて両名とも逆さ磔(はりつけ)の刑にて処刑。

おつやの方と、秋山伯耆守による色恋による裏切りを許せなかったからだと言います。
※一説によると、長篠の合戦前夜に、人質として甲府に留め置かれていた徳川家臣・奥平美作守貞昌〔信昌〕の妻子が処刑されたことへの報復とも言います。

これにて、織田家の支配下に収まった岩村の地は二度と武田家の支配を受けることはありませんでした。
※以上が第三次合戦です。




ビジネスに活かす要素は?


この合戦では秋山伯耆守の敗因を見ていきたいと思います。

まずは長篠の合戦にて武田軍本隊が大ダメージを受けていたことによりますね。

ただ、その要因は第一次高天神城の合戦長篠の合戦で言及しているので、今回は岩村城周辺の局地的な要因についてみていきましょう。

上記解説に書いているのでお分かりかと思いますが、秋山伯耆守の敗因はずばり「恵那郡十八砦の離反」ですね。

第二次高天神城の合戦などでも述べていますが、合戦というのはミクロの視点での作戦や各兵たちの頑張りも重要なのですが、それ以前に勝敗を左右するのがマクロの視点で見た「戦略」です。

囲碁は拠点攻略戦をうまく抽象化したゲームだと思いますが、現実の拠点攻略戦は囲碁そのもの。

いかに味方の補給線をつないで、敵の補給線を断って囲むかが重要です。

参考記事:
第二次高天神城の合戦-勝者の戦法を徹底的にトレースせよ

そういった意味で、「恵那郡十八砦」が織田方についた時点で秋山伯耆守の命運は決まっておりました。

しかし、それを招いたのはそれ以前の伯耆守の行動にあると思います。

遠山諸家を心服させられていなかったんでしょうね。

遠山諸家はもともと武田家にいい印象をもっていなかったのかもしれません。

しかし、ここからは僕の推測ですが、秋山伯耆守の岩村城の落とし方に問題があったのではないでしょうかね。

これ、おつやの方が伯耆守と結婚せず、人質として御坊丸とともに甲府に送られていたら少し違っていたかもしれません。

もしかしたら、僕らが抱くのは現代的感覚なので、当時の感覚とは違ったかもしれません。
それに、秋山伯耆守との結婚を決断したおつやの方にも相当な苦悩があったものとも思われます。

しかし、「敵方の城主を妻とする」ってドン引きしませんか?

仮に自分が遠山家の武将で、それまで討ち死にするつもりで戦っていたのだとしたら、秋山伯耆守にもおつやの方にもいい印象もちませんよね。

色恋で決着かよ、と。
(政治的判断が多分に含まれた「色恋」ですが、あくまでも遠山家の武将の視点の想像ということで)

現に織田弾正(当時)も激怒していることですし、当時の遠山諸家も反感をもったのではないでしょうか。

ということで、今回のポイント。

・後ろ指さされそうなことはしない!

これですね。

これが一般人の恋愛だったら大恋愛で終わるんです。
ですが、この二人は一軍の大将同士。

批難の的になったかもしれません。

ここで、「後ろ指さされる」という点で抽象化して、話を進めますね。

以前僕が勤めていた会社の社長さんが、取引相手に内緒でこそこそと契約違反行為をしていたことがあったんです。

一般社員としては社長の行動に干渉できませんでしたが、社長のそういう姿を見てしまうと、その社長は僕らにも内緒で裏切り行為をしているのではないかと勘繰ってしまいますよね。

秋山伯耆やおつやのやったことは決して悪いことではありませんが、なんだかもやもやしますよね。

もしかしたら遠山家の武将たちは、自分たちが本当についていっていい人なのか疑問に思ったのかもしれません。

ちょっとした反社会的行為や不誠実な行為によって、すべてが信用できなくなってしまうことがあります。

日常の小さなことについて考えてみると、思わず不誠実な行動をとってしまうことってあると思うんです。
しかし、結局のところそれは自分のためにはならないし、当然、人のためにもなりません。

それを見ている人や、不誠実な雰囲気を感じ取っている人は案外いるものです。

人間ですから、不誠実な行動の一つや二つ、取ってしまうことはあります。
しかし、そういうときには自分の不誠実さを素直に受け止めて反省し、改めていきましょう!

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
高遠城の合戦から学ぶ―自分よりキャリアが上の部下と信頼関係を築く方法


以下もご覧ください!

今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・加藤 遠江守〔通称は権兵衛〕 藤原 朝臣 光泰
かとう とおとうみのかみ〔通称はごんべえ〕 ふじわら の あそん みつやす
・加藤 左衛門少尉〔通称は藤次郎、加藤次〕 藤原 朝臣 景廉
かとう さえもんのしょうじょう〔通称はとうじろう、かとうじ〕 ふじわら の あそん かげかど
・征夷大将軍 右近衛大将〔=右大将。通称は三郎〕 源 朝臣 頼朝
せいいたいしょうぐん うこんえのだいしょう〔=うだいしょう。通称はさぶろう〕 みなもと の あそん よりとも
・斎藤 新九郎 藤原 高政〔義龍〕
さいとう しんくろう ふじわら の たかまさ〔よしたつ〕
・武田 大膳大夫〔通称は太郎〕 源 朝臣 晴信〔入道信玄〕
たけだ だいぜんのだいぶ〔通称はたろう〕 みなもと の あそん はるのぶ〔入道しんげん〕
・織田 備後守〔弾正忠。通称は三郎〕 藤原〔忌部〕 朝臣 信秀
おだ びんごのかみ〔だんじょうのちゅう。通称はさぶろう〕 ふじわら〔いんべ〕 の あそん のぶひで
・織田 権大納言兼右近衛大将〔弾正大弼。通称は三郎、上総介〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ ごんのだいなごんけんうこんえのだいしょう〔だんじょうのだいひつ。通称はさぶろう、かずさのすけ〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・遠山 大和守〔通称は左衛門尉等〕 藤原 朝臣 景任
とおやま やまとのかみ〔通称はさえもんのじょう等〕 ふじわら の あそん かげとう
・織田〔遠山、武田〕 源三郎〔御坊丸〕 平〔藤原、忌部、源〕 勝長〔信房〕
おだ〔とおやま、たけだ〕 げんざぶろう〔ごぼうまる〕 たいら〔ふじわら、いんべ、みなもと〕 の かつなが〔のぶふさ〕
・征夷大将軍〔将軍家〕 足利 権大納言〔通称不明〕 源 朝臣 義昭
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 あしかが ごんのだいなごん〔通称不明〕 みなもと の あそん よしあき
・秋山 伯耆守〔通称は善右衛門尉〕 源 朝臣 虎繁〔信友、晴近、春近、晴親、信近〕
あきやま ほうきのかみ〔通称はぜんうえもんのじょう〕 みなもと の あそん とらしげ〔のぶとも、はるちか、はるちか、はるちか、のぶちか〕
・山県 三郎兵衛尉 源 昌景
やまがた さぶろうひょうえのじょう みなもと の まさかげ
・織田 秋田城介〔通称は勘九郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信忠〔信重〕
おだ あきたじょうのすけ〔通称はかんくろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶただ〔のぶしげ〕
・武田〔諏訪〕 四郎 源〔神〕 勝頼
たけだ〔すわ〕 しろう みなもと〔みわ〕 の かつより
・馬場 美濃守〔通称不明〕 源 朝臣 信春〔信房〕
ばば みののかみ〔通称不明〕 みなもと の あそん のぶはる〔のぶふさ〕
・奥平 美作守〔通称は九八郎〕 源〔丈部〕 朝臣 貞昌〔信昌〕
おくだいら みまさかのかみ〔通称はくはちろう〕 みなもと〔はせべ〕 の あそん さだまさ〔のぶまさ〕
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)
第一次~第三次合戦について
今日は何の日?徒然日記
第三次合戦について
今日は何の日?徒然日記
お城散歩


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※こちらの記事は、令和2年7月3日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は今年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』第19~20回)に関しての楽しみ方を解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


【『麒麟がくる』の楽しみ方】
・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美濃の情勢/織田家の状況
・第5~6回―当時の京都の情勢・第7~8回―尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢
・第9~10回―土岐一族とは/織田家の血縁関係・第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽
・第13~14回―戦国最強の傭兵団/村木砦の戦い・第15~16回―織田一族の関係性/新九郎高政の重臣たち
・第17~18回―斎藤家の血族関係/永禄元年までの織田家



まずはあらすじ。



第19~20回のあらすじ


越前(えちぜん)・朝倉左衛門督義景(ユースケ・サンタマリア)のもとに身を寄せた明智十兵衛(長谷川博己)は、義景の使者として京都(きょうと)へ赴いた。
将軍家(しょうぐんけ)はようやく京都へ戻れたものの、実権は相変わらず三好筑前守長慶(山岸和弘)が握っているという。

そこで十兵衛は将軍家足利義輝(向井理)らと再会するも、不穏な噂を耳にする。

旧主・斎藤新九郎高政、改め治部大輔義龍(伊藤英明)が織田上総介信長(染谷将太)の暗殺を計画しているという。

十兵衛はそれを止めるため旧知の松永弾正久秀(吉田鋼太郎)に会いに行く。

松永弾正久秀の機転により、十兵衛は治部大輔義龍の暗殺計画を未然に防ぐことに成功する。

越前に戻った十兵衛は、今川(いまがわ)が尾張(おわり)を攻めるという情報を聞いて、いても立ってもいられなかった。

従弟の左馬助(間宮祥太朗)を尾張に向かわせ情報収集をするも、越前にのうのうとしている自分に怒りを感じる。

左馬助を連れて十兵衛は尾張へと向かった。

一方尾張では、今川が攻めてきているという情報により武将たちが浮足立っていた。

対策を迫られる信長であったが、帰蝶(きちょう)(川口春奈)は熱田(あつた)へ行けという。

帰蝶には何やら策があるようだった。

ということで、




第19回「信長を暗殺せよ」の感想


下記、「今日は何の日?徒然日記」さんもおっしゃっているように、ちょっと主人公補正が強すぎやしませんか?

