歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※こちらの記事は、令和3年4月1日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は令和2年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』第44回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【『麒麟がくる』の楽しみ方】
・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美濃の情勢/織田家の状況
・第5~6回―当時の京都の情勢・第7~8回―尾張国内の政治情勢/当時の三河情勢
・第9~10回―土岐一族とは/織田家の血縁関係・第11~12回―なぜ朽木谷か?/信長家臣団の萌芽
・第13~14回―戦国最強の傭兵団/村木砦の戦い・第15~16回―織田一族の関係性/新九郎高政の重臣たち
・第17~18回―斎藤家の血族関係/永禄元年までの織田家・第19~20回―足利将軍家の動き/桶狭間の戦い
・第21回―松平蔵人の親族
・『麒麟がくるまでお待ちください』第2~3回―斎藤道三二代説/前田利家の生涯
・『麒麟がくるまでお待ちください』第4回―羽柴藤吉郎の名称
・総集編第1回・第22回―三好氏の血縁関係
・第23回―三好氏の血縁関係(2)・第24回―剣豪の系譜
・第25回―朝倉氏の系譜・第26回―摂関家の系譜
・第27回―会合衆とは何者か?・第28回―摂津晴門とは何者?
・第29回―押領と何か・第30回―三淵氏の来歴
・第31回―浅井家の来歴・第32回―森可成とは?
・第33回―延暦寺の歴史・第34回―松永弾正の出自
・第35回―細川藤孝について・第36回―足利家について(1)
・第37回―足利家について(2)・第38回―斎藤内蔵助について
・第39回―原田備中守について・第40回―松永弾正の茶器
・第41回―赤井悪右衛門について・第42回―荒木摂津守について
・第43回―波多野家について


まずはあらすじ。


第44回のあらすじ


天正(てんしょう)10年(1582年)5月、徳川右近衛権少将家康(風間俊介)の饗応役(きょうおうやく)を解かれた明智日向守(十兵衛)光秀(長谷川博己)は安土(あづち)城にて、織田前右大臣信長(染谷将太)から、饗応時に叱った理由を聞かされていた。

信長は、家康の反応を見たかったのだという。

また信長は、四国(しこく)長宗我部(ちょうそかべ)を攻めるという。
羽柴筑前守秀吉(佐々木蔵之介)が言うには、中国(ちゅうごく)攻めに当たって長宗我部の動きが危なく、中国攻めに集中できないというのが理由であった。

長宗我部家は十兵衛が窓口となり、融和政策を進めていた相手である。
また、十兵衛の家臣・斎藤内蔵助利三(須賀貴匡)の異父妹(いふまい)の嫁ぎ先でもある。

さらに信長は、十兵衛に将軍家・足利権大納言義昭(滝藤賢一)を殺せという。

6月、十兵衛は、わずかな手勢で京に入った信長の居所・本能寺(ほんのうじ)を目指して行動を開始した。
世にいう「本能寺の変」の勃発である。

ということで、




第44回「本能寺の変」の感想


素晴らしかったです!

十兵衛が信長を討つ理由がしっかりと丁寧に描かれていました。

中国攻めを進める秀吉が、瀬戸内海(せとないかい)の対岸にいる長宗我部の動きが危なくて中国攻めに集中できないと言っているという形で本能寺の変の「四国説」に触れているのもよかったですね。

「四国説」について詳しく知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
『麒麟がくる』第38回―斎藤内蔵助について

また、本能寺の変後の動きにきちんとつながるように細川兵部大輔藤孝(眞島秀和)と秀吉の接近を描いているのもよかったです。

関連記事:
『麒麟がくる』第35回―細川藤孝について

この後、秀吉は「中国大返し」という驚異的な帰還劇を行いますが、その布石として、本能寺の変勃発前に藤孝からの知らせで謀反(むほん)の可能性を知っていた、という解釈は面白かったです。
※黒田官兵衛役の濱田岳さん、セリフは二つでしたが素晴らしかったです。『軍師官兵衛』の時の栗山善助が懐かしかったです。

関連記事:
山崎の戦いに学ぶ―大事なことをひとつ決める

そして、本能寺の変。

本能寺を囲み、馬に乗り本能寺をじっと見つめる十兵衛。

他のブログさんはあまり言及していなかったのですが、ここ、藤孝と最初に出会って剣を構えて向かい合ったところですよね。

関連記事:
『麒麟がくる』第5~6回―当時の京都の情勢

十兵衛の謀反を知った時の信長の表情や「是非もなし」のセリフも感動的でしたが、この門前の景色が感慨深くて、今までのドラマでのいろいろな情景が思い浮かびました。

ラストに関しては、「光秀生存説」には異論がありますが、バッドエンドにしないための妙案だったのではないかと思います。

なんだか素敵な後味でした。

素晴らしかったです。

出演陣も脚本家の方も、スタッフさん皆に感謝しています。

そして、一緒に視聴してくださったブロガーの方々やtwitterのフォロワーさん達にも感謝です!

共有できる人がいると楽しさも増しますね。

関連記事:
本能寺の変に学ぶ―覚悟を決める



第44回の楽しみ方―南光坊天海について―


さて、今回は明智日向守(十兵衛)光秀が生き残っていたことをほのめかすラストシーンで話題になった「光秀生存説」ですが、その最有力説「光秀天海説」に登場する南光坊(なんこうぼう)天海について書きたいと思います。

南光坊天海とはだれか?

彼は天文(てんぶん)5年(1536年)頃の生まれで、桓武平氏鎌倉氏族三浦家(かんむへいし・かまくらしぞく・みうらけ)の分流・蘆名(あしな)家の出だと言われています。


三浦家関連の記事:
新井城の戦いから学ぶ―慎重に準備し、且つ大胆に行動すべし

同関連記事:
鶴岡八幡宮を味わう(3)―源平池とゆかりの人物

同関連記事:
鶴岡八幡宮を味わう(1)―太鼓橋と舞殿

同関連記事:
各合戦の動員人数について(3)新井城の戦い

同関連記事:
三浦


前半生はよくわかっていないのですが、「随風」と名乗り、下野国粉河寺(しもつけのくに・こかわでら)で修業したのちに比叡山延暦寺(ひえいざん・えんりゃくじ)や園城寺(おんじょうじ)、興福寺(こうふくじ)などで学び、織田右府による比叡山焼き討ちに遭ったと言います。


関連記事:
『麒麟がくる』第33回―延暦寺の歴史

関連記事:
叡山焼き討ち―問題が山積みのときの対処法


このことで武田信玄に呼ばれて甲斐(かい)に向かい、蘆名修理大夫盛氏の招きで陸奥(むつ)・黒川(くろかわ)城に移住しました。

天正16年(1588年)には武蔵国無量寿寺北院(むさしのくに・むりょうじゅじ・きたいん)〔現在の喜多院(きたいん)〕に入り、「天海」を名乗ります。

天正18年(1590年)の関白羽柴太政大臣秀吉による小田原(おだわら)攻めの際にはすでに徳川前左近衛大将家康(以下「左大将」)の陣幕(じんまく)にいたため、既にこの時には左大将のアドヴァイザー的位置にいたものと思われます。

慶長(けいちょう)4年(1599年)には喜多院の住職となり、左大将こと内府家康の参謀として活躍を始め、慶長18年(1613年)には大坂(おおさか)の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件(ほうこうじ・しょうめい・じけん)にもかかわったとされています。


関連記事:
『真田丸』第49回―伊達政宗の天下取り

関連記事:
『真田丸』第46回―良い家康、悪い家康

関連記事:
『真田丸』第43回―木村重成に注目すべし!


元和(げんな)2年(1616年)には大御所家康に「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の諡号(しごう)を贈り、久能山(くのうざん)から日光山(にっこうさん)に改葬し、寛永(かんえい)元年(1624年)には上野(うえの)・寛永寺(かんえいじ)を創建します。

その後は寛永20年(1643年)まで生きたとされます。

彼の「正体は明智光秀説」は通説としては否定されていますが、面白いのは「蘆名家の娘婿の子」説ですね。

母系(ぼけい)は上記のように蘆名家なのですが、父親は船木兵部少輔景光なる人物だという説です。

この船木(ふなき)氏は土岐(とき)氏の一族であるという話があり、明智日向守の娘婿(ドラマでは従弟として描かれました)左馬助秀満が船木左馬助と名乗っていたという話もあります。

このことから、天海は光秀ではなく秀満なのではないかという説も存在します。

歴史って面白いですね!

こんな感じで、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

最後まで読んでいただきありがとうございました!


