josephconrad522のブログ

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はじめまして


浦河信吉といいます。




今回


ジョウゼフコンラッドの『ナーシサス号の黒人』序文を易しく読み解いた


『ジョウゼフ・コンラッドのアート理論』という本を出版しました。




その内容を次に紹介させていただきます。




パルメニデス、ゼノン、コンラッド三人の宇宙人アーティストのアート作品をやさしい地球の言葉で読み解く


三人のアーテイストを宇宙人と呼ぶ理由


検索者の皆様、この本を手にしてくださった皆様、ようこそ。

はじめに、私がこの三人の高名にして今なお人類の読み解きをかたくなに拒み続けているアーティストを「宇宙人」と呼ぶ理由を説明させていただきます。私たちが考えている宇宙人とちょっと違うのです。次の質問にお答えください:


私のお墓の前で

泣かないでください

そこには私はいません

死んでなんかいません


千の風になって

あの大きな空を

吹き渡っています


あなたはこの歌を本気で信じますか?


  あなたは道端に転がっている小石に魂があると思いますか。


三人は生きて死んでいく私という個人的人間(生きて死ぬ死すべき「私」を生きているのは人間だけです)は本当の私ではなくて、本当の私は、一瞬一瞬全宇宙を生きていると言います(どうして1個のわたくしを生きながら全宇宙を生きているかは、すぐに図でご理解していただきます。それは、飛ばない矢が飛ぶ理由と同じです)。だから、本当の私たちは、一個の人間を死んでも死ぬということはなくて、本当でない嘘の自分が死んでも風であれ、道端の石ころであれ、何でも思うものとなって、生きている人に顕れて、笑ったり、慰め合ったり、昔の話をしたりするのだと言います。この風となり石ころとなってこの世の人に顕れる永遠のいのち、それが魂です。


三人の宇宙人アーテイィトの説得の仕方


それでは、折角宇宙の永遠のいのちを説く三人のことばが、どうして意図的に難しいのでしょうか。原因は、数というものが、人間の歴史の中で、真理として人間の頭にこびりついてしまった段階に、哲学という人間の苦悩を取り除く学問が生まれた事情と関連します。パルメニデスは西洋哲学の祖と言われる位置にある人ですが、私がこの本で読んでいる彼の自然学の断片第8章に続けて次のようなことを(これも何とも理解を超えた言葉で)言っています。「これからは死すべき者たちの思わくを学びなさい」(この部分第8章)。彼らすなわち「死すべき者たち」は、 (本来万物はそれ自身全宇宙で) 同じものから出来ていて同じものなのに、形や色の違うものを区別してそれらに別々のしるしを与えた。たとえば「王様」と「乞食」のように。そうなってしまうと、たとえ王様であっても、王様は、自分と「王様」の隔たりに悩み、乞食は自分と乞食の隔たりに苦しんでいる。また、彼らは同じものであるのにエーテルと太陽を区別し、それらが生まれた原因を「必然の女神」(原因結果の法則、数・数学の法則)によって解き明かす。そして、この二つの法則によって宇宙の高いところのみでなく、中間のところ、最低のところで起きている現象までもすっかり説明する。(人間も例外でない。これらの法則に「突き動かされて」自分でない自分を生きるよう強いられて生きている。)

古代インドの哲学者釈迦は同様の迷いに落ちて苦悩する人間を救おうと、色や形が一つとして同じものがない万物はすべて1なるもの、完全なるもの(仏)だ、完全なるものは姿形がどのように変わっても完全なるもので、寿命は無量(無限)だと説いた。一方パルメニデスは、1はない、あるのは多にして1だ、多にして1とは、直線で言えば、ひとつひとつが切れ目なくつながって宇宙を一周してはじめて全体1となるもののことだ。だから多にして1は、一つの決まった大きさの円の内部全体の量に増減なく消滅がないように、不生不滅不増不減だと説き、彼の場合それを証明してしまった。

釈迦は、万物は唯一なるものだ、唯一なるものは完全で永遠なるもの仏だ(「天上天下唯我独尊」)と説き、パルメニデスは、1はなく多にして1があると言っていて、両者は実は同じことを説いたのですが、証明できるかできないかで両者の真理性の評価に差があります。