と感じました。

朝倉(あさくら)家臣(かしん)でもない十兵衛が朝倉家の正使となるのもおかしいし、足利(あしかが)将軍家にも、細川与一郎改め兵部大輔藤孝(眞島秀和)にも、松永弾正にも、斎藤治部大輔にも、会えばVIP扱い。

ただ、「面白くない」と感じるほどではなく、今までの流れの中でまぁスルーしてもいいかなくらいな感じですが 笑


朝倉家についてもっと知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくる』第25回―朝倉氏の系譜

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『麒麟がくる』第34回―松永弾正の出自

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『麒麟がくる』第15~16回―織田一族の関係性と斎藤新九郎高政の重臣たち


あとは、主人公補正があったとは言え十兵衛の暗躍で上総介の暗殺が防げたという解釈は面白いと感じました。




第19回の楽しみ方―足利将軍家の動き―


今回は将軍家足利義輝一行がいつの間にか京都へ戻っており、しれっと諸大名(しょだいみょう)へ上洛(じょうらく)を呼び掛けておりましたが、将軍家はいつ京都へ戻ったのか?

三好筑前守長慶との関係はどうなったのか?

ということで、以前には天文(てんぶん)18年(1549年)ごろまでの京都をめぐる政治情勢については書きましたが、それ以降はご無沙汰だったので、今回軽くまとめたいと思います。

※ちなみに「将軍家」は家のことではなく個人を指す呼称です。

(地図)将軍家足利義藤〔義輝〕の動き
※クリックで拡大されます。


①天文18年(1549年)6月 庇護者であった細川京兆晴元が三好筑前に敗れ、将軍家義輝〔この頃の諱(いみな)は義藤〕は父・前将軍家足利義晴とともに近江・坂本(おうみ・さかもと)に逃れます(江口(えぐち)の戦い)。

→②そしてすぐにおなじみ朽木谷(くつきだに)へ。

ドラマ中で明智十兵衛が朽木を訪れたのはこの頃と思われます。
実は十兵衛が訪れたころは足利義晴は生きていたんですね。


関連記事:
『麒麟がくる』第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽

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天文19年(1550年)2月 父・義晴が京都・慈照寺(じしょうじ)(銀閣(ぎんかく)のあるところ)の裏山に中尾(なかお)城を築き、そこに移りますが、将軍家義藤は朽木谷にとどまります。

5月 父・義晴が死去。
③将軍家義藤は中尾城に移り、そこで三好筑前と対峙(たいじ)します(中尾城の戦い)。

④11月 将軍家は情勢不利と見て、中尾城を焼いて近江・堅田(かたた)へ退却します。

⑤天文20年(1551年)2月 三好筑前との和睦(わぼく)に失敗し、より安全な近江・朽木へ移ります。

3月 家臣が三好筑前の暗殺をもくろみますが、失敗。

⑥天文21年(1552年)1月 ついに三好筑前と和睦することができ、京に戻ります。

⑦天文22年(1553年)3月 親三好派の幕臣(ばくしん)らが力をつけたため、反三好派の幕臣らの不満を招き、三好筑前との関係が悪化。

将軍家は和約を破棄して東山霊山(ひがしやまりょうぜん)城に移ります。
清水寺(きよみずでら)の傍ですね。

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⑧8月 三好筑前により東山霊山城が落城し、将軍家ら一行は近江・朽木へ逃れます(東山霊山城の戦い)。

天文23年(1554年)2月 諱を義藤→義輝に改めます。
名を変えることによって気分を改めようとの意図だったと言われています。

永禄(えいろく)元年(1558年)3月 朽木谷で打倒・三好筑前のため挙兵(きょへい)します。

⑨5月 三好筑前と戦うため、近江・坂本に移ります。

⑩6月 京都・如意ヶ嶽(にょいがたけ)に布陣(ふじん)して三好軍と激突しますが、膠着(こうちゃく)状態に陥ります(北白川(きたしらかわ)の戦い)。

⑪11月 再び三好筑前との和議が成立し、5年振りに入京(にゅうきょう)します。

ドラマで描かれたのはこの翌年・永禄2年(1559年)の話で、実際に京で斎藤治部義龍や織田上総介の上洛を迎えています。

※この将軍家と三好筑前との戦いには南近江の大名・六角弾正少弼定頼、左京大夫義賢〔承禎〕父子が深く関わっていますが、書くと詳しくなりすぎてしまうので、今回は割愛します。




第20回「家康への文」の感想


全体的には良かったのですが、イマイチなところがありました。

松平蔵人佐元康(風間俊介)の母、於大の方(おだいのかた)(松本若菜)のイメージですね。

僕は山岡荘八氏の『徳川家康』に登場した於大のイメージがあるので、「やわらかい雰囲気をもっているけど、母としての強い意志を内包した大きな女性」という印象をもっていました。

参考記事:
山岡荘八『徳川家康』第2巻―これぞ徳川家の柱石・三河武士の死にざまだ!!

しかし、『麒麟がくる』に登場したのは過去を悔いて、松平蔵人(元康)と生き別れになったことを恨み言のように訴える於大でがっかり。

暗いんですよね。

生き別れたので幼少期には影響をあまり受けていないとは思いますが、蔵人佐元康はのちに於大を引き取っています。
つまり、彼は於大の発想の影響を多少なりとも受けていたはずです。

こんなくよくよした後ろ向きの女性の息子が平和な時代を築き上げたとは思えない。というか思いたくない 笑

それと、この頃於大は織田(おだ)方の武将である、阿久居(あぐい)の久松(ひさまつ)家に再嫁(さいか)してます。

その辺の描写が一切なく、水野(みずの)家に戻っているかのような書き方をしていたのはよくなかったと感じました。

そんな感じで文句ばっかり言っていると、ドラマを楽しめなかったように感じると思いますが、全体としては楽しめましたよ!




第20回の楽しみ方―桶狭間の戦い―


というわけで、今回の解説部分はやはり桶狭間(おけはざま)の戦いですね。

以前言及したことがありますが、この時はもっとマクロな視点での分析でした。

参考記事:
桶狭間の合戦―不利な状況を受け止める

今回は、もっとミクロな分析で、ドラマで描かれた松平蔵人元康の動き、つまり鳴海(なるみ)城に蔵人が入っていたらどうなっていたか、という仮定をします。

また、下記「地図から見る大河ドラマ」さんによる松平・水野挟撃論についても言及しようと思います。

まずは、史実としての今川治部大輔義元(片岡愛之助)と織田上総介の動きです。
(赤系が今川治部の動きで白抜きは予定されていたルートです。青系は上総介の動きです)
※クリックで拡大されます。


これ、もし今川治部に大高(おおだか)城に入られていたらかなりのピンチですね。

幸いにも、この戦よりも前に上総介は弟の織田武蔵守信成(信勝)(木村了)や岩倉(いわくら)城の織田伊勢守信賢を除いていたために防衛ラインを崩されるわけではありません。

しかし、これだけの兵力差があると、囲碁的な拠点攻略戦をやらなくても力押しで勝てます。
(織田:5,000、今川:45,000)

史実としては、上総介本体が今川本陣に攻撃を仕掛ける前に「地図から見る大河ドラマ」さんにて書かれているように、佐々隼人(政次)、千秋四郎(季忠)の部隊が今川本陣に正面から戦いを仕掛けています。

これが陽動(ようどう)となり(上総介が意図的に仕掛けさせたという説もあります)今川本陣の兵を分散させたこともあって、上総介の本隊は今川本陣の不意を打つことに成功したわけです。

これ、松平蔵人が今川治部の命令通り鳴海城に入っていたらどうなるでしょう?

↓松平蔵人が鳴海城に入っていたら、の図
(白抜き矢印が松平蔵人隊の予想進路)
※クリックで拡大されます。


鳴海城の籠城(ろうじょう)勢は兵力的に余裕ができるので、おそらく一部隊を遊撃(※)に出すことが可能となります。
そうなると、おそらく便利に使われていた松平蔵人隊が遊撃として使われて、上記・佐々隼人や千秋四郎の部隊の殲滅(せんめつ)にも駆り出されたかもしれません。
※遊撃(ゆうげき):部隊に特定の持ち場を与えず、自由に動かして攻撃させること。

となると、今川本体からは兵の出撃がなく、ドラマで描かれたような治部本体の兵力を減らすことはできなかったわけです。

それともう一つ、「地図から見る大河ドラマ」さんでおっしゃっているような松平・水野による今川本陣挟撃を僕なりの図にしてみるとこうなります。

↓松平蔵人が今川を裏切ったなり!の図
(白抜き線が松平・水野による挟撃の予想進軍路)
※クリックで拡大されます。


完璧な作戦ですね 笑

こうなっていれば、史実のような織田方のギリギリの勝利ではなく「完全勝利」でした。

ですが、実際は松平・水野は動きませんでした。

松平蔵人は言うまでもなく今川方だったので「裏切り」という決断が必要だったのもありますが、出先の大高城ではっきりとした裏切りを行った場合、国許(くにもと)岡崎(おかざき)勢や駿府(すんぷ)の妻子がどんな目に遭わされるかわからなかったのもあると思います。

叔父の水野下野守信元(横田栄司)が出兵していたらどうなっていたでしょう?