大河ドラマについての次の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『青天を衝け』第1回―渋沢家について


以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・前征夷大将軍〔大御所〕 徳川 太政大臣〔右近衛権少将、左近衛大将、内大臣。通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
さきのせいいたいしょうぐん〔おおごしょ〕 とくがわ だじょうだいじん〔うこんえごんのしょうしょう、さこんえのだいしょう、ないだいじん。通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・明智〔惟任〕 日向守〔通称は十兵衛〕 源〔大神〕 朝臣 光秀
あけち〔これとう〕 ひゅうがのかみ〔通称はじゅうべえ〕 みなもと〔おおが〕 の あそん みつひで
・織田 前右大臣兼前右近衛大将〔通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ さきのうだいじんけんさきのうこんえのだいしょう〔通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・関白 羽柴〔木下〕 太政大臣〔筑前守。通称は藤吉郎〕 豊臣〔平〕 朝臣 秀吉
かんぱく はしば〔きのした〕 だじょうだいじん〔ちくぜんのかみ。通称はとうきちろう〕 とよとみ〔たいら〕 の あそん ひでよし
・斎藤 内蔵助 藤原 朝臣 利三
さいとう くらのすけ ふじわら の あそん としみつ
・征夷大将軍〔将軍家〕 足利 権大納言〔通称不明〕 源 朝臣 義昭〔義秋、一乗院覚慶〕
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 あしかが ごんのだいなごん〔通称不明〕 みなもと の あそん よしあき〔よしあき、いちじょういんかくけい〕
・細川 兵部大輔〔通称は与一郎〕 源 朝臣 藤孝〔幽斎玄旨〕
ほそかわ ひょうぶのたゆう〔通称はよいちろう〕 みなもと の あそん ふじたか〔ゆうさいげんし〕
・黒田 官兵衛 源 孝高〔祐隆、好高、孝隆〕
くろだ かんべえ みなもと の よしたか〔すけたか、よしたか、よしたか〕
・栗山 備後守〔通称は善助、四郎右衛門〕 源 朝臣 利安
くりやま びんごのかみ〔通称はぜんすけ、しろううえもん〕 みなもと の あそん としやす
・蘆名 (通称・官職不明) 平 (諱不明)〔法号随風、天海〕
あしな (通称・官職不明) たいら の (諱不明)〔法号ずいふう、てんかい〕
・武田 大膳大夫〔通称は太郎〕 源 朝臣 晴信〔入道信玄〕
たけだ だいぜんのだいぶ〔通称はたろう〕 みなもと の あそん はるのぶ〔入道しんげん〕
・蘆名 修理大夫〔通称は平四郎〕 平 朝臣 盛氏
あしな しゅりのだいぶ〔通称はへいしろう〕 たいら の あそん もりうじ
・船木 兵部少輔〔通称不明〕 源 朝臣 景光
ふなき ひょうぶのしょう〔通称不明〕 みなもと の あそん かげみつ
・明智〔三宅〕 左馬助〔通称は弥平次〕 源 朝臣 秀満
あけち〔みやけ〕 さまのすけ〔通称はやへいじ〕 みなもと の あそん ひでみつ
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
吉野紅伽の美女研究所
ぴえーるのテレビブログ
暮らしと勉強 Bettyのブログ


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Alek AuddyによるPixabayからの画像
※こちらの記事は、令和元年9月11日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は新シリーズ「ビジネスに活かす戦国合戦術」第2弾として「耳川(みみかわ)の合戦」について書きます。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


【これまでの記事】
・第1回 今山の合戦



『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の小石房子氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

ということで、




どういう合戦かというと、天正(てんしょう)6年(1578年)に日向(ひゅうが)の高(たか)城〔現在の宮崎県児湯郡木城町(みやざきけん・こゆぐん・きじょうちょう)〕から耳川〔同日向市〕にかけて大友義鎮と島津義久の間に行われた合戦です。


島津家についてもっと知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
沖田畷の合戦―「確実な勝利」を疑うべし

同関連記事:
『青天を衝け』第14回―島津家について


合戦前夜の事情としては、戦国(せんごく)時代に南日向を支配した伊東義祐は島津(しまづ)氏の猛攻に次第に圧迫され、天正5年(1577年)に大敗して豊後(ぶんご)に敗走します。

大友義鎮は伊東(いとう)氏と縁戚(えんせき)関係にあったこともあり、義祐の要請を受け、日向へ出陣します。
北日向の土持(つちもち)氏(※)を降した義鎮は軍をそのまま南下させ、島津家の拠点高城攻略を目指します。
※『西郷どん』に登場した土持政照と同族と思われます。


大友家関連の記事:
『青天を衝け』第26回―高松凌雲について

同関連記事:
戸次川の戦いに学ぶ―逸って決断してはいけない

土持家関連の記事:
『西郷どん』第21~25回―戦慄の寺田屋


ここからが今回のテーマ「耳川の合戦」です。

義鎮は田原親賢〔紹忍〕に2万の兵を預けて高城攻めを命じます。
一方の高城の島津勢は山田有信と島津家久の兵3,000。

そのうちに大友勢に援軍が到着して総勢6万(5万という説もあり)。
島津勢にも援軍として当主義久やのちの惟新入道島津義弘も到着して義久は根白坂(ねじろざか)に陣取り、義弘は近くの財部(たからべ)城に入り、総勢5万。

戦場には11万の兵がおり、大合戦が予想されるも、義弘は小勢を大友方の佐伯惟教〔宗天〕と田原親賢の間に配置し、佐伯惟教に奇襲をかけます。
義弘の本隊もこの奇襲に加わり大友方は大敗します。

これにより退却へ決しかけた大友方ですが、一人田北鎮周のみ抗戦を主張し、勝手に出陣してしまいます。
佐伯惟教は退却派でしたが、状況的に戦うしかなくなり、鎮周と惟教の部隊は島津家の「釣り野伏(つりのぶせ)」にやられて壊滅。

残兵は北を目指し敗走しますが、島津家は大友家の勢力圏との境である耳川まで追撃を続け、大友家は多くの犠牲を出しながら耳川を渡りました。

合戦の流れとしてはこんな感じですが、今回は「勝因」というよりも、大友勢が勝手に負けた感じですね。

強いて勝因を挙げれば
・碁石を並べるように部隊を配置していった俯瞰(ふかん)
・冷静に状況を見て「奇襲」や「釣り野伏」などの作戦を選択した判断力

とかになりますが、今回は大友勢の敗因にフォーカスしましょう。


碁石戦略関連記事:
第二次高天神城の合戦-勝者の戦法を徹底的にトレースせよ

関連記事:
二俣城の合戦―「見る」のではなく「観る」


大友家の敗因は
・総大将である大友義鎮不在による士気の低さ、判断力の弱さ

ですね。

結局のところ、義鎮が戦場にいなかったことで大友勢は士気が奮わず、なおかつ緒戦で負けたときにも「殿にご意向をうかがう」という理由で退却に決定したのですが、田北鎮周はそれに納得できなかったんですね。
義鎮がいたら違ったと思います。

で、肝心の義鎮は何をやっていたかというと、土持氏から奪い取った日向無鹿(むしか)にて神社仏閣を焼き払い、キリスト教の理想郷を作ろうとしていたんです。

実はこの行動も家臣たちの反発を買っておりまして、それも士気低下の要因だったりもします。

だから、この大友義鎮の行動をビジネスになぞらえると、
・社長の理想と社員の気持ちの乖離(かいり)による士気の低下
ですかね。

これ、日常的に結構起こってますよね。
社長は仕事の前線を知らないので本で読んだりコンサルタントの無責任な助言をもとに机上の空論を標榜するわけですね。
社長の一言ですから、社員は「それは空論です」という反論ができない。したとしても社長に強引に押されたら誰も逆らえません。

そして、社長も一応それが何で必要なのか説明するのですが、あまりに前線の現実と乖離しすぎていて社員は誰も聞いちゃいない。
理解する気もない。

で、社員が無理解であるのに社長は強引に空論を推し進めるのですが、社員はやる気がないのですから当然いい結果は出ない。
こうやって社長のワンマン経営の中小企業は敗戦を重ねていくわけですね笑

だから教訓としては、今回は社長目線ですが、
・思いついた経営戦略が実情に合っているのか、現実的なのかをきちんと検証する。
・自分の戦略に率直な意見を述べられるようなブレーンを作る

ということになりますかね。
人は皆他人に反対意見を言われるのが嫌いですから、口うるさいブレーンを置くのを嫌がります。

しかし、それが衰退の始まりです。
人としてもね。

今回は以上です!


