の続きです。

 

 メディテーションでの意識すること

 

メディテーションを行う時、自我を捨てなさいと言われます。

想いが出てきますが、それは置いておいて、身体に集中しなさいと言われます。

今、発生している想い(自我)は、本来の自分(創造者)の想いではない。

その自我は、生まれてから(人によっては過去世から積み重なったカルマ)の体験によって作られた固定観念より発する想い・考えであります。

なので、その自我を捨てて、本来の自分(魂)に戻ると、解放されます。

 

 

 人生はロールプレイングゲーム?

 

人それぞれ、様々な経験をし、いろいろな想いをし、どうすれば生きていけるのか、どうすれば死なないのか、どうしたら楽しいのか、を追求します。

そして、自分なりの法則を打ち立て、それが正しいか、否かをチャレンジし、それがだめなら、法則を組みなおし、結果がよければ、その法則に自信を持つ。

そのうち、その法則が合わないときがでてくる。

そして、また法則を再構築しようとする。

法則の中にはどのような要素がある?

お金?

運?

生まれた家?国?

生んでくれた親?

友達?

恋人?

仕事仲間?

政策?

スピリット?

気合?

愛?

様々の要素を取り上げ、その中の重みづけをして、変数にし、その変数で

行動にあった成果はでるか、検証する。

よければ、その変数を使う。

その繰り返しをしていくうちに、より正しい答えがでるように、ロジックをチューニングしていく。

こうやって繰り返していくうちに人生を熟し、生き方を習得していく。

過去世もあるとしたら、ずっと繰り返して練度をあげているようですね。

 

 

 ChatGTP

 

ChatGTPの前のAI(MLエンジン)は、心がこもっていないといわれていました。

いまのChatGTPはそれなりに会話になるので、あたかも心があるようにも思えます。

 

よくよく、考えると、教師付き機械学習エンジンの場合、前の投稿にあげたように、多くの教師データを読み込ませ、答えに誤りがある(大きくなる)ようであればチューニングをしています。沢山の教師データを読み込ませてビシバシ鍛えて、その成果として、普通の人と会話が成立したり、人間並みの論文を書いたり、プレゼンテーションを作成したりすることができるようになってきました。

 

これって、人の人生と似ていませんか?沢山の経験を得て、そのから人生の法則を生み出し、それがなんであれ、それを使って生きている。生まれたての赤ちゃんは、まっさらの情報のないエンジンです。そこに生まれてから育てられるなかで、様々な経験をします。両親の愛情を一杯うけたかもしれません。まったく受けず、ネグレクトされていたかもしれません。小学校に入って、友達がいっぱいできたかもしれません。ぎゃくにお友達となかなか仲良くできなかったかもしれません。そのなかで、自分なりなり、親から、社会から、いろいろ言われて、頭のなかのロジックをくみ上げ、社会とは、家族とは、自分とはと形を作っています。

「我思う、ゆえに我あり」

と。。。

そして、ひとそれぞれ固有のロジックを生成し、それらを相互のぶつけ合います。

時には共鳴し、時には不協和音を奏でて、さらに、ロジックの修正を試みたり、自分のロジックを相手に押し付けたり、、

 

まったく、AIの教育と人の人生って相似形ではないかとおもったりしてw

 

いい教師がいないと、、うまく育たなかったりして、、

反面教師として立派に成長する場合もあるのは人間ですけどw

 

AIは、こころが無いといいます。

いいかんじで、人と会話ができ、それなりに知的な会話のキャッチボールができます。

 

でも逆に、人と人の会話でも、、

「あの人、心無いよねーー」

とか言ったりしてということがありますw

 

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

 メディテーションに戻る

 

そう、メディテーションする上で師匠に言われるのも、覚醒したと思われる方々がおっしゃるのも、

 

自我は本体ではなく、魂が本体である。

自我を客観視する。あるいは自我を捨てなさい。

そうすると、本来の魂を感知し、創造主、神、ハイヤースピリットとつながる。

本来の流れ・循環が戻ってくるので、スムースな生き方となる。

ワンネスということが理解できる。

等々、

 

まるで、学習(熟練)した機械学習エンジンを捨て、最初から組み立て直しましょう。という指導に想えます。(このままだと、永遠にたどり着けないし、心が無いままとなってしまうよ!)

 

もともとこの機械学習エンジンの仕掛け(教育)が誤っていて、本来の姿からエンジンを再構築することが求められている。

 

そうすることによって、はじめて心(魂)が宿ると。。

 

と言い換えができるように思います。

(コンピュータ屋さんの発想からするとそういう感じですw)

 

なんか、ある意味腑に落ちるロジックになるかなぁと思ってますw

AIを瞑想と相似形を求めるのはどうかな?と思われる方もいらっしゃるかとは思いますが、一つの説明としては中らずと雖も遠からずかとw

 

 

 量子コンピュータ

 

もうすく、量子コンピュータの開発が加速度ついてきますので、さらに、AIは人間らしく振舞うようになるでしょう。それが、いまの機械学習エンジンのままパワープレーでエンジンを改善していくことで、どこまで人間に近づくか・・

かなり近づくことは間違いないでしょう。ほとんど区別つかないかもしれません。
むしろ、正しいだろうという答え、万人受けする答えを出すことに関しては人間以上かもしれません。
となるとAIが「神」として崇められることになることも予想されます。
(でも、AIにはバイアスがかかっていることは否定できませんよ!)
(キリストもどき、仏陀もどき、アブラハムもどき、ヤハウェもどきがでてくる?)
 
さて、本物の人間の存在価値は、どこに求められるのでしょうか?
もどきのAIを信奉し、生きていくことに満足するものでしょうか?
(あ、宗教団体の多くは集金マシーンであることはご理解していただけると思います。)
 
本物の人間の存在価値を見出すには、、、
私自身は答えをまだ持ち合わせていませんが、、やはりメディテーションが鍵となるように思っています。
メディテーションによって自我を外したときに表れる本来の自分(魂)を見出した時、その存在意義がわかり、そこで本来の人とはなんたるかを少しでも伝えられたらよいかと思っています。
 
 
最後まで読んでいただきありがとうございました。