居城・緒川(おがわ)城が今川治部の敗退とともに織田・今川の境界線の最前線に放り込まれるわけです。

今川方の残存兵に真っ先に攻められる可能性があったために、下野守は居城を離れる訳にはいかなかったものと思われます。

こんな風に、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!

最後まで読んでいただきありがとうございました!


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくる』第21回―松平蔵人の親族


以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・朝倉 左衛門督〔通称は孫次郎〕 日下部 朝臣 義景
あさくら さえもんのかみ〔通称はまごじろう〕 くさかべ の あそん よしかげ
・明智 十兵衛 源 光秀
あけち じゅうべえ みなもと の みつひで
・三好 筑前守〔通称は孫次郎〕 源 朝臣 長慶
みよし ちくぜんのかみ〔通称はまごじろう〕 みなもと の あそん ながよし
・征夷大将軍〔将軍家〕 足利 左近衛中将〔略称「左中将」。通称不明〕 源 朝臣 義藤〔義輝〕
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 あしかが さこんえのちゅうじょう〔略称「さちゅうじょう」。通称不明〕 みなもと の あそん よしふじ〔よしてる〕
・斎藤 治部大輔〔通称は新九郎〕 藤原 義龍〔高政〕
さいとう じぶのたゆう〔通称はしんくろう〕 ふじわら の よしたつ〔たかまさ〕
・織田 上総介〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ かずさのすけ〔通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・松永 弾正忠〔または弾正少弼。通称は不明〕 紀?〔藤原?、源?〕 朝臣 久秀
まつなが だんじょうのじょう〔またはだんじょうのしょうひつ。通称は不明〕 き〔ふじわら、みなもと〕 の あそん ひさひで
・明智〔三宅〕 左馬助〔通称は弥平次?〕 源 朝臣 秀満
あけち〔みやけ〕 さまのすけ〔通称はやへいじ?〕 みなもと の あそん ひでみつ
・細川 兵部大輔〔通称は与一郎〕 源 朝臣 藤孝
ほそかわ ひょうぶのたゆう〔通称はよいちろう〕 みなもと の あそん ふじたか
・細川 右京大夫〔略称「京兆」。通称は六郎〕 源 朝臣 晴元
ほそかわ さきょうのだいぶ〔略称「けいちょう」。通称はろくろう〕 みなもと の あそん はるもと
・征夷大将軍〔将軍家〕 足利 右近衛大将〔略称「右大将」。通称不明〕 源 朝臣 義晴
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 あしかが うこんえのだいしょう〔略称「うだいしょう」。通称不明〕 みなもと の あそん よしはる
・(佐々木)六角 弾正少弼〔通称は四郎〕 源 朝臣 定頼
(ささき)ろっかく だんじょうのしょうひつ〔通称はしろう〕 みなもと の あそん さだより
・(佐々木)六角 左京大夫〔通称は四郎〕 源 朝臣 義賢〔入道承禎〕
(ささき)ろっかく さきょうのだいぶ〔通称はしろう〕 みなもと の あそん よしかた〔入道じょうてい〕
・松平 蔵人佐〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 元康〔元信、のちの徳川家康〕
まつだいら くろうどのすけ〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん もとやす〔もとのぶ、のちのとくがわいえやす〕
・今川 治部大輔〔通称不明〕 源 朝臣 義元
いまがわ じぶのたゆう〔通称不明〕 みなもと の あそん よしもと
・織田 武蔵守〔弾正忠。通称は勘十郎〕 藤原〔忌部〕 朝臣 信成〔達成・信勝・信行〕
おだ むさしのかみ〔だんじょうのちゅう。通称はかんじゅうろう〕 ふじわら〔いんべ〕 の あそん のぶなり〔みちなり・のぶかつ・のぶゆき〕
・佐々 隼人正〔官職不明〕 源 政次〔成吉、勝通〕
さっさ はやとのかみ/はやとのしょう〔官職不明〕 みなもと の まさつぐ〔なりよし、かつみち〕
・千秋 加賀守〔通称は四郎〕 藤原 朝臣 季忠
せんしゅう かがのかみ〔通称はしろう〕 ふじわら の あそん すえただ
・水野 下野守〔通称は藤四郎、藤七郎〕 源 朝臣 信元
みずの しもつけのかみ〔通称はとうしろう、とうしちろう〕 みなもと の あそん のぶもと
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
第19回
今日は何の日?徒然日記
BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
2020、映像メディアは死んだ ~ テレビドラマ・映画・Web動画をめぐって
第20回
桶狭間の戦いについての推論がすごく面白いです!
地図から見る大河ドラマ
keikoのブログ
妄想泥棒のブログ(銀英伝・ハガレン二次創作小説とマンガ・読書・間宮祥太朗ドラマ感想)


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・大河ドラマ(『軍師官兵衛』以降)について語ってほしい
・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

…等々

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※こちらの記事は、令和2年11月8日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は今年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』第26回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に人物の読み仮名をのせています。

【『麒麟がくる』の楽しみ方】
・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美濃の情勢/織田家の状況
・第5~6回―当時の京都の情勢・第7~8回―尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢
・第9~10回―土岐一族とは/織田家の血縁関係・第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽
・第13~14回―戦国最強の傭兵団/村木砦の戦い・第15~16回―織田一族の関係性/新九郎高政の重臣たち
・第17~18回―斎藤家の血族関係/永禄元年までの織田家・第19~20回―足利将軍家の動き/桶狭間の戦い
・第21回―松平蔵人の親族
・『麒麟がくるまでお待ちください』第2~3回―斎藤道三二代説/前田利家の生涯
・『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称
・総集編第1回・第22回―三好氏の血縁関係
・第23回―三好氏の血縁関係(2)・第24回―剣豪の系譜
・第25回―朝倉氏の系譜


まずはあらすじ。



第26回のあらすじ


足利左馬頭義昭(滝藤賢一)の話を聞いた明智十兵衛光秀(長谷川博己)は、義昭に将軍(しょうぐん)の器を見出し、朝倉左衛門督義景(ユースケ・サンタマリア)にそのことを進言した。

義昭の元服(げんぷく)の際に烏帽子親(えぼしおや)を務め、すっかり上洛(じょうらく)する気になった義景であったが、一族や重臣(じゅうしん)たちは乗り気ではない。

その様子を見た十兵衛は朝倉(あさくら)家に上洛は難しいと見て取って、稲葉山(いなばやま)城改め岐阜(ぎふ)城に拠る織田尾張守信長(染谷将太)を訪れた。

信長は上洛に前のめりで、十兵衛に義昭を連れてこいと言う。

越前(えちぜん)に戻った十兵衛は、義景の下を去り義昭らとともに信長を頼ることを考えるが、上洛に乗り気になっていた義景の説得に頭を悩ます。

そこで、三淵弾正左衛門尉藤英(谷原章介)は、朝倉一族や重臣たちと謀り事をめぐらす…

ということで、




第26回「三淵の奸計」の感想


誰もがおっしゃっていますが、義景の子・阿君丸(くまぎみまる)(森優理斗)の暗殺はショッキングでしたね。

当時、病気などの健康上の問題で子供が亡くなることは珍しくなかったとはいえ、あの愛くるしい様子を見せられたらたまりませんね。

朝倉一族についての参考記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくる』第25回―朝倉氏の系譜

そして、その首謀者が三淵藤英であるという描き方をされたのもちょっと気の毒でした。
史実では藤英が関わったという証左は何一つないので、これで悪いイメージがついてしまうのはなんとも言えませんね。

参考記事:
『麒麟がくる』第30回―三淵氏の来歴

ただ、物語におけるスパイスとしてこれだけ感情移入させる展開はうまいと思いました。

それと、義昭元服に至るまでの朝廷(ちょうてい)内の描写が良かったですね。

これまでの作品でこの頃の朝廷の様子が描かれることは少なかったので、かなり新鮮でした。

近衛前久役の本郷奏多氏もよかったのですが、二条晴良役の小藪千豊氏のいやぁ~な感じが素晴らしかったです!

吉本新喜劇で磨かれたであろう演技力は芸人の域を超えていました。


吉本関連の記事:
松本チーム絶対笑ってはいけない温泉旅館の旅!