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
沖田畷の合戦―「確実な勝利」を疑うべし


※画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・大友 左衛門督〔通称は新太郎〕 藤原〔源〕 朝臣 義鎮〔宗麟〕
おおとも さえもんのかみ〔通称はしんたろう〕 ふじわら〔みなもと〕 の あそん よししげ〔そうりん〕
・島津 修理大夫〔通称は三郎左衛門尉〕 惟宗〔源〕 朝臣 義久〔龍伯〕
しまづ しゅりのだいぶ〔通称はさぶろうざえもんのじょう〕 これむね〔みなもと〕 の あそん よしひさ〔りゅうはく〕
・伊東 大膳大夫〔通称は六郎五郎〕 藤原 朝臣 義祐
いとう だいぜんのだいぶ〔通称はろくろうごろう〕 ふじわら の あそん よしすけ
・田原 近江守〔通称不明〕 藤原〔源〕 朝臣 親賢〔紹忍〕
たわら おうみのかみ〔通称不明〕 ふじわら〔みなもと〕 の あそん ちかかた〔じょうにん〕
・山田 越前守〔通称は新介・新助〕 平 朝臣 有信
やまだ えちぜんのかみ〔通称はしんすけ・しんすけ〕 たいら の あそん ありのぶ
・島津 中務大輔〔通称は又七郎〕 惟宗〔源〕 朝臣 家久
しまづ なかつかさのたゆう〔通称はまたしちろう〕 これむね〔みなもと〕 の あそん いえひさ
・島津 兵庫頭〔通称は又四郎〕 惟宗〔源〕 朝臣 義弘〔惟新〕
しまづ ひょうごのかみ〔通称はまたしろう〕 これむね〔みなもと〕 の あそん よしひろ〔いしん〕
・佐伯 紀伊守〔通称は太郎〕 大神 朝臣 惟教〔宗天〕
さえき きいのかみ〔通称はたろう〕 おおが の あそん これのり〔そうてん〕
・田北 相模守〔通称は弥十郎〕 藤原〔源〕 朝臣 鎮周
たきた さがみのかみ〔通称はやじゅうろう〕 ふじわら〔みなもと〕 の あそん しげかね
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参考
お城散歩
しばやんの日々
まーりたんの暮らし探訪記


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※こちらの記事は、平成20年1月4日に書かれたものです。

さて、最近では一ヶ月に一遍、ゲーム上でも一ヶ月進めるのが精一杯な『信長(のぶなが)の野望 嵐世記(らんせいき)』ですが、ついに(12)まで行きましたね。


【これまでの記事】
・第1回・第2回
・第3回―九州の統一・第4回―四国制圧と長宗我部
・第5回―毛利撃破・第6回―本願寺との激戦
・第7回―足利将軍家の滅亡と本願寺・第8回―畿内制圧完了!
・第9回―東海制圧!・第10回―武田信玄を打ち倒す
・第11回―結城家との対決と北上する防衛線





1556年開始のシナリオ2で始め、大名(だいみょう)は豊後(ぶんご)大友義鎮(おおとも よししげ)
九州(きゅうしゅう)から攻め上がり、防衛線は常陸(ひたち)、下野(しもつけ)、上野(こうづけ)、南越後(みなみ・えちご)の一部へと広がり、次に相対するのは南越後の一部、北越後、羽前(うぜん)等を支配する蘆名盛氏(あしな もりうじ)です。


大友家について知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
耳川の合戦ー諍臣を愛せ

同関連記事:
今山の合戦―意識を向ければ情報が入る

同関連記事:
戸次川の戦いに学ぶ―逸って決断してはいけない


1560年4月
蘆名盛氏領 岩代(いわしろ)攻め
黒川(くろかわ)城陥落
須賀川(すかがわ)城陥落
二本松(にほんまつ)城陥落
安田景元(やすだ かげもと) 登用

※下総(しもうさ)の結城柚(ゆうき ゆず)(コンピューターが自動作成した架空の姫武将)・武蔵(むさし)の北条氏康(ほうじょう うじやす)が武田信玄(たけだ しんげん)領武蔵岩付(いわつき)城を攻める→結城家により岩付城陥落、武田家滅亡
※南越後の本願寺教如(ほんがんじ きょうにょ)が蘆名盛氏領南越後春日山(かすがやま)城を攻める→陥落

一ヶ月しか進めてないので分量が全然ないのですが、こんな感じです。
残るは東北(とうほく)・蝦夷(えぞ)を統一するのみとなり、東北に跋扈(ばっこ)する大名は羽前、陸奥(むつ)、蝦夷の蘆名盛氏、羽後(うご)、陸中(りくちゅう)の南部晴政(なんぶ はるまさ)のみ。
次回は羽前山形(やまがた)城かどこかを支配する従属大名伊達晴宗(だて はるむね)だか誰だかと連携して再び蘆名盛氏を攻める予定。
お楽しみに。


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
信長の野望/嵐世記(13)最終回


参考
ねぶかどねざる


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※こちらの記事は、令和元年8月22日に書かれたものです。
《令和6年9月22日更新》

皆さんこんばんは。
今回は司馬遼太郎(しば りょうたろう)『関ヶ原(せきがはら)』下のブックレビューです。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


【司馬遼太郎『関ヶ原』についてのこれまでの記事】
・『関ヶ原』上・『関ヶ原』中―徳川家康の策略と歴史の真実



というわけで、





『上』のレビューの時も『中』のレビューの時もまともに本の感想を述べていないのですが、今回こそは何とかブックレビューらしい内容に仕上げようと思います笑

まず、司馬遼太郎氏の作品を貫く姿勢というか、彼の作風なんでしょうが、歴史にはつきものの「イデオロギー」を超えて面白いというのがありますね。


司馬遼太郎関連の他の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
大河ドラマを楽しむ方法(12)(『麒麟がくるまでお待ちください』第2~3回)

司馬遼太郎に言及した記事:
『真田丸』第16~17回―秀吉の笑顔に潜む狂気

同関連記事:
津本陽『椿と花水木』―幕末の勇者・ジョン万次郎の波乱万丈の人生


僕は『中』の感想の時もさんざん述べているのですが、大の徳川家康びいきで、徳川家康が策謀家とか腹黒いといわれると悲しい気持ちになるのですが、さんざん腹黒そうな描写をしている本作品は読んでいてそんなに嫌な気持ちにならないんですね。

というのも、司馬遼太郎氏はあくまでフィクションを作っていて、ご本人の偏った考え方ももちろん投影されているのですが、歴史小説家の中では史料に忠実な方で、極めて科学寄りの小説を書いているんですね。

ですから、腹黒そうな家康を描写しつつも、それは石田(いしだ)方からの目線であって、「天下から争乱をなくす」という徳川(とくがわ)方からの目線もある程度描写しているところがすばらしいです。
あくまでフラットなんです。
作品自体が石田寄りだから石田方からの目線の描写が多くなっているだけです。


関ヶ原の戦い関連の記事:
関ヶ原の戦いに学ぶ―相手に納得感を与える

同関連記事:
長谷堂城の戦いに学ぶ―算盤勘定をもつ

同関連記事:
安濃津城の戦いに学ぶ―小さな局面での勝敗に捕らわれない


この作品における徳川家康を「腹黒い」と感じるのは読者の主観ですね。
もともと「徳川家康は腹黒い」という先入観があるからそう感じてしまうだけです。

そもそもが、天下を争うレベルの人間に善も悪もないんですよ。
他人がある程度利己的かどうかって見抜けますよね?
あなたそんなにバカではないはずです。

自分の利益が大事だからこそ、「こいつは利己的だな」と思える人間にはついていきません。
いざというときには自分を守ってくれるかもしれない、と思わせられる人間にしか人はついていきません。

それを「人徳」といいます。

だから、徳川家康を悪人みたいに言うのやめましょうよ。
それは、明治政府のプロパガンダの影響下にある評論ですから。
(もちろん、それなりの調査に基づいて彼を悪人だと評価する人がいるのは構いません。でないと議論が成立しませんから。それと、僕は石田三成の功績や能力、秀吉への忠誠心は大評価しています)

加藤虎之助の清正公ですとか、福島市松の正則公が信じた人なんですから、相当の人徳のあった方です。

あとは、これが定説になるまで何度も言い続けますが、関ヶ原の合戦は「徳川家vs豊臣(とよとみ)家」の戦いではありませんから。
あくまで豊臣政権下の「徳川派vs石田派〔毛利(もうり)派〕」の内紛ですから。

でなければ上の加藤清正や福島正則が家康につく意味が分かりません。
関ヶ原の戦いを「徳川家vs豊臣家」の戦いとして解釈するということは、「加藤清正や福島正則が義よりも利に転ぶ不忠者」と評価しているのと一緒ですから。
そんな人が彼らの「義」とか「忠」を礼賛しちゃいけない。
よく考えてください。

というわけで、結局のところ結論としては司馬遼太郎作品はやはり面白いです!笑

今回は以上です!

