jolijukiのブログ

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初ブログではあるものの、ウィーン経済大へ留学が始まってから3カ月が過ぎている。

ブログを開設したものの、書くことがあまりなかったのだ。

ただ、今日の出来事は書かなければならない。

ちなみに世の中のブログには3種類あると思っていて、1種類目は芸能人等の有名人の、あるいは企業紹介、団体紹介等の紹介ブログ、宣伝ブログ。
2種類目は面白おかしいことを書く文才に長けた、あるいはユーモアに長けた人物の個人のブログ。
そして3種類目は淡々と体験記を、自分の感想交え述べていくブログである。
前者お二つをご希望の読者さまにおかれては、残念ながら自分は有名人でもなく、文才のなさも甚だしいため、他のブログをお読みになることをお勧めしたい。というよりこのブログはどの層が、どのくらいの方がお読みになることができるのかすら、パソコン音痴の自分は理解できていない…。

留学生特有のブログではもちろん留学とはどのように大変か、そして嬉しかったこと、楽しかったことを写真付きで述べていくのであろうが、今回の内容は初回であるにも関わらず、全く私の留学先ウィーンとは関係ない、しかしどうしても誰かに伝えたかった内容である。

今日の労働経済学のクラスで、同級生のトルコ出身の女の子がわざわざ自分に話しかけてきて、先日のトルコ地震の被災者支援に入り、余震による建物崩落のため亡くなった宮崎さんについて哀悼の意と感謝の言葉を頂いた。自分が何かをしたわけではないけど、宮崎さんの思いがトルコ人の胸を打っていることを肌で感じる瞬間だった。私はただ同じ日本人だったというだけで、彼のことを知っているわけではない。この感謝の言葉も本来であれば彼に伝えられるべきものだったので、せめてもの私の責務はこのことを誰か他の人に伝えることだと思い、わざわざ初ブログとして述べてみた。


人の死という関連で話は飛ぶが、スティーブ・ジョブズが亡くなった際、多くの日本人含め先進国の多くの人々が彼の死を悼み、その「功績」をたたえた。未だにfacebookなどでは彼の話題が飛び交う。彼が「偉大」なる発明を達成し、我々の生活を画期的に変える機会を提供したことはまちがいない。

ただ、上述のように機械音痴の私にとって彼の発明したi-pod、i-padのが必需品となりつつある環境は非常に厄介である。私だけではない。昨年私の同級生が就活を行っている様子を見ていた際、これらの発明品をはじめ、いわゆる「スマートフォン」がなければ就活が不利になる環境ができていて、同級生はとても苦労していた様子であった。自分の能力を会社にアピールする以前に様々な理由からスマートフォンを買うことができなかった学生は、満足な就活ができたのだろうか。

言わずもがな機械を使いこなせない、あるいは現状についていくことが難しい立場におかれている高齢者の方や、社会的弱者、経済的に厳しい立場に置かれている人々にとっては、さらに厄介であろうことは想像に難くない。

そう考えればスマートフォンの発明とは本当に偉大なのだろうか。効率性の観点かは絶大な改善であろう。しかし、同時にその波に乗れなかった人々、地域、国々は、どんどん置いていかれる。今までよりもハイスピードで置いていかれる。そのような状況をジョブズ氏の発明は同時に生み出した。その波に乗れないことがあたかも自分の責任であるかのような社会を副次的に生み出した。



私は、ジョブズ氏が悪魔だといいたいわけではない。私自身うまく使いこなせていないもののi-pod touchを毎日活用し、その恩恵を受けている人の一人である。ジョブズ氏自身は偉大な「発明者」あるいは「企業家」であるかもしれない。しかしその後の環境・影響を見てみると、ジョブズ氏本人ではなく、彼の発明を高評価一点張りで固めようとしている発明の恩恵をフルに受け取った人々、深い考えもめぐらせず英雄視しようとするエリート達、企業家たち、「優秀な」学生たちの存在がとても危険であるというように感じたのだ。彼らが思う「偉大」という視点は真の意味で生活が良くなったかという尺度ではなく、あくまで効率性が改善したかどうか、自分の利益に繋がるかという観点から判断されているきらいがある。
「効率的」でない、ついていけない人間のことに対して思いを巡らせたりはしない。今後もきっとそうであろう。
そういう意味で、わたしはジョブズ氏が亡くなったことをあたかも世界の終わりかのように嘆き悲しみ、他の人間にその共感を求める、一種のミーハーのような風潮に嫌気がさしてならなかった。この嫌気は人の死への悲しみとは全く別次元の議論である。


人の死の重さを比較するわけではないけれど、宮崎さんのこの世に残した功績やその志はどうだったであろうか。私は宮崎さんについて、お恥ずかしながらほぼ知識がない。宮崎さんの活動は経済的な豊かさをもたらすものとして、ジョブズ氏の死のように取り上げられてはいない。しかし、その行動力や、今まさに困難に直面する被災者を救いたいという思い、結果道半ばでその志を断たれた宮崎さんの死は、感銘を受けるものである。今日トルコ人に感謝されたことが、私にとってその思いを改めて感じさせてくれた瞬間であった。ジョブズ氏のようなビッグな、革新的な発明でなくてもいい。小さなことでもいいから「良いこと」をすること、それを行動に移す偉大さ。これらももっとたたえられてほしいし、社会にそういう風潮がもっとあってほしい。彼は彼の思いを具体化し、行動していた。私にはそんな偉大な行動力はないし、勇気もない。何人の企業家たち、「優秀な」学生たちにそのような行動力があるだろうか。何人の企業家が、目の前にある自分の利益を投げ捨て、効率性という枠を超えて、本当に困難に立ち向かう人々を助ける勇気を持っているだろうか。そんなことに気づかせてくれた彼の死は、ジョブズ氏の死と同様、またはそれ以上に私の中に深く刻まれているし、トルコの方々にもその思いは伝わっていることがとても嬉しかった。


宮崎さんの死に対し、心からご冥福をお祈りいたします。



次回以降はウィーンの生活について書きたいと思いますが、こんな感じなので、どうぞ不快に思われた方は無視してやってください。

というより、明日その労働経済学の期末試験なのに、こんなことをしている場合ではなかった…。


ともあれ、最後までお読みいただきありがとうございました。