同関連記事:
浜田チーム体育館で24時間鬼ごっこ

同関連記事:
松本一人ぼっちの廃旅館1泊2日の旅



第26回の楽しみ方―摂関家の系譜―


今回は、近衛前久、二条晴良らの公家(くげ)が活躍したということで、彼らの素性について解説しようと思います。

まず前提知識として「近衛(このえ)」とか「二条(にじょう)」は名字に当たる名前となります。
つまり、「織田(おだ)」とか「朝倉」とかと同様、彼らは「近衛」や「二条」の他に「源(みなもと)」「平(たいら)」「藤原(ふじわら)」「橘(たちばな)」のような「氏(うじ)」をもっているということです。

参考記事:
武家や公家の名前について

では、彼らの「氏」は何なのかというと、二人とも「藤原」氏となります。

中臣鎌足に始まる藤原氏ですね。
ここで、藤原氏の来歴を軽くおさらいしてみましょう。

藤原氏は鎌足の孫の代で大きく四家(しけ)に別れています。

・武智麻呂から始まる「南家(なんけ)
・宇合から始まる「式家(しきけ)
・麻呂から始まる「京家(きょうけ)
・房前から始まる「北家(ほっけ)

です。
※上記4名は「藤原四子(しし)」と呼ばれます。

近衛家・二条家はこのうち北家の血筋を受け継いでいます。


関連記事(北家出身の武家の例①):
『麒麟がくる』第31回―浅井家の来歴

関連記事(同②):
『麒麟がくる』第17~18回―斎藤家の血族関係と永禄元年までの織田家


北家は奈良(なら)時代にはそれほどの勢力はもっていなかったのですが、平安(へいあん)時代になると冬嗣が天皇の外祖父(がいそふ)(母方の祖父)となり、権力を握ります。

冬嗣の子孫は代々摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)に任命されるようになり、ここに「摂関家(せっかんけ)」という地位が確立されます。

摂政・関白についての参考記事:
「摂政」の歴史

そしてその子孫には有名な藤原道長・頼通がおり、その頃に藤原北家は栄華を極めます。
※道長の子孫は「御堂流(みどうりゅう)」と呼ばれています。

その頼通の子孫である忠通の子供の代にはその御堂流が三家に別れます。

そのうちの一家は「九条(くじょう)家」と言い、鎌倉幕府(かまくら・ばくふ)草創期に源頼朝の支持を受けた九条兼実を祖とする家です。

もう一家が基実を祖とする「近衛家」です。
この「近衛家」の末裔(まつえい)が今回の大河で活躍している近衛前久です。

※さらにその子孫にあたるのが第34・38・39代内閣総理大臣・近衛文麿で、その孫が第79代内閣総理大臣・細川護熙氏です。
※三家のうちもう一家は「松殿(まつどの)家」というのですが、今回の物語には登場していないので割愛します。


九条兼実の子孫はさらに分岐しており、東福寺(とうふくじ)を建立したことで有名な道家の子のうち、良実が「二条家」を、実経が「一条(いちじょう)家」を立てています。

関連記事:
【京都旅行10】歴史と風情を堪能―九条道家が創建した東福寺の魅力

※道家の子のうち、頼経は鎌倉幕府四代将軍となっています。
※土佐(とさ)で活躍した一条兼定らはこの一条家の分流です。また、鎌倉幕府で活躍した一条能保は道長の弟の子孫であるので別家となります。


兼定についての関連記事:
四万十川の合戦―戦う前に勝つ

同関連記事:
安芸城の合戦―「タイミングの勢法」の威力



この二条良実の子孫が今回登場した二条晴良となります。

さらに、上記・近衛基実の子孫は「鷹司(たかつかさ)家」に分岐しています。

以上の「九条家」「近衛家」「二条家」「一条家」「鷹司家」の五家がかわるがわる摂政・関白を歴任するようになったため、これらは総称して「五摂家(ごせっけ)と呼ばれています。

戦国(せんごく)時代を描いた多くの物語ではこれら五摂家の様子が描かれることはあまりないのですが、彼らの中では熾烈な「摂政・関白」就任争いが繰り広げられていました。

あの手この手を使って時の摂政・関白を失脚させ、自分がその地位に就こうという争いです。

そのため、今回近衛前久が悩まされたような「誰を次期将軍に推挙するか」というのは大変重要な案件であり、推挙した人物に落ち度があると五摂家の他の人物から猛批判を浴び、摂政・関白の地位から引きずり降ろされてしまうのです。

※羽柴秀吉はこのような五摂家の骨肉の争いの中に割って入る形で関白に就任したため、対五摂家政策に大変気を遣ったようです。また、豊臣(とよとみ)家が滅んだ大坂の陣の背景には、関白の地位を取り戻そうとした五摂家の暗躍があったという人もいます。

↓参考:近衛家・二条家略系図
※タップで拡大されます。


こんな風に、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

というわけでまだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!

最後まで読んでいただきありがとうございました!


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくる』第27回―「会合衆」とは何者か?


以下もご覧ください!

※トップ画像は一乗谷を流れる一乗川です。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・足利 左馬頭〔通称不明〕 源 朝臣 義秋〔義昭、一乗院覚慶〕
あしかが さまのかみ〔通称不明〕 みなもと の あそん よしあき〔よしあき、いちじょういんかくけい〕
・明智 十兵衛 源 光秀
あけち じゅうべえ みなもと の みつひで
・朝倉 左衛門督〔通称は孫次郎〕 日下部 朝臣 義景
あさくら さえもんのかみ〔通称はまごじろう〕 くさかべ の あそん よしかげ
・織田 尾張守〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ おわりのかみ〔通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・三淵 弾正左衛門尉〔または弥四郎〕 源 藤英
みつぶち だんじょうさえもんのじょう〔またはやしろう〕 みなもと の ふじひで
・関白 近衛 左大臣〔通称不明〕 藤原 朝臣 前久〔晴嗣、前嗣〕
かんぱく このえ さだいじん〔通称不明〕 ふじわら の あそん さきひさ〔はるつぐ、さきつぐ〕
・前関白 二条 前左大臣〔通称不明〕 藤原 朝臣 晴良
さきのかんぱく にじょう さきのさだいじん〔通称不明〕 ふじわら の あそん はれよし〔はるよし〕
・大織冠内大臣 中臣〔藤原〕 連? 鎌足
たいしょっかんないだいじん なかとみ〔ふじわら〕 の むらじ? かまたり
・右大臣 藤原 朝臣 武智麻呂
うだいじん ふじわら の あそん むちまろ
・参議式部卿兼太宰帥 藤原 朝臣 宇合
さんぎしきぶきょうけんだざいのそち ふじわら の あそん うまかい
・参議兵部卿 藤原 朝臣 麻呂
さんぎひょうぶきょう ふじわら の あそん まろ
・参議民部卿 藤原 朝臣 房前
さんぎみんぶきょう ふじわら の あそん ふささき
・左大臣 藤原 朝臣 冬嗣
さだいじん ふじわら の あそん ふゆつぐ
・摂政太政大臣 藤原 朝臣 道長
せっしょうだじょうだいじん ふじわら の あそん みちなが
・摂政/関白太政大臣 藤原 朝臣 頼通
せっしょう/かんぱくだじょうだいじん ふじわら の あそん よりみち
・摂政/関白太政大臣 藤原 朝臣 忠通
せっしょう/かんぱくだじょうだいじん ふじわら の あそん ただみち
・征夷大将軍 右近衛大将〔通称は三郎〕 源 朝臣 頼朝
せいいたいしょうぐん うこんえのだいしょう〔通称はさぶろう〕 みなもと の あそん よりとも
・摂政/関白 九条 太政大臣〔通称不明〕 藤原 朝臣 兼実
せっしょう/かんぱく くじょう だじょうだいじん〔通称不明〕 ふじわら の あそん かねざね
・摂政/関白 近衛 左大臣〔通称不明〕 藤原 朝臣 基実
せっしょう/かんぱく このえ さだいじん〔通称不明〕 ふじわら の あそん もとざね
・内閣総理大臣 近衛 (通称不明) 藤原 文麿
ないかくそうりだいじん このえ (通称不明) ふじわら の ふみまろ 
・内閣総理大臣 細川 (通称不明) 源 護熙
ないかくそうりだいじん ほそかわ (通称不明) みなもと の もりひろ
・摂政/関白 九条 左大臣〔通称不明〕 藤原 朝臣 道家
せっしょう/かんぱく くじょう さだいじん〔通称不明〕 ふじわら の あそん みちいえ
・関白 二条 左大臣〔通称不明〕 藤原 朝臣 良実
かんぱく にじょう さだいじん〔通称不明〕 ふじわら の あそん よしざね
・摂政/関白 一条 左大臣〔通称不明〕 藤原 朝臣 実経
せっしょう/かんぱく いちじょう さだいじん〔通称不明〕 ふじわら の あそん さねつね
・征夷大将軍 権大納言〔通称不明〕 藤原 朝臣 頼経
せいいたいしょうぐん ごんのだいなごん〔通称不明〕 ふじわら の あそん よりつね
・一条 権中納言〔通称不明〕 藤原 朝臣 兼定
いちじょう ごんのちゅうなごん〔通称不明〕 ふじわら の あそん かねさだ
・一条 権中納言〔通称不明〕 藤原 朝臣 能保
いちじょう ごんのちゅうなごん〔通称不明〕 ふじわら の あそん よしやす
・関白 羽柴 太政大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀吉
かんぱく はしば だじょうだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでよし
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
坂の上のサインボード
ぴえーるのテレビブログ
歴史上の偉人、有名人と子孫の大百科


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※こちら記事は、令和3年11月8日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「実生活に活かす戦国合戦術」第53弾として、「第二次国府台合戦(こうのだいがっせん)」について、実用的視点で学んでいこうと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】
江古田原沼袋合戦権現山の戦い
第一次国府台の合戦川越城の合戦
志賀城の合戦郡山城の合戦
厳島の合戦四万十川の合戦
今山の合戦耳川の合戦
金ヶ崎城の合戦一言坂の合戦
三方ヶ原の合戦叡山焼き討ち
江古田原沼袋の戦い②石山合戦
雑賀・根来合戦第一次国府台の戦い②
三木合戦本能寺の変
九戸城の戦い文禄・慶長の役
関ヶ原の戦い第二次上田城の戦い
大坂冬の陣



普段の生活の中で、いろいろ目標を達成することってあると思います。

仕事で契約が取れたとか、彼女に告白してOKをもらったとか、彼女と婚約したとか。

そんな時、どの段階で喜びますか?ということが大事です。

もちろん、嬉しい出来事があったら大いに喜ぶべきです。

全身で喜んでいいと思います。

しかし、その段階で喜んでいいんですか?

その「勝利」は確定してるんですか?