※画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・徳川 内大臣〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
とくがわ ないだいじん〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・石田 治部少輔〔通称は佐吉〕 下毛野?〔平?〕 朝臣 三成
いしだ じぶのしょう〔通称はさきち〕 しもつけぬ?〔たいら?〕 の あそん みつなり
・羽柴 太政大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀吉
はしば だじょうだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでよし
※豊臣秀吉は「羽柴秀吉」から「豊臣秀吉」に改名したわけではない(参考:Wikipedia
・加藤 肥後守〔通称は虎之助〕 藤原〔豊臣〕 朝臣 清正
かとう ひごのかみ〔通称はとらのすけ〕 ふじわら〔とよとみ〕 の あそん きよまさ
・福島 左衛門大夫〔左衛門尉?通称は市松、市兵衛〕 源〔豊臣〕 朝臣 正則
ふくしま さえもんのだいぶ〔さえもんのじょう?通称はいちまつ、いちべえ〕 みなもと〔とよとみ〕 の あそん まさのり
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
らんどくなんでもかんでも 8
なんとなく、、
酔流亭日乗


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・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

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※こちらの記事は、平成20年10月1日に書かれたものです。

こんにちは。
とうとう「レジャー」のカテゴリーのネタが尽きてしまったので、行った先々の名所や駅などで写真を撮り、その由来を書いていこうかな、と思います。

その第一弾は御茶ノ水(おちゃのみず)駅前にある「聖橋(ひじりばし)」について。


【地名シリーズのこれまでの記事】
・東京の地名・けやき坂



関東の歴史観光スポットについての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
関東の歴史観光スポットについて

関連記事:
御茶ノ水

関連記事:
穴八幡宮




この辺はまさに江戸(えど)城(隅田川(すみだがわ)、中央線(ちゅうおうせん)のお堀、四谷(よつや)、赤坂見附(あかさかみつけ)、溜池山王(ためいけさんのう)の内側が旧江戸城の城郭内)から上野(うえの)方面を向かう辺りで、まさに「お江戸」という感じなので「聖橋」の由来も古いのかと思っていたら、意外に新しかったです。

できたのは昭和初期で、関東大震災(かんとうだいしんさい)の復興事業の一つとして架けられた橋のようです。



名前はなんと当時の東京府(とうきょうふ)による公募で決まったそうです。
最近は市町村名の公募で、歴史を無視したとんでもない名前がつけられることが多いようですが、当時の公募は品性があったんですね(笑

どうして「聖橋」かというと、湯島聖堂(ゆしませいどう)とニコライ堂を結ぶ橋であることから「聖橋」と名づけられたそうです。

調べてみると面白いですね。

今度からこの「レジャー」のカテゴリーは、駅名の由来とかになります。


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
新宿


江戸城の登場する記事:
小田原征伐に学ぶ―相手に口実を与えない

同関連記事:
江古田原沼袋の戦いから学ぶ―できないことをできるようにする方法

同関連記事:
各合戦の動員人数について(5)川越城の合戦


参考
Wikipedia
アクトデザイン 凛太郎のブログ
水色の羽根作戦


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※こちらの記事は、令和元年6月3日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は3年ぶりのブックレビューでして、しかも3年前に読み終わって返してしまった本についてです笑


【これまでのブックレビュー】
・ポアロ



司馬遼太郎氏の『関ヶ原(せきがはら)』の中の感想です。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

上巻についての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
司馬遼太郎『関ヶ原』上

何しろ読んだのは3年前でして、さらに僕は山岡荘八氏の『徳川家康』のファンでありつつも、同時進行で両書を読んだので、多少こんがらがっているところはあります笑

関連記事:
大河ドラマを楽しむ方法(12)(『麒麟がくるまでお待ちください』第2~3回)

関連記事:
これぞ徳川家の柱石・三河武士の死にざまだ!!(山岡荘八『徳川家康』第2巻)

関連記事:
司馬遼太郎『関ヶ原』下




ですが、主人公であるためにめっちゃ家康びいきの荘八氏と、どちらかというと家康を謀略家として描いている司馬遼太郎氏の違いは面白かったですね。

下記ブログさんが石田三成と徳川家康のステレオタイプのイメージはこの『関ヶ原』によってできた、みたいなことを書いていらっしゃいますが、そうだとすればだいぶいいたいことはありますね。

そもそも、関ヶ原の戦いは豊臣(とよとみ)家vs徳川(とくがわ)家の戦いではありませんからね。
豊臣家の石田(いしだ)派〔毛利(もうり)派〕と徳川派の内紛ですからね。

結果的に徳川家は豊臣家に成り代わって天下を取りましたが、この戦いを、学校の教科書ですら豊臣家vs徳川家みたいに描いているのは恣意(しい)的な記述ですし、勉強不足であるといわざるを得ません。

よく考えてみてくださいよ。
徳川方には主力軍が参戦していないんですよ?
主力が嫡子(ちゃくし)秀忠についていて、戦場に到着していないのに家康は戦いを始めさせたんですよ?

それで、結果的に徳川方の主力になったのは福島正則や黒田長政などの豊臣家臣たちです。
彼らは家康贔屓(びいき)であったかもしれませんが、あくまで豊臣家臣(かしん)であり、豊臣秀頼のために参戦しています。

それに、徳川家康が豊臣家を滅ぼすためにこの戦いを仕掛けたのであれば、大坂(おおさか)城を攻めて秀頼を自害させるのに15年もかける意味がわかりません。

関ヶ原に勝った勢いでそのまま大坂になだれ込めば、秀頼は幼少なのだから簡単に落とせたはずです。

そもそも秀吉は織田(おだ)家を乗っ取っています
秀吉の織田信孝の追い詰め方は相当えぐいですよ?

だから、もし家康が豊臣家の天下を掠(かす)め取ったという言い方をするのであれば、秀吉も織田家の天下を掠め取っていることになります。

ということで、司馬遼太郎氏の作品の感想など一切書かず、関ヶ原における徳川家康の評価で終わってしまいました笑

また次回!


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
司馬遼太郎『関ヶ原』下

関連記事:
関ヶ原の戦いに学ぶ―相手に納得感を与える

関連記事:
笠谷和比古『関ヶ原合戦―家康の戦略と幕藩体制―』

関連記事:
『真田丸』、徳川家康が慌てすぎ(第35回)


※画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・徳川 内大臣〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
とくがわ ないだいじん〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・石田 治部少輔〔通称は佐吉〕 下毛野?〔平?〕 朝臣 三成
いしだ じぶのしょう〔通称はさきち〕 しもつけぬ?〔たいら?〕 の あそん みつなり
・徳川 権中納言〔通称は不明〕 源 朝臣 秀忠
とくがわ ごんのちゅうなごん〔通称は不明〕 みなもと の あそん ひでただ
・福島 左衛門大夫〔通称は市兵衛、市松〕 源 朝臣 正則
ふくしま さえもんのだいぶ〔通称はいちべえ、いちまつ〕 みなもと の あそん まさのり
・黒田 甲斐守〔通称は吉兵衛〕 源 朝臣 長政
くろだ かいのかみ〔通称はきちべえ〕 みなもと の あそん ながまさ
・羽柴 権大納言〔通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀頼
はしば ごんのだいなごん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでより
(文献上「羽柴」を名乗った例はないが、名字に該当するものは「羽柴」である)
 
・織田 侍従〔通称は三七郎〕 平〔忌部?、藤原?〕 朝臣 信孝
おだ じじゅう〔通称はさんしちろう〕 たいら〔いんべ?、ふじわら?〕 の あそん のぶたか
・羽柴 太政大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀吉
はしば だじょうだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでよし
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
司馬遼太郎とビジネス書と農業関連本などを読む。
風吹く荒野をのんびりと
Cantabile


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※こちらの記事は、令和元年7月25日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「合戦における戦術について」シリーズの第17弾ということで「四万十川(しまんとがわ)の合戦」について書きます。
『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の作家の小石房子氏の記事を参考にしています。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


