2018年7月のお茶の水女子大のトランスジェンダー受け入れ発表から性同一性障害を中心としたこの話題に関わる中で、当事者のみならず、学者や批判者側まで含め、記憶の改竄が行われるケースが顕著に見られることに戦慄を覚えている。
私を含め誤解や記憶違いは誰しもあるが、その種のトラブルは、普通は資料を提示して説明さえすれば、軽い謝罪と共に双方納得がいく状態に収まるものだ。
しかし、どうやら界隈は違うようだ。
頭の中に「偉くて正しい回答A」を用意し、それが現実と衝突して都合が悪くなると、彼らの頭はサクッと「ニューバージョン偉くて正しい回答B」に挿げ替わる。先にあった回答Aとニューバージョン回答Bの間には脈絡がなく辻褄が合わなくても、それを指摘する者は化外の者として「加害者」のラベルを貼り、いかに自分(たち)が傷つけられたか、事実関係を精査することなく攻撃や排除の対象に設定する。ある者が語る「お話し」に盲従するか否かが、あなたがオトモダチか異人かに分かれる境界である。
ある対象をコトバで留め置く手法はいくつもあり、手法それぞれが独自の自立性を持っている。それぞれのモノサシで照射された時、お話を挿げ替えて生きる人々にとって世界の崩壊を留める唯一のかすがいが「我」であり、それを保護する幻想としての自画像の破綻は致命傷だ。
寄る辺ない現実を進む中で私が伝うものに時系列がある。これを芯に整理した情報は、お話の挿げ替えを権利として生きている人たちにはどうやら羊膜を破壊する劇薬のようであり、理解不能な事象が発生することが分かっている。人は真実より、信じたい現実を作り上げる。記憶や、客観的な資料が保証するのとは全く異なる「事実」が自動的に目の前で創造され既成事実化されてゆくのは、ハッキリ言うが、怖い。