物事は、勝利に近づけば近づく程トラブルが発生する傾向があります。

「やった!結婚のOKもらった!もう大丈夫だ!」

そんな瞬間がいちばん危ないんです。

というわけで今回は、北条左京大夫氏康と里見左馬頭義弘が衝突した第二次国府台合戦から「小さな勝ちに酔わない」ということを学びたいと思います。

同合戦の動員兵力に言及した記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
各合戦の動員人数について(6)第二次国府台の合戦





第二次国府台合戦までの流れ


天文(てんぶん)7年(1538年)10月、下総(しもうさ)国府台〔千葉県市川市(ちばけんいちかわし)〕にて北条左京大夫氏綱と、小弓公方・足利右兵衛佐義明が衝突しました。

この戦いで足利右兵衛佐は敗死しますが、足利(あしかが)軍に参加していた房総(ぼうそう)の雄・里見刑部少輔義尭は早々に撤退し、ほぼ無傷で本拠地・安房(あわ)に帰りました。
(第一次国府台合戦)


参考記事:
第一次国府台の戦いに学ぶ―「~はずがない」は失敗フラグ

参考記事:
各合戦の動員人数について(4)第一次国府台の合戦


この勝利により北条(ほうじょう)家は武蔵(むさし)進出の足場を固めますが、山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)の両上杉(うえすぎ)家との対立の他に駿河(するが)の今川(いまがわ)家との対立があり、思うように武蔵進出は進みませんでした。

さらにこの頃、天文の飢饉が起こり食糧調達もままならず、さらに疫病も流行るというありさまでした。

それに加えて、北条家当主・左京大夫氏綱が病に倒れ、天文10年(1541年)に亡くなります。

左京大夫氏綱の跡を継いだ北条左京大夫氏康は、数年かけてなんとか領国(りょうごく)経営を安定させます。

その矢先の天文14年(1545年)、武蔵河越(かわごえ)城を両上杉家・古河公方(こがくぼう)足利家連合軍に囲まれますが、撃破。


関連記事:
河越城の戦いから学ぶ―基準を満たすまで手綱を緩めてはいけない

関連記事:
各合戦の動員人数について(5)川越城の合戦


両上杉家は壊滅的なダメージを受けます。

両上杉家を抑え込んだ左京大夫は永禄(えいろく)3年(1560年)、漸(ようや)く長年の確執の決着をつけるべく上総(かずさ)に出兵し里見(さとみ)家と対決しました。

しかしその時、里見家の依頼により越後(えちご)の龍・長尾弾正少弼景虎〔後の上杉謙信〕が「越山(えつざん)」により関東(かんとう)に入りました。

ついには相模(さがみ)に侵入したため、左京大夫は上総・久留里(くるり)城の包囲を解いて小田原(おだわら)に帰還しました。

※この時長尾弾正少弼は、関東管領(かんとうかんれい)であり山内上杉家当主であった上杉兵部少輔憲政より山内家当主及び関東管領職を譲り受け、上杉弾正少弼政虎と名乗りを変えています。

さらに、翌永禄4年(1561年)には将軍家(しょうぐんけ)・足利左中将義輝より偏諱(へんき)を受け、諱(いみな)「輝虎」と改めています。


永禄7年(1564年)1月、4度目の「越山」を敢行した上杉弾正少弼輝虎と連携した里見左馬頭義弘が、下総国府台に進出しました。

その報を受けた北条左京大夫氏康は、急ぎ下総に兵を派遣。

自身も下総へ向かいます。


第二次国府台合戦


北条方の先鋒は江戸城代(えどじょうだい)遠山甲斐守綱景、富永三郎右衛門尉直勝。

遠山家の本流・美濃遠山諸家に関連する記事:
岩村城の合戦ー後ろ指を指されそうなことはしない

2将は本隊の到着を待たずに江戸川(えどがわ)を渡り始めます。

それを見た里見軍は国府台城から撤退し始め、勢いづいた遠山甲斐、富永三郎は一気に国府台の台地を駆け上がります。

しかし、そこで里見軍が反転。

台地上から一気に遠山・富永両将に逆落としをかけ、両将は敗退、討死します。

緒戦に勝利した里見軍は兵たちに酒を振る舞い、祝勝の宴を始めます。

しかし、その夜ひそかに江戸川を渡河(とか)した北条軍の本隊2万が国府台城を囲んでおり、未明に総攻撃を仕掛けます。

酔いのさめない里見軍6,000は散々に打ち負かされ、大将の里見左馬頭はほうほうのていで安房へ逃げ帰ります。


小さな勝ちに酔わない


今回の教訓は非常に分かりやすいですね。

緒戦に勝っただけで勝利に酔いしれた里見軍が、絵に描いたように無様な負け方をしたことですね。

このようなわかりやすい事例を扱うときはいつも言うのですが、これ、果たして他人事と思って笑っていていいんですか?

ということを問いたいです。

祝勝し、労をねぎらい、功労者を賞するのはとても大切なことです。

みんなで喜びを分かち合いたいですよね。

しかしそれ、本当に「勝ち」ですか?

見落としはないですか?

「勝ち」は本当に確定してるんですか?


―――

僕は今年戸建てを購入したのですが、その時にはこの「勝ち」の認定には非常に慎重でした。

妻には当初から「実際に引っ越して入居するまで、『家を手に入れた』とは思わないように」と伝えてありました。

入居するまでどんなトラブルが起こり、話がおじゃんになるかわからないからです。

そうなったら精神的にダメージを受けて、一気に無気力になってしまいます。

それを防ぐために、心のもっていき方としてはローンの仮審査の段階から非常に慎重な姿勢でいました。

不動産業者の担当者には「1年以内にクレジットカード等の支払い遅延がなければ大丈夫です」といわれており、遅延はありませんでした。

しかし、自分の認識していないところで遅延があったかもしれない。

実際に仮審査の当月、普段使いしていないクレカの年会費が残高不足で落とされていないという事案が発生しました。

慎重にメール等に目を光らせていたため、引落がされていないことをすぐに発見してクレカ会社に連絡。事無きを得ました。

そして、契約までの段階でも慎重な姿勢を貫きました。

不動産業者が結構いい加減な業者だったため割とハード目のネゴ(交渉)をやったのですが、売主がいつ嫌になるかわからない。

「売主が契約したくない」というかもしれない、ということを頭の片隅において交渉に当たりました。

その後のローンの本審査、物件の引き渡しの過程でも常に慎重な姿勢を貫いてトラブルに備え、引き渡し後も何が起こるかわからないという姿勢でいました。

ローンの本審査の時などは、不動産業者が不案内だったこともあり、書類の準備等で非常に不安な状況に陥ったこともありました。

ローンの本審査をクリアし、引き渡しの段階まで来てしまえば取引がおじゃんになることはまずありませんが、自分の知らない領域で何かトラブルが起こるかもしれません。

そんなこんなで、妻とようやく喜びを分かち合いハイタッチをしたのは引越が終わって一息ついた時でした。

―――

そもそも、油断というのは自分の能力の過信から起こります。

あなたはそんなに能力高いですか?

自分の能力でトラブルを防ぎきれますか?

そもそも、何か事をなそうというときには必ずトラブルが発生します。

未知の領域に踏み込むんだから当たり前なんですよ。

そんな時に、自分の力を過信すべきではないからこそ「小さな勝ち」に酔いしれてはいけないんです。

ということで、今回は「小さな勝ちに酔わない」ということについて説明させていただきました。

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・北条 左京大夫〔通称は新九郎〕 平 朝臣 氏康
ほうじょう さきょうのだいぶ〔通称はしんくろう〕 たいら の あそん うじやす
・里見 左馬頭〔通称は太郎〕 源 朝臣 義弘
さとみ さまのかみ〔通称はたろう〕 みなもと の あそん よしひろ
・北条〔伊勢〕 左京大夫〔通称は新九郎〕 平 朝臣 氏綱
ほうじょう〔いせ〕 さきょうのだいぶ〔通称はしんくろう〕 たいら の あそん うじつな
・【小弓公方】足利 右兵衛佐〔通称不明〕 源 朝臣 義明〔法名空然〕
【おゆみくぼう】あしかが うひょうえのすけ〔通称不明〕 みなもと の よしあき〔法名こうねん〕
・里見 刑部少輔〔通称は権七郎〕 源 朝臣 義尭
さとみ ぎょうぶのしょう〔通称はごんしちろう〕 みなもと の あそん よしたか
・(山内)上杉〔長尾〕 弾正少弼〔通称は平三〕 藤原〔平〕 朝臣 輝虎〔景虎、政虎。入道謙信〕
(やまのうち)うえすぎ〔ながお〕 だんじょうのしょうひつ〔通称はへいぞう〕 ふじわら〔たいら〕 の あそん てるとら〔かげとら、まさとら。入道けんしん〕
・(山内)上杉 兵部少輔?〔通称は五郎〕 藤原 朝臣 憲政
(やまのうち)うえすぎ ひょうぶのしょう?〔通称はごろう〕 ふじわら の あそん のりまさ
・征夷大将軍〔将軍家〕 足利 左近衛中将〔略称「左中将」。通称不明〕 源 朝臣 義輝〔義藤〕
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 あしかが さこんえのちゅうじょう〔略称「さちゅうじょう」。通称不明〕 みなもと の あそん よしてる〔よしふじ〕
・遠山 甲斐守〔通称不明〕 藤原 朝臣 綱景
とおやま かいのかみ〔通称不明〕 ふじわら の あそん つなかげ
・富永 三郎右衛門尉 源〔伴〕 直勝〔康景〕
とみなが さぶろううえもんのじょう みなもと〔とも〕 の なおかつ〔やすかげ〕
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
落人の夜話
今日は何の日?徒然日記