【これまでの記事】
・第1弾 勝弦峠の合戦・第2弾 戸石城の合戦
・第3弾 長森原の合戦・第4弾 三分一原の合戦
・第5弾 栃尾城の合戦・第6弾 川中島の合戦
・第7弾 箕輪城の合戦・第8弾 三増峠の合戦
・第9弾 七尾城の合戦・第10弾 御館の乱
・第11弾 郡山城の合戦・第12弾 第一次月山富田城の合戦
・第13弾 厳島の合戦・第14弾 第二次月山富田城の合戦
・第15弾 長浜城の合戦・第16弾 安芸城の合戦



まずはどのような戦だったのかというと




天正(てんしょう)3年(1575年)に土佐中村(とさ・なかむら)にて長宗我部元親と一条兼定の間に行われた戦いです。

そもそも一条(いちじょう)氏は摂関家(せっかんけ)出身の家柄で、長宗我部(ちょうそかべ)家とは深い間柄にありました。
元親の祖父兼序が本山(もとやま)氏などに攻められて敗死した後、元親の父国親を保護して彼が岡豊(おこう)城に復帰するのを助け、その後も長宗我部氏と各氏との争いの仲介をやるなど、長宗我部氏にとっては恩こそあれ、攻める理由がどこにあったのかいまだに疑問です。

いろいろな説がありますが、安芸(あき)氏が岡豊城を攻めた際に安芸氏に協力したことへの報復とか、そもそも一条兼定が暗愚だったため、一条家の領地を他勢力にとられるのを防ぐためとかいろいろ。

安芸氏と長宗我部氏の戦いについての記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
安芸城の合戦―「タイミングの勢法」の威力

しかし、真相はなぞで一般的には「恩を仇で返した」といわれる戦いです。
(元親にとってはそのための逡巡もあったようです)

まずは弟の吉良親貞を一条家臣に接近させ、一条家を離反させた混乱に乗じて一条領に侵入させ、城をいくつか占領させます。

それに動揺した兼定は自暴自棄となり、それを見かねた兼定家臣の土居宗珊は兼定を豊後(ぶんご)大友(おおとも)家に預けます。
元親はそれに乗じて一条領を占領してしまいます。

いったんはこれで収まるものの、兼定は大友義鎮や伊予(いよ)の勢力の支援により栗本(くりもと)城に復帰し、それに対抗した元親と四万十川を挟んで対峙します。
これが「四万十川の合戦」です。

戦そのものの経過としては、数で勝る長宗我部軍が軍を二つに割り一部を上流から渡河(とか)させたところ兼定はそれに対応し自軍も二つに割り、それを見た元親が川を押しわたって一条軍を挟撃(きょうげき)しました。

戦術的に兼定は下策中の下策をやってしまい、お話にならない戦いでした。

ということで、勝因としてはいつもの長宗我部氏のやり方ですが、戦になる前の段取りづくりがめちゃめちゃうまいことですね。
まずは家臣団にヒビを入れて力をそぎ、拠点をいくつか奪った上で戦いに臨んでいます。

北条(ほうじょう)氏・武田(たけだ)氏・上杉(うえすぎ)氏などは(武田氏は内応調略(ないようちょうりゃく)も行いますが)、拠点攻略を行い、戦そのものの展開を読んだうえで敵味方の進路・敵の退路、不利になった場合の味方の退路などを計算する囲碁型の戦いですが、毛利(もうり)家や長宗我部氏は「戦う前に勝つ」というような『孫氏(そんし)』を地で行ったような戦い方がうまいですね。
(羽柴秀吉も戦の前の調略がうまいですが、彼の醍醐味はなんといっても「位攻め(くらいぜめ)」ですね。徳川家康は関ヶ原(せきがはら)や大坂(おおさか)の役でこそ調略を行いますが、基本的に調略は行わない手法です。彼は野戦(やせん)そのもので勝負をつけるのがうまいので「用兵(ようへい)型」といった感じでしょうか。もともと野戦のうまい彼が調略を取り入れたことで、最終的に戦国時代最強となりました。織田信長はまだよく調べていないのでわかりません)


「碁石戦略」の例①:
二俣城の合戦―「見る」のではなく「観る」

「碁石戦略」の例②:
第二次高天神城の合戦-勝者の戦法を徹底的にトレースせよ

「碁石戦略」の例③:
川中島の合戦―場を俯瞰し、目先の動きに没入しない


というわけで、このような戦い方を「毛利・長宗我部型」と名付けることにします笑


毛利元就の戦い①:
第二次月山富田城の合戦―万端過ぎるほどの準備をすべし

毛利元就の戦い②:
厳島の合戦―相手の心理を読み、周到に準備する

羽柴秀吉の戦い:
小牧長久手の戦いに学ぶ―勝ちすぎてはいけない


勝因
・戦の前に敵方の内部に離反者を作る調略力

ですね。

今回は以上です!

※画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・長宗我部 弥三郎〔官職は土佐守など〕 秦 (朝臣) 元親
ちょうそかべ やさぶろう〔官職はとさのかみなど〕 はた の (あそん) もとちか
・一条 権中納言〔通称不明〕 藤原 朝臣 兼定
いちじょう ごんのちゅうなごん〔通称不明〕 ふじわら の あそん かねさだ
・長宗我部 宮内少輔〔通称不明〕 秦  朝臣 兼序
ちょうそかべ くないのしょう〔通称不明〕 はた の あそん かねつぐ
・長宗我部 宮内少輔〔通称不明〕 秦 朝臣 国親
ちょうそかべ くないのしょう〔通称不明〕 はた の あそん くにちか
・吉良 左京進〔通称は弥五良〕 源 朝臣 親貞
きら さきょうのじょう〔通称はやごろう〕 みなもと の あそん ちかさだ
・土居 近江守〔通称不明〕 穂積 朝臣? 家忠〔宗珊〕
どい おうみのかみ〔通称不明〕 ほづみ? の あそん いえただ〔そうざん〕
・大友 左衛門督〔通称は新太郎〕 藤原 朝臣 義鎮〔宗麟〕
おおとも さえもんのかみ〔通称はしんたろう〕 ふじわら の あそん よししげ〔そうりん〕
・羽柴 太政大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣 朝臣 秀吉
はしば だじょうだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ の あそん ひでよし
・徳川 内大臣〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
とくがわ ないだいじん〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・織田 右大臣〔右近衛大将。通称は三郎〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ うだいじん〔うこんえのだいしょう。通称はさぶろう〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
鳳山雑記帳
兵どもが、夢のあと・・・


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※こちらの記事は、令和2年12月18日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第36弾として、「山崎(やまざき)の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。




【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】
第1回 今山の合戦第5回 長良川の合戦
第6回 桶狭間の合戦第8回 金ヶ崎城の合戦
第10回 二俣城の合戦第11回 一言坂の合戦
第12回 三方ヶ原の合戦第13回 野田城の合戦
第14回 叡山焼き討ち第18回 長篠の合戦
第22回 江古田原沼袋の戦い第24回 権現山の戦い
第26回 石山合戦第29回 第一次国府台の戦い
第30回 上月城の戦い第31回 河越城の戦い
第32回 三木合戦 第33回 鳥取城の戦い
第34回 備中高松城の戦い第35回 本能寺の変


※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の堀和久氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。

日々の仕事に忙殺されている人は多いと思います。

仕事をやってもやっても終わらない。

次から次へと仕事が湧いてきて、毎日残業残業。

もうへとへとですよね。

たぶん、大抵の人は「仕事をするスピード」とか「自分の能力」が低いせいで仕事が終わらない、と認識していると思うんですが、僕はそうではないと思っています。

そういう時はどうすればいいのか、「山崎の戦い」での羽柴筑前守秀吉〔以降「(羽柴)筑前守」〕の動きから学びたいと思います。


羽柴筑前についてもっと知りたい方は、下記リンクをタップしてください(関連記事に飛びます):
小牧長久手の戦いに学ぶ―勝ちすぎてはいけない

同関連記事:
賤ケ岳の戦いに学ぶ―相手の心に寄りそう

同関連記事:
『麒麟がくる』第27回―「会合衆」とは何者か?