ところで、前置きが長くなってしまいましたが、今私が問題にしているのは両者の真理を説得する困難さの差です。 

釈迦の場合、真理は聞き手と共通の言葉で説得することが可能です。語り手聞き手双方とも1を信じているのですから、聞き手・読者が1を固く信じていればいるほど説得がたやすい。ところが、パルメニデスの場合、数が真理だと信じ飛行機が美しく飛ぶ姿に見惚れている読者に、数はない、1はないと説くことは、難中の難です。それを証明することによって説得しようとしても、数学的真理の正しさを信じる人に説得することができません。パルメニデスの弟子ゼノンは飛ぶ矢は飛ばないと言って1がないことを証明し、多にして1の存在に気付かせようとしているのですが、それに気づいた人は長い歴史の中でコンラッドを除いて一人もいません。いれば謎がとっくに解けているはずです。

三者にとって加えて困難な事情があります。どういうことかと言いますと、彼らが説こうとしている「多にして1」という言葉は、何も珍しい言葉でなく、地球の表面に石ころのように転がっているごく普通の言葉であることが、彼らの説得を一層困難にしているのです。1を信じている人に1はない多にして1があるのだと説いて天地をひっくり返して見せる力を、この言葉は持っていないのです。この困難と闘っているコンラッドは、「多にして1」を「蒙を啓き確信させる特質―真理そのもの」”one illuminating and convincing quality – the very truth “(コンラッド『序文』)と表現しています。邪教キリストの徒をエルサレムに拉致しようとダマスコに向かっていたサウロ(パウロの元の名)に真理キリストが光となって顕れ、彼を盲目にしたことになぞらえて、このように表現しているのですが、この表現は、コンラッドが宇宙人アーティストであるばかりでなく、傑出した地球人アーティストでもあることを証明しています。コンラッドは石ころを光り輝く宝石に変える言語技術で訴える必要に迫られているのです。

肝心なことを端折ってしまいますが、三者が共通して採った言語学的方法は、たとえば春が遅いことを「春が足踏みしている」と言うような、いわゆる間接話法の方法です。コンラッドの研究家は、当然と言えば当然ですが、このことに気付いています。しかし私はこの用語を使ってコンラッドの方法を説明していません。コンラッドの意図が、一つの物語をこの方法で満たすことになくて、一つの言葉の流れで二つの物語を語ることにあって、一方の物語を消したとき他方が光となり驚きとなって顕れて、それまで信じて読んできた一方の物語を読む目を盲目にする言語技術の開拓にあったからです。そしてそれが三人に共通する語り方なのです。


本書「はじめに」(部分)


はじめに

知られていないことですが、今から百余年前、飛ぶ矢が飛ばないゼノンの謎を解いた人がいます。『闇の奥』で有名なイギリスの小説家(ポーランド生まれのポーランド人でもある)ジョウゼフ・コンラッドです。コンラッドは、飛ぶ矢が飛ばないわけを「1はなく、多にして1があるのだ」と解いたのです。それは、こういうことです:私たちはない1をあると信じているから飛ぶはずの矢が飛ばないことになる。1は、細かく砕いていくと、どこまでいっても1が残る。無限にゼロに近づいても1が残る。1とは、πの値や√2の値と同じく、「点」の近似値にすぎないのであって、事物の真の始まりでも終わりでもない。だから「ない」架空の数なんだ。そういう「ない」数を「ある」とすると、矢は弦を放れることができないから、飛べないことになる。一方、多にして1は、線で言えば多にして1と多にして1が切れ目なくつながっている直線のことで、どこまでもつながって宇宙を一周してはじめて1(多にして1の全体1)となる数のことだ。この多にして1の宇宙では、線上のどの点も極小の多にして1であり同時に極大の多にして1となる(たとえば円周上の任意の位置に点Aをとった場合、Aの最小の長さは点となり最大の長さは円周となる)ため、極小の点を発した矢は着地点までのすべての点を通って地上に落下する。

多にして1の真理は、このように、それによってのみ全宇宙をはじめ万物のはじまり、現在なお説明できない運動や引力をも説明できる唯一の真理であることがわかります。