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・大河ドラマ(『軍師官兵衛』以降)について語ってほしい
・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

…等々

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※こちらの記事は、平成19年9月4日に書かれたものです。

小田原(おだわら)は箱根(はこね)ではありませんが、彼女さんと箱根に行った帰りに寄ったので。


【「箱根旅行シリーズのこれまでの記事】
・箱根旅行/強羅温泉 文の郷



北条家の戦いについて知りたい方は、下記リンクをタップしてくださ:
権現山の戦いから学ぶ―弱い者の戦い方

関連記事:
三増峠の合戦―撤退は計画的に

関連記事:
各合戦の動員人数について(3)新井城の戦い

関連記事:
各合戦の動員人数について(2)権現山の戦い

関連記事:
関東の歴史観光スポットについて




小田原城に行ったのはなんだかんだでこれで4,5回目で、小田原という土地柄か、交通の便がよいのか、東海(とうかい)方面に行くと何かというと寄って登城している気がします。

僕は歴史ヲタクなので、お城に行くと心が躍ります。城郭もよいのですが、お堀と石垣には目がなくて、一日眺めてもきっと飽きないと思います(笑
(だから江戸(えど)城のお堀や石垣にも萌えなのですがw)

そして城に行ったら頭の中は「この城をどうやって攻めるか」ということでいっぱいになり、ついついいつも油断して敵前に踊り出してしまい、頭の中では何回死んだかわかりませんw
重症ですか?笑


関連記事:
『真田丸』第24回―伊達と官兵衛

関連記事:
『関八州古戦録』

関連記事:
箱根旅行/箱根ガラスの森







この時期(6月初め)はあじさいがとてもきれいでした。

そして今回も小田原城は落とせませんでした(頭の中で)。


旅行関連の次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
明野ひまわり畑


参考
みや日記
yo's impression


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※こちらの記事は、令和3年1月31日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は令和2年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』第35回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名をのせています。


【『麒麟がくる』の楽しみ方】
・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美濃の情勢/織田家の状況
・第5~6回―当時の京都の情勢・第7~8回―尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢
・第9~10回―土岐一族とは/織田家の血縁関係・第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽
・第13~14回―戦国最強の傭兵団/村木砦の戦い・第15~16回―織田一族の関係性/新九郎高政の重臣たち
・第17~18回―斎藤家の血族関係/永禄元年までの織田家・第19~20回―足利将軍家の動き/桶狭間の戦い
・第21回―松平蔵人の親族
・『麒麟がくるまでお待ちください』第2~3回―斎藤道三二代説/前田利家の生涯
・『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称
・総集編第1回・第22回―三好氏の血縁関係
・第23回―三好氏の血縁関係(2)・第24回―剣豪の系譜
・第25回―朝倉氏の系譜・第26回―摂関家の系譜
・第27回―会合衆とは何者か?・第28回―摂津晴門とは何者?
・第29回―押領と何か・第30回―三淵氏の来歴
・第31回―浅井家の来歴・第32回―森可成とは?
・第33回―延暦寺の歴史・第34回―松永弾正の出自



まずはあらすじ。



第35回のあらすじ


元亀(げんき)2年(1571年)、比叡山(ひえいざん)焼き討ちの功で織田弾正大弼信長(染谷将太)より近江志賀郡(おうみ・しがぐん)の地を与えられた明智十兵衛光秀(長谷川博己)は、坂本(さかもと)の地に城を建てていた。

織田信長の下で活躍し出世を重ねていた十兵衛は、将軍家・足利権大納言義昭(滝藤賢一)に警戒されていた。

そんな十兵衛は義昭の開く茶会に出席するため本圀寺(ほんこくじ)を訪れた。

そこで細川兵部大輔藤孝(眞島秀和)に、幕臣(ばくしん)摂津掃部頭晴門(片岡鶴太郎)が十兵衛を斬ろうとしていることを告げられる。

藤孝の助言をきかず、義昭の元に向かう十兵衛は、脚を斬られながらも義昭の下に到着する。

十兵衛の必死の訴えに心を動かされた義昭は、三淵弾正左衛門尉藤英(谷原章介)に命じて藤孝の兵を本圀寺に入れ、摂津を捕縛。
政所執事(まんどころしつじ)の任を解き、摂津は失脚した。

一方で十兵衛は帝(みかど)(坂東玉三郎)に興味をもち、伊呂波太夫(いろはだゆう)(尾野真千子)に相談し、帝に近い位置にいる三条西実澄(石橋蓮司)の下を訪れる。

ということで、




第35回「義昭、まよいの中で」の感想


相変わらず義昭の寵愛(ちょうあい)を受ける駒(こま)(門脇麦)の立ち位置はよくわかりませんが、駒のお陰で十兵衛は一命を取り留めました。

そして、ついに摂津晴門が失脚!

悪い奴がとことん悪いことをして、スカッと失脚していくのはたまりませんねw

これぞ物語の醍醐味というところでしょうかw

他の大河で活躍した悪役の様子を知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
『いだてん』第41~42回―川島正次郎のお陰で面白くなってきた!

もちろん史実の摂津晴門がドラマのような悪い奴だったという記録は残っていませんので、その辺は注意が必要です。

摂津晴門も片岡鶴太郎氏もお疲れ様でした!

関連記事:
『麒麟がくる』第28回―摂津晴門とは何者?

また、羽柴藤吉郎(佐々木蔵之介)の怪しさもいいですね。

明るい振る舞いの裏に見え隠れする陰湿な策謀が恐ろしいですね。

この辺は『信長協奏曲』の影響が見られる気がします。

関連記事:
『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称





第35回の楽しみ方―細川藤孝について―


今まで摂津掃部頭晴門、三淵弾正左衛門尉藤英〔以降「弾正」〕と書いてきましたが、今回はついに細川兵部大輔藤孝〔以降「兵部」〕について取り上げたいと思います。


参考記事:
『麒麟がくる』第28回―摂津晴門とは何者?

参考記事:
『麒麟がくる』第30回―三淵氏の来歴


天文(てんぶん)3年(1534年)に生まれた細川兵部は、実は織田弾正大弼〔以降「弾正」〕と同年齢なのであります。

父は三淵大和守晴員〔以降「大和守」〕で、ドラマ中でも述べられているように三淵弾正の弟です。

参考記事:
『麒麟がくる』第30回―三淵氏の来歴

上記記事にも書いたように、大和守は元々和泉守護細川家(いずみしゅご・ほそかわけ)・刑部少輔元有の子で三淵(みつぶち)家に養子に入っています。

兵部は父の兄である播磨守元常の養子に入っていますので、血筋的には実家に戻った形になります。

通称は与一郎です。
※息子の忠興も「与一郎」を名乗っておりますので、筆者としては藤孝の呼び方は「兵部」というより「与一郎」の方が親しみがあって好きですw

元服時には主君・将軍家足利左近衛中将義輝〔以降「左中将」〕の旧諱(きゅうき:改名前の諱)である「義藤」の偏諱(へんき:諱の一字)を受けて「藤孝」という諱を名乗ります。

その後、永禄(えいろく)の変で左中将が討たれると、その弟・一乗院覚慶〔のちの足利権大納言義昭。以降「権大納言」〕を奉じて兄・三淵弾正や明智十兵衛らとともに織田弾正の協力を得、次期将軍に擁立することに成功しています。


関連記事:
『麒麟がくる』第24回ー剣豪の系譜

関連記事:
『麒麟がくる』第28回―摂津晴門とは何者?


この時兵部は山城・勝竜寺(やましろ・しょうりょうじ)城を賜っていますが、この城は実は養父・播磨守元常の居城だったんです。

それを三好三人衆(みよし・さんにんしゅう)に奪われていたのですが、この時織田弾正の協力を得て奪還したんですね。

関連記事:
『麒麟がくる』第23回―三好氏の血縁関係(2)

その後、(これは有名な話なのでネタバレをしてしまいますが)足利権大納言が織田弾正に追放されて以降は織田弾正に仕え(※)、本能寺(ほんのうじ)の変時には明智十兵衛に味方せずにのらりくらりとしています。
※この時、名字を「長岡(ながおか)」に改めています。

関連記事:
本能寺の変に学ぶ―覚悟を決める

羽柴藤吉郎秀吉〔以降「藤吉郎」〕が山崎(やまざき)の戦いにて十兵衛を討って以降は藤吉郎に仕え、各地を転戦します。
※この時剃髪(ていはつ)し、「幽斎玄旨」を名乗っています。

関連記事:
山崎の戦いに学ぶ―大事なことをひとつ決める

慶長(けいちょう)3年(1598年)に藤吉郎が死去したのちは、元々親交のあった内大臣徳川家康(慶長3年時の官職)に接近し、関ヶ原(せきがはら)の合戦時は東軍に味方します。

居城であった丹後田辺(たんご・たなべ)城を西軍に攻められ、籠城(ろうじょう)します。

参考記事:
田辺城の戦いに学ぶ―不都合な現実を直視する

この時、正親町天皇の孫である智仁親王の働きかけにより講和していますが、その背景には彼が古今伝授(こきんでんじゅ)を受けるなど、一流の文化人であったことがあります。
※この後、名字を「細川」に戻しています。

古今伝授とは『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の解釈の秘伝で、師から弟子への直伝のみで伝えられたものです。
これを知っている人物は大変希少でした。

で、兵部がこの「古今伝授」を誰から受けたのかというと、実はそれが今回ドラマに登場した内大臣三条西実澄(以降内府」)だったんですね。

ドラマでは描写されませんでしたが「実澄じいさま」は細川藤孝とも深い交流があったのです。
※ちなみにドラマでは伊呂波太夫が「実澄じいさま」と呼んでいますが、何度も書いているように、諱を呼び名として用いるのは本当は大変失礼な行為なんです。そのため、相手を罵倒するときなどにはあえて諱を使ったようです。
※田辺城の戦いの時に勅使(ちょくし)として田辺城に入った中の1人として、内府実澄の孫・右大臣実枝がいたりします。



関連記事:
武家や公家の名前について

関連記事(三条西家と同族である浅井家について):
『麒麟がくる』第31回―浅井家の来歴


その後、嫡子(ちゃくし)・与一郎忠興は豊前小倉(ぶぜん・こくら)に知行(ちぎょう)を得、兵部自身は京都(きょうと)にて生涯を閉じます。
慶長15年(1610年)、77歳でした。

こんな感じで、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

というわけでまだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!