山崎の戦い流れ


天正(てんしょう)10年(1582年)6月2日、京都・本能寺(きょうと・ほんのうじ)を襲撃した明智日向守光秀〔以降「(明智)日向守」〕は、主君であった織田前右大臣信長〔以降「(織田)右府(うふ)」〕を自害させ、二条(にじょう)城を攻めて右府の長男・左近衛中将信忠をも同様に自害に追い込みます。


明智日向守関連の記事:
『麒麟がくる』第44回―南光坊天海について

同関連記事:
『麒麟がくる』第43回―波多野家について


変後、日向守は京都の治安維持を終え、近江(おうみ)を抑えるべく安土(あづち)城へ向かいました。

ところが勢多(せた)城主・山岡美作守景隆兄弟が瀬田(せた)の橋を焼いたため渡ることができず、足止めを食らいます。

6月5日になってようやく橋を架けなおすことができた日向守は安土城に入ります。
日向守の家臣たちは近江の城を次々と押さえ、北陸(ほくりく)の柴田修理亮勝家の襲来に備えたと言います。

8日になって日向守は、備中(びっちゅう)に出陣していた羽柴筑前守が畿内(きない)に取って返していることを知り、坂本(さかもと)城に移ります。

同日、日向守は正親町天皇の子・誠仁親王の祝賀により天下人として認められます。

9日になって、日向守は羽柴筑前守を警戒して山崎に陣を張ります。

12日筑前守の先手が山崎に到着し、両者のにらみ合いとなり、13日には羽柴方の中川瀬兵衛清秀と明智方の伊勢伊勢守貞興の隊が衝突し、開戦となります。

戦闘開始から2時間後、羽柴方の池田紀伊守恒興の部隊が明智方の津田信春隊を破ったことで明智軍は崩れます。

日向守は勝竜寺(しょうりゅうじ)城を経て坂本城へ向かいますが、途中の小栗栖(おぐるす/おぐりす)の藪で落ち武者狩りに遭い、命を落とします。
(自害したという説もあり)



中国大返しから学ぶ


この戦いはやはり、筑前守が常軌を逸するスピードで畿内へ反転した「中国大返し」が大きなインパクトをもっていますね。

備中高松(たかまつ)城から山城(やましろ)・山崎までの約230kmを大軍団で10日ほどで移動したということですが、車や電車生活に慣れた我々現代人からしてみるとそのすごさがイマイチわかりにくいですね。

毎日同じ距離を移動したわけではないでしょうが、10日間で230kmというのは平均すると一日23kmとなりますよね。

人の歩く速度は時速4kmほどと言われていますが、甲冑(かっちゅう)や糧食(りょうしょく)などもある状態で一日6時間ほどは歩いていることになりますね。

それを10日間…

へとへとどころではありませんね。

と、そのすごさを想像したところで、この羽柴筑前守の「大返し」を抽象化して「仕事のスピード」という観点で考えてみましょう。

冒頭に書いたように、日々仕事に追われている方は多いと思います。

その仕事をまともにすべてやろうとするととてもじゃないけど終わらないんですよね。

関連記事:
鳥取城の戦いに学ぶ―長期戦を避けるべし

上記記事に書いていますが、「やらなくていい仕事はどんどん切ってください」というと、大抵の人は「やらなくていい仕事なんてない」と言います。

今やっている仕事は全部大事だ、と。

いや、そんなことないんですよ。

絶対にやらなくていい仕事があります。

それは何なのかと考える手がかりになるのが、「いちばん大事なことをひとつ決める」ということですね。

羽柴筑前が「中国大返し」を成功させたとき、おそらく彼は「いち早く畿内に戻ること」だけを優先したのだと思うんです。

他のことは切って切って切りまくったのだろうと思います。

そうして勝ち取ったのが山崎の戦いでの勝利と、織田家内でのイニシアティヴです。

今、自分がやっている仕事の中で最も大事なことをひとつ決め、それ以外は切る。

そうすると自ずと仕事がやりやすくなっていくはずなんですよね。

そして、おそらくどの仕事にとっても共通して大事なことがあります。

それは「早く正確にやること」。

「ひとつ」に決めた仕事を「早く正確に」仕事をこなすための業務に全力を注ぐべきだと思うんです。

仕事の効率化ってのは結構後回しにされがちです。

ですが、一番大事なのは仕事の効率化・システム化です。

簡単に、楽して同じクオリティの仕事ができるようにすることに全力を尽くすべきだと思うんですよね。

まずは最も大事なことをひとつだけ決め、多少の犠牲を払ってでもそれを簡単に楽にこなすために「効率化・システム化」に全力を注ぐことで仕事の状況は改善していくはずです。

ということで、今回は「大事なことをひとつ決める」ということについて説明させていただきました。

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
※よみがなは代表的なものです。
・羽柴〔木下〕 筑前守〔通称は藤吉郎〕 平〔豊臣〕 朝臣 秀吉
→はしば〔きのした〕 ちくぜんのかみ〔通称はとうきちろう〕 たいら〔とよとみ〕 の あそん ひでよし
・明智〔惟任〕 日向守〔通称は十兵衛〕 源〔大神〕 朝臣 光秀
→あけち〔これとう〕 ひゅうがのかみ〔通称はじゅうべえ〕 みなもと〔おおが〕 の あそん みつひで
・織田 右大臣〔右府。総見公。通称は三郎、上総介〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
→おだ うだいじん〔うふ。そうけんこう。通称はさぶろう、かずさのすけ〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・山岡 美作守〔通称不明〕 伴 朝臣 景隆
→やまおか みまさかのかみ〔通称不明〕 とも の あそん かげたか
・柴田 修理亮〔通称は権六(郎)〕 源 朝臣 勝家
→しばた しゅりのすけ〔通称はごんろく(ろう)〕 みなもと の あそん かついえ
・方仁〔諡号:正親町帝〕
→みちひと〔諡号:おおぎまちのみかど〕
・誠仁
→さねひと
・中川 瀬兵衛 源 清秀
→なかがわ せべえ みなもと の きよひで
・伊勢 伊勢守〔通称は与三郎〕 平 朝臣 貞興
→いせ いせのかみ〔通称はよさぶろう〕 たいら の あそん さだおき
・池田 紀伊守〔通称は勝三郎〕 源 朝臣 恒興〔信輝、勝入〕
→いけだ きいのかみ〔通称はかつさぶろう〕 みなもと の あそん つねおき〔のぶてる、しょうにゅう〕
・津田 (官職・通称不明) (平?藤原?忌部?) 信春
→つだ (官職・通称不明) (たいら?ふじわら?いんべ? の) のぶはる
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
京都を歩くアルバム
山歩き町歩き日記
応仁の乱以降の畿内史


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Y HOSOKAWAによるPixabayからの画像
※こちらの記事は、平成29年4月18日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は半年前に放送されたNHK大人気大河ドラマ『真田丸(さなだまる)』の第41回「入城」についての感想です。


【『真田丸』シリーズ】
・第1~5回―真田昌幸の魅力・第6~7回―大河は硬派であってほしい
・第8~10回―とりあえず見ていられる!・第11~15回―現代劇か歴史劇か
・第16~17回―秀吉の笑顔に潜む狂気・18~20回―大河にラブコメはいらない
・女性陣が活躍しないとまだ見られる!(21~23回)



あらすじ
九度山村(くどやまむら)を出て大坂(おおさか)城に入城することを決意した真田幸村(堺雅人)。一方、真田信之(大泉洋)に大坂への出陣命令を下し、九度山村の警備の増やすように伝える徳川家康(内野聖陽)。信之は息子二人を初陣(ういじん)させることに決めるが、二人のうちどちらを嫡男(ちゃくなん)としようかと悩む。しかし、正室稲(いな)(吉田羊)の進言で、おこう(長野里美)の子である信吉(広田亮平)を嫡男とすることに決める。九度山村では村民への感謝のために宴会を開いた幸村一行だが、それは村を抜け出て大坂城へ入る策略だった…

という感じですが、


『真田丸』についての他の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『真田丸』最終回―松代藩の偉人佐久間象山

関連記事:
『真田丸』第49回―伊達政宗の天下取り

関連記事:
『真田丸』第48回―有楽斎を慮る




今回も特に大きな文句はないです 笑

結局僕が文句を言うのは無駄なエピソードと解釈についてで、解釈についてはどれが正しいということもないので「自分と違う」というだけなのですが、今回はおおむね自分の認識と違わないストーリーでした。


大坂の陣関連の記事:
大坂冬の陣に学ぶ―自分のプライドを自分でたたき折る

同関連記事:
大坂夏の陣に学ぶ―覚悟して手放す


大坂の陣の原因としては結局真相はわからないのですが、いろいろな要因が重なったとされ、そのひとつは関ヶ原(せきがはら)の戦いで戦がなくなり仕官先のなくなった浪人たちが大坂に寄り集まって反徳川(とくがわ)の空気を醸成してしまった、また、徳川幕府(ばくふ)に豊臣(とよとみ)討伐の口実を与えてしまったというのがありますが(多分、いちばんよく語られる原因ですが)、今回はそれでしたね。

