先週、初めて「能」を観に行きました。
観た演目が初めてとしてよかったのか、悪かったのかはわかりません。
ただ、日本の芸術の神髄を垣間見ることができたような気がします。
観る者の解釈の幅は大きく、観る者の価値観を揺さぶるかもしれません。
個人的な見解であることを先にお伝えします。
どうも、西洋の芸術は、ある程度、価値観を押し付ける帰来があります。
キリスト教的価値観というか、、
人間とはこうあらねばならない的な。。
もしくは、悩みどころを露わにして、そのまま放置。
そして、合わぬものを否定していく。
いろいろな演目を観たわけではないので一概にそうとは言い切れないものはありますが、この演目を観て、私が思った感想を述べてみたいと思います。
物語は単純。
貴族が旅の途中で遊女に会い、逢瀬を重ねて、遊女は貴族に恋焦がれる。
また会うことを約束する。
会えないことに、狂おうしく、何事にも手を付けられない。(接客もままならないw)
店から追放される。
さらに思いは激しくなり、、ついには狂ってしまう。
それでも形見の扇は手放さす、また会うまでと思い詰める。
そして年月が経ち、会うことができた。
貴族はその成れの果てをみて最初は気づかなかったが、舞う踊りのなかで扇をみて、あの時の遊女とわかる。
そして、お互いにあの逢瀬の人と認識して、改めて扇を交わす。
それを1時間半という時間の中で、表現するのです。
利害を考えると、いろいろな解釈できますよね。
だいたい、一回逢瀬を重ねたぐらいで本気になる?
貴族の戯れを真に受ける?
なんで、そこまで恋焦がれる?
よほど、いい男だったのか?(いろんな意味でw)
遊女としては、これが這い上がるチャンスとみたか?
貴族も、いい顔したいし、扇でもやるか。だけかも?
また戻り道で会えればいいや。と思ったかも?
まぁ、いい女だからキープしておこう!と思ったかも?
といいつつ、氣になるから、遊女の消息を家来に探させてみたんだよねー
考えると下世話な考えがもたげてきますね。
ほんと、ドライに考えると、ドラマにならないw
結果でないし、再会で終わりなんで。。
ただ、その舞はなぜか、素晴らしいと感じました。
舞台の遊女と貴族、特に遊女の微妙な感情の揺れ動きを見事に演じたと感じました。
連れないと思っている相手に対して、形見の扇を微妙に震えながら広げて舞う。
そこには様々な感情を読み取ることができるでしょう。
舞自体は、静の世界。上下の動きはほとんどありません。ゆっくりと動く。
囃子と唄は、状況にあわせて、ゆっくりだったり、早くなったり。
動きは静。
音楽は動。
このバランスは能ならではと思わせます。
そこに、、なんともいわれぬ、、エネルギーが蓄積される、、
それが、なんという感情なのか。。
どう開放したらいいのか???
開放できぬ、苛立ち、想いの叶わない状況のストレス。
「能」は、ストーリーを完結せず、その場、その一瞬を、懸命に表現することで、どんな状況であれ、一瞬の状況の大切さを表してるのではないかと思った次第。
その一瞬に、人間の美しさ、刹那さ、はかなさを表現することで人間の根本というものを訴えているのかもしれません。
人生はドラマかもしれません、時には人から狂って見えるかもしれません。
それでもそれぞれの人生において一所懸命に生きている姿は美しいといえるのが、日本の美、人生観なのかもしれません。
また、それを許容してる世界を持っているのが日本なのではないでしょうか?
イマドキ、すぐにお金に換算することが多く、大きく換算したものが得をしていると思っている世界ですが、、このような世界もまた、容認していける世界を維持していくことが求められているのかもしれません。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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