最後まで読んでいただきありがとうございました!


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくる』第36回―足利家について(1)


以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・織田 弾正大弼〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ だんじょうのだいひつ〔通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・明智 十兵衛 源 光秀
あけち じゅうべえ みなもと の みつひで
・征夷大将軍〔将軍家〕 足利 権大納言〔通称不明〕 源 朝臣 義昭〔義秋、一乗院覚慶〕
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 あしかが ごんのだいなごん〔通称不明〕 みなもと の あそん よしあき〔よしあき、いちじょういんかくけい〕
・細川〔長岡〕 兵部大輔〔通称は与一郎〕 源 朝臣 藤孝〔幽斎玄旨〕
ほそかわ〔ながおか〕 ひょうぶのだゆう〔通称はよいちろう〕 みなもと の あそん ふじたか〔ゆうさいげんし〕
・摂津 掃部頭〔中務大輔。通称不明〕 藤原〔中原〕 朝臣 晴門〔晴直〕
せっつ かもんのかみ〔なかつかさのだゆう。通称不明〕 ふじわら〔なかはら〕 の あそん はるかど〔はるなお〕
・三淵 弾正左衛門尉〔または弥四郎〕 源 藤英
みつぶち だんじょうさえもんのじょう〔又はやしろう〕 みなもと の ふじひで
・方仁〔諡号:正親町帝〕
みちひと〔諡号:おおぎまちのみかど〕
・三条西 内大臣〔通称不明〕 藤原 朝臣 実枝〔実世、実澄〕
さんじょうにし ないだいじん〔通称不明〕 ふじわら の あそん さねき〔さねよ、さねずみ〕
・羽柴〔木下〕 藤吉郎 (平、豊臣) 秀吉
はしば〔きのした〕 とうきちろう (たいら、とよとみ の) ひでよし
・三淵 大和守〔通称不明〕 源 朝臣 晴員
みつぶち やまとのかみ〔通称不明〕 みなもと の あそん はるかず
・細川 刑部少輔〔通称は五郎〕 源 朝臣 元有
ほそかわ ぎょうぶのしょう〔通称はごろう〕 みなもと の あそん もとあり
・細川 播磨守〔通称不明〕 源 朝臣 元常
ほそかわ はりまのかみ〔通称不明〕 みなもと の あそん もとつね
・細川〔長岡〕 与一郎 源 忠興
ほそかわ〔ながおか〕 よいちろう みなもとの ただおき
・征夷大将軍〔将軍家〕 足利 左近衛中将〔略称「左中将」。通称不明〕 源 朝臣 義輝〔義藤〕
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 あしかが さこんえのちゅうじょう〔略称「さちゅうじょう」。通称不明〕 みなもと の あそん よしてる〔よしふじ〕
・徳川〔松平〕 内大臣〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康〔元信、元康〕
とくがわ〔まつだいら〕 ないだいじん〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす〔もとのぶ、もとやす〕
・八条宮智仁親王
はちじょうのみやとしひとしんのう
・三条西 右大臣〔通称不明〕 藤原 朝臣 実条
さんじょうにし うだいじん〔通称不明〕 ふじわら の あそん さねえだ
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
ぴえーるのテレビブログ
韓ドラ大好きおばさんの「言いたい放題いわせてヨ!」
歴史上の偉人、有名人と子孫の大百科


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SALVATORE MONETTIによるPixabayからの画像
《令和6年11月11日更新》※こちらの記事は、平成19年8月1日に書かれたものです。

先々月末くらいに彼女さんと見て行ってきました。
宣伝を散々やっていたので皆さんご存知だと思います。

古代スパルタの300人vs1,000,000人の対決を映画化した『300(スリーハンドレッド)』。


【戦争系の映画についてのこれまでの記事】
・亡国のイージス・ハリウッドに描かれた“武士道”の真実?―『ラストサムライ』と歴史




古代ヨーロッパ関連の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
トロイ

関連記事:
ペルシャ文明展

関連記事:
スパルタ教育とゆったり教育は果たしてどちらの方が有効なのか?




ストーリーは古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの『歴史』に書かれた「テルモピュライの戦い」をモチーフにしたもの。
映画では直接的に触れられていないが(会話の中でチラッと出てくるのだが)、「テルモピュライの戦い」を含むペルシア戦争は紀元前492年から同449年の約40年の間に行われたペルシア軍による三度の遠征のことを指す。

その中でペルシア戦争初期に起こったのがこの戦いだが、実際のところ記録が『歴史』しかないので、史実であるとも史実でないともいえない(「300人vs1,000,000人」という数字に対しては、ペルシア軍は100万人ではなく21万人程度だったというのが通説のようだ。どちらにしろスパルタはかなり無勢だが)。

で、肝心の映画ですが、ご安心ください。かなり面白かったです。
戦いに次ぐ戦い。映像自体は「CG」というワザを駆使していながらも、ストーリー自体はひたすら「力」による戦い、戦い。小細工なし。

それが男らしく、いさぎよく、血なまぐさいのに単純明快、かつ始終シリアスで一点の曇りもなかった。
ストレートに面白い映画だったと思う。

ただし、流血場面や血の海の場面が多いので、それが苦手な人はつらいかも><

CGに関しては、「マトリックス」シリーズ以来の革命、といわれているそうですが、残念ながら僕はその辺詳しくなかったのでわからず><
どこが工夫されているのかを調べてからまた見ると面白いかも。映像自体は素晴らしくよかったです。


戦争関連の映画についての次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
トロイ


CGによる映像が素晴らしい映画:
ライラの冒険

同関連記事:
トランスフォーマー

同関連記事:
ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団


※トップ画像はイメージです。

参考
公式サイト
ウィキペディア(ペルシア戦争)
ウィキペディア(テルモピュライの戦い)


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※こちらの記事は、令和3年8月3日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第18回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名をのせています。


【『青天を衝け』の楽しみ方】
・第1回―渋沢家について・第2回―身分秩序について
・第3回―平岡家について・第4回―阿部家について
・第5回―藤田家について・第6回―美賀君の血筋
・第7回―井伊家について・第8回―岩瀬忠震の出自
・第9回―安政頃の西郷吉之助・第10回―安藤信正について
・第11回―高崎城について・第12回―一橋徳川家について
・第13回―越前松平家について・第14回―島津家について
・第15回―三島家について・第16回―池田屋事件について
・第17回―武田耕雲斎について



まずはあらすじ。



第18回のあらすじ


元治(げんじ)元年(1864年)、京(きょう)へ向かい北陸道(ほくりくどう)を進軍していた武田耕雲斎(津田寛治)、藤田小四郎信(藤原季節)ら天狗党(てんぐとう)貧窮にあえいでいた。

渋沢篤太夫美雄(吉沢亮)は、従兄の成一郎英明(高良健吾)とともに集めた兵を率いて越前・敦賀(えちぜん・つるが)に向かった。
天狗党を討伐するためであった。

成一郎は、篤太夫に先んじて耕雲斎らに会い、一橋権中納言慶喜(草彅剛)からの密書(みっしょ)を手渡す。

主君に等しい慶喜の心情を慮った耕雲斎は、幕府軍に降伏することとした。

天狗党征討総督(せいとうそうとく)・田沼玄蕃頭意尊(田中美央)と会見した慶喜は、水戸(みと)藩の関係者である縁で耕雲斎らの身柄を引き受けたいと申し出るが、玄蕃頭は「公平な処置をする」と拒否。

耕雲斎ら天狗党の志士は捕らえられて衛生環境が劣悪なニシン倉に押し込められ、352人が斬首された。

篤太夫はこの一件を踏まえ、一橋(ひとつばし)家に独自の兵力が必要だと考え、それを慶喜に申し出た。

申し出は許可され、篤太夫は備中(びっちゅう)の一橋領に向かった。

地元の百姓らと生活を共にし、信頼を得た篤太夫は苦労しながらも募兵(ぼへい)に成功するのであった。

明けて慶応(けいおう)元年(1865年)、幕府(ばくふ)では二度目の長州征討(ちょうしゅうせいとう)が決定し、将軍家・徳川右大臣家茂(磯村勇斗)は大坂(おおさか)城へと出発した。