関ヶ原関連の記事:
関ヶ原の戦いに学ぶ―相手に納得感を与える

他にもヨーロッパ情勢の影響が絡んでくるという話もありますね。
ヨーロッパでは新興のプロテスタント勢〔神聖ローマ帝国、オランダ、おまけでイギリス〕vsカトリック勢〔スペイン、オランダ〕の対立があったようですが、当初日本との貿易を独占していたカトリック勢が、1600年のオランダ、イギリスのプロテスタント勢の日本到着でカトリックが日本から締め出されるのを恐れて焦り、大坂城に集まり、反徳川に誘導していったとか(徳川家にはオランダ人ヤン・ヨーステンとイギリス人ウィリアム・アダムスがついており、カトリック勢は幕府がプロテスタント贔屓だと理解した)。

もうひとつは大久保長安事件と絡んで、天下を狙おうとした伊達政宗が豊臣秀頼や家康の六男松平忠輝を擁立(ようりつ)し、支倉常長に呼びに行かせたスペイン艦隊と組んで大坂城に篭り、徳川家康・秀忠を倒すつもりだったとか。

まぁそれは置いておいて、幸村が宴会中に村を抜け出し大坂城へ向かったというのは他でも登場するエピソードなので、何か古い出典がきっとある話なのでしょう。
「結び雁金(かりがね)めでたけれ」は見ていてちょっと恥ずかしかったですが 笑

そして大坂城入城。
いやぁ、後藤又兵衛が哀川翔氏というのは素晴らしいですね!花香よしあき氏にもぜひ後藤又兵衛バージョンの哀川翔をレパートリーに入れてもらいましょう 笑
※令和5年9月27日注:花香よしあき氏は筆者の小中学校の先輩です。

そして、毛利勝永(岡本健一)ですが、彼は実は「勝永」という実名が疑問視されていて(大抵の武将は複数の実名が伝わっていますが)、最近は「吉政」の方が正確なのでは?といわれているようです。

まぁ、毛利勝永自身がそれほど有名ではない上に今回は主人公ではありませんし、「勝永」という名前があまりに通り過ぎて「吉政」といっても通じなそうですよね。
別に「勝永」でもいいんですが、今まで「幸村」で通ってきた主人公をわざわざ「信繁」と史実に忠実?に名乗らせたのだから、毛利勝永も「吉政」と名乗らせたほうが統一感があるのでは?と思った次第です。


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『真田丸』第42回―織田有楽斎がいい!


今回登場した人物のフルネーム
・真田 左衛門佐〔通称は源次郎〕 滋野〔源〕 朝臣 幸村
さなだ さえもんのすけ〔通称はげんじろう〕 しげの〔みなもと〕 の あそん ゆきむら
・真田 伊豆守〔通称は源三郎〕 滋野〔源〕 朝臣 信之
さなだ いずのかみ〔通称はげんざぶろう〕 しげの〔みなもと〕 の あそん のぶゆき
・徳川 内大臣〔通称は次郎三郎〕 源 朝臣 家康
とくがわ ないだいじん〔通称はじろうさぶろう〕 みなもと の あそん いえやす
・真田 孫六郎 滋野〔源〕 信吉
さなだ まごろくろう しげの〔みなもと〕 の のぶよし
・大久保 石見守〔通称は十兵衛〕 秦〔藤原〕 朝臣 長安
おおくぼ いわみのかみ〔通称はじゅうべえ〕 はた〔ふじわら〕 の あそん ながやす
・伊達 陸奥守〔通称は藤次郎〕 藤原 朝臣 政宗
だて むつのかみ〔通称はとうじろう〕 ふじわら の あそん まさむね
・羽柴 右大臣〔通称不明〕 豊臣 朝臣 秀頼
はしば うだいじん〔通称不明〕 とよとみ の あそん ひでより
・松平 左近衛権少将〔通称不明〕 源 朝臣 忠輝
まつだいら さこんえごんのしょうしょう〔通称不明〕 みなもと の あそん ただてる
・支倉 六右衛門 平 常長
はせくら ろくうえもん たいら の つねなが
・徳川 権大納言〔通称不明、官職は他多数〕 源 朝臣 秀忠
とくがわ ごんのだいなごん〔通称不明、官職は他多数〕 みなもと の あそん ひでただ
・後藤 隠岐守〔通称は又兵衛〕 藤原 朝臣 基次
ごとう おきのかみ〔通称はまたべえ〕 ふじわら の あそん もとつぐ
・毛利〔森〕 豊前守〔通称不明〕 (氏不明) 朝臣 勝永〔吉政〕
もうり〔もり〕 ぶぜんのかみ〔通称不明〕 (氏不明) あそん かつなが〔よしまさ〕

参考
渡る世間は愚痴ばかり
☆お気楽♪電影生活☆
ドラマ@見とり八段


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※こちらの記事は、令和3年6月16日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は令和3年の大河ドラマ『青天を衝け』第11回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。

大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない
歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。

【『青天を衝け』の楽しみ方】
・第1回―渋沢家について・第2回―身分秩序について
・第3回―平岡家について・第4回―阿部家について
・第5回―藤田家について・第6回―美賀君の血筋
・第7回―井伊家について・第8回―岩瀬忠震の出自
・第9回―安政頃の西郷吉之助・第10回―安藤信正について


まずはあらすじ。



第11回のあらすじ


文久(ぶんきゅう)2年(1862年)、上野(こうづけ)に潜伏していたはずの尾高長七郎(満島真之介)が江戸(えど)に向かっているという知らせを聞いた渋沢栄一(吉沢亮)は、深谷(ふかや)の宿で長七郎と会うことに成功した。

そこで栄一に、安藤対馬守(岩瀬亮)の襲撃計画に失敗に終わり河野顕三(福山翔大)が討たれたことを告げられた長七郎は、自分も幕府(ばくふ)に手配されていることを知り、京都(きょうと)に潜伏することになった。

その後、栄一と千代(ちよ)(橋本愛)の間に一人の男子が生まれた。

市太郎(いちたろう)と名付けられたその子の誕生を喜ぶ間もなく、尾高惇忠(田辺誠一)らとともに高崎(たかさき)城襲撃計画に精を出す栄一。

江戸では一橋宰相慶喜(草彅剛)が謹慎を解かれ、14代将軍・徳川内大臣家茂(磯村勇斗)の将軍後見職(こうけんしょく)に任命された。

しかし、実質は薩摩藩(さつま・はん)国父(こくふ)・島津三郎久光(池田成志)や前福井(ふくい)藩主・松平春嶽(要潤)らに利用されているだけと嘆いていた。

血洗島(ちあらいじま)では麻疹が流行り、栄一の子・市太郎が亡くなった。

悲しみに打ちひしがれる栄一は、惇忠らとともに高崎城襲撃計画にまい進した。

江戸で武器を買い上げ、血洗島に戻り、父に自分を勘当するように頭を下げた。

うたという娘が生まれた直後であったが、栄一は攘夷志士(じょうい・しし)として新たな道を歩むのであった。

一方京都では、平岡円四郎(堤真一)が一橋(ひとつばし)家に戻るよう幕府に懇願し、ついに慶喜の下に帰参した。

慶喜は喜びをあらわにした。

ということで、




第11回「横濱焼き討ち計画」の感想


市太郎が亡くなるエピソードはいたたまれなかったですね。

子供が死ぬのも嫌ですが、それを悲しむ親たちを見るのも忍びなくて辛いですね。

関連記事:
『麒麟がくる』第26回―摂関家の系譜

医療が発達し、子供が死なない世の中になったことに本当に感謝しています。

そして、慶喜の将軍後見職就任。

今までは薩摩の側から描かれた慶喜を見ていましたが、今回の慶喜側からの描写は新鮮でした。

薩摩側から描かれた徳川慶喜の様子を知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
『西郷どん』第26~30回―主人公補正に物申す!

『西郷(せご)どん』を見た時は、慶喜が単に田舎者で地ごろな久光を気に入らず、それで久光と仲が悪かったのかと思っていました。

しかし今回は、その背景として「自分(=慶喜)を利用しようとする人々」として久光らを見ていたことが描かれました。

自分の内面をしっかりと見て自分を担ぎ上げているのではなく、水戸(みと)家出身とか、一橋家当主とか、英邁(えいまい)に見えるとか、そういう表面的情報を利用して、広告塔として慶喜を利用しようとしていた、そういうところが気に入らなかったという描き方で、納得できました。

そして、高崎城襲撃計画はずさんでひどかったですね。

あれだけ教養の高かった惇忠や栄一には、兵法の知識はなかったのでしょうか?

70人で城を獲るには竹中半兵衛ばりの知略が必要ですねw


関連記事:
稲葉山城の合戦―人に好かれる人が勝つ

竹中半兵衛の登場する記事:
『麒麟がくる』第15~16回―織田一族の関係性と斎藤新九郎高政の重臣たち

同関連記事:
姉川の合戦-即座に方針転換する




第11回の楽しみ方―高崎城について―


今回はドラマ中で尾高惇忠らが襲撃を計画していた高崎城の歴史について書きたいと思います。

高崎城の建っているところには、元々は和田(わだ)と呼ばれる城がありました。

平安(へいあん)時代、この地域を支配した豪族の和田義信という人物が築城したと言われています。
※上野和田氏と呼ばれる一族で、義信は桓武平氏三浦氏族(かんむへいし・みうらしぞく)の和田左衛門尉義盛の子であると言われています。

和田左衛門尉の関連記事:
鶴岡八幡宮を味わう(1)―太鼓橋と舞殿

上野和田家はその後も和田城周辺の支配をつづけたようで、いわゆる戦国(せんごく)時代には和田右兵衛大輔業繁が活躍しています。

右兵衛大輔は元々、関東管領(かんとうかんれい)・上杉兵部少輔憲政に仕えていましたが、兵部少輔が越後(えちご)に落ち延びて以降は親族である長野信濃守業正に従っています。


上杉兵部少輔関連の記事:
御館の乱―勝つためにはこだわりをすべて捨てる

同関連記事:
各合戦の動員人数について(16)志賀城の合戦

同関連記事:
各合戦の動員人数について(5)川越城の合戦

長野信濃守関連の記事:
箕輪城の合戦―圧倒的有利な状況を作る


永禄(えいろく)4年(1561年)、右兵衛大輔は信濃守の死により武田信玄に降服し、以降は武田(たけだ)家臣となります。

その後、天正(てんしょう)3年(1575年)の長篠(ながしの)の戦で、右兵衛大輔は徳川(とくがわ)家臣・酒井左衛門尉忠次の奇襲を受け、討ち死にします。

関連記事:
長篠の合戦―プライドよりも信頼関係を重視せよ

その跡を、婿養子(むこようし)となっていた武田家臣・跡部尾張守勝資の子・右近衛大輔信業が継ぎます。

右近衛大輔は天正10年(1582年)、武田氏の滅亡前に北条(ほうじょう)家臣となりますが、織田(おだ)家の上野侵攻により織田家臣・滝川左近将監一益の家臣となります。

しかし、直後に本能寺(ほんのうじ)の変が起こり織田前右府信長が横死したために、右近衛大輔は再び北条家臣となり、天正18年(1590年)の小田原征伐(おだわら・せいばつ)を迎えます。


関連記事:
天目山の戦いから学ぶ―撤退のベスト・タイミングとは

関連記事:
本能寺の変に学ぶ―覚悟を決める

関連記事:
小田原征伐に学ぶ―相手に口実を与えない


北条家の滅亡後は右近衛大輔は流浪し、和田城は廃城となります。
※右近衛大輔の子孫は会津(あいづ)藩に仕えています。

その後、徳川家の関東(かんとう)入部に伴い、箕輪(みのわ)城主だった井伊兵部直政が和田城跡に移り、築いた城が「高崎城」です。

あの、大老・井伊掃部頭直弼のご先祖様が築いた城だったんですね。

関連記事:
『青天を衝け』第7回―井伊家について

その後、様々な譜代大名(ふだい・だいみょう)家が高崎藩主となりますが、ドラマで描かれた文久の頃の藩主は大河内松平(おおこうち・まつだいら)でした。

大河内一族である大河内源三郎の登場する記事:
第二次高天神城の合戦-勝者の戦法を徹底的にトレースせよ

同関連記事:
第一次高天神城の合戦-場を俯瞰する


そしてその後、そのまま大河内松平家領として幕末維新(ばくまつ・いしん)を迎えます。

こんな感じで、ドラマの背景にある知識が分かるとドラマをもっと楽しめます!

最後まで読んでいただきありがとうございました!


次回の記事を読みたい方は、下記リンクをタップしてください:
『青天を衝け』第12回―一橋徳川家について


以下もご覧ください!

※トップ画像はイメージです。

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・尾高 長七郎 (氏不明) 弘忠
おだか ちょうしちろう (氏不明) ひろただ
・渋沢 栄一〔栄二郎、栄一郎〕 源 美雄
しぶさわ えいいち〔えいじろう、えいいちろう〕 みなもと の よしお
・安藤 対馬守〔通称は鉄之進、鉄之介〕 安倍 朝臣 信正〔信睦、信行〕
あんどう つしまのかみ〔通称はてつのしん、てつのすけ〕 あべ の あそん のぶまさ〔のぶゆき、のぶゆき〕
・河野 顕三 越智 通桓
こうの けんぞう おち の みちたけ?
・尾高 新五郎 (氏不明) 惇忠
おだか しんごろう (氏不明) あつただ〔物語中では「じゅんちゅう>〕)
・(一橋)徳川〔松平〕 参議〔幼名は七郎麻呂〕 源 朝臣 慶喜〔昭到〕
(ひとつばし)とくがわ〔まつだいら〕 さんぎ〔幼名はしちろうまろ〕 みなもと の あそん よしのぶ〔あきむね〕
・征夷大将軍〔将軍家〕 徳川 内大臣〔通称不明〕 源 朝臣 家茂〔慶福〕
せいいたいしょうぐん〔しょうぐんけ〕 とくがわ ないだいじん〔通称不明〕 みなもと の あそん いえもち〔よしとみ〕
・島津 三郎 惟宗〔源〕 久光
しまづ さぶろう これむね〔みなもと〕 の ひさみつ
・松平〔徳川〕 越前守〔幼名は錦之丞〕 源 朝臣 慶永〔号春嶽〕
まつだいら〔とくがわ〕 えちぜんのかみ〔幼名はきんのじょう〕 みなもと の あそん よしなが〔号しゅんがく〕
・平岡〔岡本〕 円四郎 源?〔清原?〕 方中
ひらおか〔おかもと〕 えんしろう みなもと?〔きよはら?〕 の けたち
・竹中 半兵衛 平 重治
たけなか はんべえ たいら の しげはる
・和田 (官職・通称不明) 平 義信
わだ (官職・通称不明) たいら の よしのぶ
・和田 左衛門尉〔通称は小太郎〕 平 朝臣 義盛
わだ さえもんのじょう〔通称はこたろう〕 たいら の あそん よしもり
・和田 右兵衛大輔〔幼名は八郎〕 平 朝臣? 業繁
わだ うひょうえのたゆう〔幼名ははちろう〕 たいら の あそん? なりしげ
・(山内)上杉 兵部少輔?〔通称は五郎〕 藤原 朝臣 憲政
(やまのうち)うえすぎ ひょうぶのしょう?〔通称はごろう〕 ふじわら の あそん のりまさ
・長野 信濃守〔通称不明〕 在原 朝臣 業正
ながの しなののかみ〔通称不明〕 ありわら の あそん なりまさ
・酒井 左衛門尉〔通称は小五郎〕 源 朝臣 忠次
さかい さえもんのじょう〔通称はこごろう〕 みなもと の あそん ただつぐ
・跡部 尾張守〔幼名は又八郎〕 源 朝臣 勝資
あとべ おわりのかみ〔幼名はまたはちろう〕 みなもと の あそん かつすけ
・和田〔跡部〕 右近衛大輔〔幼名は八郎〕 平〔源〕 朝臣? 信業
わだ〔あとべ〕 うこんえのたゆう〔幼名ははちろう〕 たいら〔みなもと〕 の あそん? のぶなり
・滝川 左近将監〔通称は彦右衛門〕 紀 朝臣 一益
たきがわ さこんのしょうげん〔通称はひこうえもん〕 き の あそん かずます
・織田 右大臣〔右府。総見公。通称は三郎、上総介〕 平〔藤原、忌部〕 朝臣 信長
おだ うだいじん〔うふ。そうけんこう。通称はさぶろう、かずさのすけ〕 たいら〔ふじわら、いんべ〕 の あそん のぶなが
・井伊 侍従〔幼名は万千代。通称は兵部〕 藤原 朝臣 直政
いい じじゅう〔幼名はまんちよ。通称はひょうぶ〕 ふじわら の あそん なおまさ
・井伊 掃部頭〔幼名は鉄之介、鉄三郎〕 藤原 朝臣 直弼
いい かもんのかみ〔幼名はてつのすけ、てつさぶろう〕 ふじわら の あそん なおすけ
・大河内 源三郎 源 政局
おおこうち げんざぶろう みなもと の まさちか
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
ぴえーるのテレビブログ
ゆーくんはどこ?
晴れたり、曇ったり。


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