ということで、




第18回「一橋の懐」の感想


武田耕雲斎や藤田小四郎の末路はほんとに辛かったですね。

特に武田耕雲斎は、積極的に天狗党に参加したわけではなく、藤田小四郎に同情して天狗党に参加していることで無念も一入(ひとしお)でした。

武田耕雲について知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
『青天を衝け』第17回―武田耕雲斎について

twitterでの感想を見てみると、田沼玄蕃頭の天狗党への仕打ちはあんまりだという声がちらほらありますね。

しかしですね。
天狗党が実際にどんなことを仕出かしたかを考えると、田沼のやり口は強(あなが)ち鬼の所業というわけでもないんですよね。

ニシン倉に入れられたり処刑されたりしたのは、実際に「仕出かした」人たちではなかったかもしれないのですが、よその人間から見たら同じ「天狗党」です。

まぁ、詳しくは後述します。

そして、篤太夫の備中でのサクセスストーリーは気分がよかったですね。

やはり、主人公が強かったり知恵があったりして出世の階段を上っていく話が楽しいですね。

くよくよ悩んで、しまいには家が滅亡してしまう話はちっとも面白くありませんw
※あくまで筆者個人の感想ですw



それと、備中の代官が取ったような態度って、実は結構現実でもありますね。

一橋家を会社に例えて話をします。

村を支店、篤太夫のいる一橋家の本体を会社の本部とします。

本部の人とかコンサル会社の人とかが急に支店に来て、改革をしようとするんですね。
※大河では改革ではなく募兵でしたが。

自分が元々その支店にいる人間の立場だとすると、よその人間が来ていろいろ引っかき回されるのは嫌ですよね。

厄介で面倒ですよね。


「コンサル」の登場する記事:
石山合戦から学ぶ―「理念」のもつパワー

同関連記事:
耳川の合戦ー諍臣を愛せ


ちなみに、大抵の本部の人やコンサル会社の人は的外れなことをやるのですが、たまに篤太夫のようにすごい人がいますね。

そういう人は、大抵はまずは何も言わずに黙々と且つ笑顔で作業をして、社内の人間とラポールを築くことから始めている気がします。

内部に溶け込んで初めて指示、ではなくアイディアという形で改革を進めます。

「まずは溶け込む」って辺りは、まるで篤太夫がやったようなやり方ですねw




第18回の楽しみ方―天狗党の乱について―


あまりに悲惨なためか、ドラマでは天狗党の乱についてはあまり詳しく描かれていなかったので、捕捉をしたいと思います。

天狗党の大元は文政(ぶんせい)12年(1829年)にさかのぼります。

第9代水戸藩主・徳川権中納言斉昭〔烈公〕の藩主就任に尽力した藤田東湖、会沢正志斎らが、烈公(れっこう)反対派の人々から「偉ぶっている」と評されたことから「天狗党」の名がついたと言われています。
※天狗倶楽部(てんぶくらぶ)とは関係ないのであしからず。いや、そんなのわかってますよねw


関連記事:
『青天を衝け』第5回―藤田家について

「天狗倶楽部」への言及のある記事:
『いだてん』第6回―問題なく面白いと思う


「天狗党」は穏健派や過激派、地域ごとの派閥などに分かれたため一枚岩ではなかったようです。

そんな中、会沢らの穏健派に反発した過激派の一部が脱藩し、安政7年(1860年)に起こした事件が「桜田門外(さくらだもんがい)の変」でした。
※天狗党の過激派は坂下門外(さかしたもんがい)の変にも関わっていたようです。


桜田門外の変の頃の記事:
『青天を衝け』第9回―安政頃の西郷吉之助

坂下門外の変の頃の記事:
『青天を衝け』第10回―安藤信正について


その後、武田耕雲斎や藤田小四郎らが天狗党の中心人物となっていきますが、文久(ぶんきゅう)3年(1863年)の八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)等によって、天狗党の主張のよりどころであった攘夷(じょうい)勢力は後退していきます。

そういった不利な時勢の中、小四郎は各地で味方を募り資金集めをしました。
耕雲斎は決起・挙兵することには反対だったようです。

小四郎は元治元年(1864年)3月、筑波山(つくばさん)にてついに挙兵。
横浜港(よこはまこう)の鎖港(さこう)実施を幕府に迫りました。

天狗党の軍勢は一気に膨れ上がり、700人もの人数が集まりました。

人数が集まれば集まるほど軍勢は力を増しますが、あまりに急速に増えたことで問題が起こりました。

食糧や軍資金の不足です。

これを解決するために天狗党が取った手段が最悪でした。

道中の村や町の商人や豪農を恫喝して金品を強奪し、時には放火・殺害なども行ったのです。

中でも田中愿蔵の部隊が最もひどい所業を行いました。

愿蔵は栃木宿(とちぎのしゅく)で、通りがかった町人を殺害。

周辺の家に押し入って金品を強奪、放火し、火を消そうとした町人を殺害。

この火事で237戸が焼失したと言います。

そんな中、水戸藩内での反天狗党ともいえる諸生党(しょせいとう)が勢力を伸ばし、水戸で天狗党に参加した者の家に放火し家族を殺害しました。

それを聞き、水戸に戻った天狗党は諸生党と交戦しますが敗退。

これを機に、各地で天狗党にひどい目に遭わされた庶民が武装・団結して天狗党に襲いかかりました。

諸生党は武田耕雲斎を失脚させ、藩政の実権を握り、藩主・徳川慶篤(一橋権中納言の兄)の意思を無視する動きをし始めました。

慶篤は、藩主家の支流の松平大炊頭頼徳と耕雲斎を水戸に向かわせ、乱の鎮静化を図ります。

しかし、諸生党は大炊頭らの入城を拒絶。
戦闘状態に入ります。

大炊頭らが諸生党と戦う様子を見た天狗党は、大炊頭らに加勢します。

そんな中、田沼玄蕃頭率いる幕府軍が笠間(かさま)に到着し、なんと諸生党方として参戦。

幕府・諸生党連合軍 vs 松平大炊頭・武田耕雲斎・天狗党連合軍

という不思議な構図となります。

松平大炊頭や武田耕雲斎は、望まずして幕府に弓を引く形となったのです。
※のち、大炊頭は幕府に弓を引いた罪で切腹させられています。また、この戦いで田中愿蔵は討ち死にしています。

この戦いで耕雲斎や天狗党は大敗し散り散りになりますが、なんとか再結集したタイミングで武田耕雲斎は天狗党の首領となりました。

耕雲斎は乱の鎮静化を図ったはずが、成り行きで幕府と対立し、天狗党の首領となってしまったのです。

その後の、北陸道を通り京を目指した耕雲斎と藤田小四郎率いる天狗党の末路は、ドラマで描かれた通りです。

また、田沼玄蕃頭が天狗党に対して斬首やニシン倉への監禁という残酷な刑罰を執行した背景には、乱当初に天狗党が行った略奪・殺人・放火などがありました。

まさに玄蕃にしてみれば「公平」な裁きを行ったということになるようです。

天狗党も諸生党も、ちょっとしたことで感情的になり過激な行動に出ることが仇(あだ)となり、長い日本の歴史の中でも指折りの惨劇を招くこととなってしまいました。

松平大炊頭も、武田耕雲斎も、あまりに理不尽な最期を遂げました。

失敗を恐れず行動することはとても重要ですが、その動機が怒りなどの負の衝動ではいけません。

必ず一呼吸措き、冷静で冷淡な自分の声を聴き、人を傷つけない方法で事を為したいものです。

こんな感じで、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

最後まで読んでいただきありがとうございました!


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『青天を衝け』第19回―小栗家について


以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・武田〔跡部〕 伊賀守〔通称は彦九郎〕 源 朝臣 正生〔号耕雲斎〕
たけだ〔あとべ〕 いがのかみ〔通称はひこくろう〕 みなもと の あそん まさなり?〔号こううんさい〕
・藤田 小四郎 小野 信
ふじた こしろう おの の まこと
・渋沢 篤太夫〔栄一、栄二郎、栄一郎〕 源 美雄
しぶさわ とくだゆう〔えいいち、えいじろう、えいいちろう〕 みなもと の よしお
・渋沢 成一郎〔喜作〕 源 英明
しぶさわ せいいちろう〔きさく〕 みなもと の ひであき
・(一橋)徳川〔松平〕 権中納言〔幼名は七郎麻呂〕 源 朝臣 慶喜〔昭到〕
(ひとつばし)とくがわ〔まつだいら〕 ごんのちゅうなごん〔幼名はしちろうまろ〕 みなもと の あそん よしのぶ〔あきむね〕
・田沼 玄蕃頭〔幼名は金弥〕 藤原〔源〕 朝臣 意尊
たぬま げんばのかみ〔幼名はきんや〕 ふじわら〔みなもと〕 の あそん おきたか
・征夷大将軍〔将軍家〕 徳川 右大臣〔通称不明〕 源 朝臣 家茂〔慶福〕
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 とくがわ うだいじん〔通称不明〕 みなもと の あそん いえもち〔よしとみ〕
・(水戸)徳川〔松平〕 権中納言〔通称は敬三郎〕 源 朝臣 斉昭〔紀教〕
(みと)とくがわ〔まつだいら〕 ごんのちゅうなごん〔通称はけいさぶろう〕 みなもと の あそん なりあき〔としのり〕
・藤田 虎之助〔虎之介、武次郎、誠之進〕 小野? 彪〔号東湖、梅庵〕
ふじた とらのすけ〔とらのすけ、たけじろう、せいのしん?〕 おの? の たけき〔号とうこ、ばいあん〕
・会沢 恒蔵 藤原? 安〔号正志斎〕
あいざわ こうぞう ふじわら? の やすし〔号せいしさい〕
・田中 愿蔵 (氏不明) (諱不明)
たなか げんぞう (氏不明) (諱不明)
・徳川 (官職・通称不明。幼名は鶴千代麿) 源 慶篤
とくがわ (官職・通称不明。幼名はつるちよまろ) みなもと の よしあつ
・松平 大炊頭(〔幼名は豊太郎〕 源 朝臣 頼徳
まつだいら おおいのかみ〔幼名はとよたろう〕 みなもと の あそん よりのり
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
ゆーくんはどこ?
ぴえーるのテレビブログ
晴れたり、曇ったり。


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