トランス問題に関する、私(Q子)の立場。
以下、報告にも論の進行にも関係がないので、興味がある方だけどうぞ。

 


もともとあるゲイの方のブログのファンで、同性婚制度に興味があり、賛成の立場をとっていた。

 

渋谷区パートナーシップ条例が議論されていた当時、ブログ主が記事で議論を募ったもののイエスマンばかりが集ったため、当事者である同性愛者が日常生活でどのような困難を抱えているか知りたくて改めて議論を呼びかけた。

 


当事者にしか分からない具体的な困難とは何か。

それは、婚姻制度をもって解決できる問題なのか。

 

 

しかし要望への回答どころか、私を攻撃するコメントばかりが現れた。私はすぐに反論を入れたが、私のコメントは握りつぶされブログ主の都合に良いと思われるものだけが採用され続けた。ブログ主の対応に、同性婚制度を主張する人たちへの疑いが初めて芽生えた。

 

(現在はコメント欄が閉じられていて見ることができません)

 

 


また、南弁護士の「僕たち夫夫です」を読んだものの、里親制度や未成年の養子縁組といった子供の成長に著しい影響を及ぼさざるをえない制度に対し、上記ブログ主と同じように自分たち同性愛者(ゲイ)側からの視点から見た、自分たちの都合によいものだけが語られる様に同様に不信感を持った。同性婚を採用してる外国を例に挙げ、国際社会と足並みをそろえようとうたいながらその内容は欧米キリスト教系文化だけ、また国際社会(欧米白人文化)の優位性を説きながら、その中に「きょうだい婚」など、日本でタブーとされている婚姻制度を採用している国の存在は考察対象から外すなどの不誠実さに拒否感が湧いた。

 

 

 

三橋順子さんを知ったのは初出のゲイの方のブログ閲覧時期後期と重なる。

それまではTS(トランスセクシュアル)の存在を知らなかったこともあり、身体への侵襲を否定的に語る三橋さんの立場にむしろ賛同していた。

 

ペニス付きでの戸籍変更を主張する三橋さんが、2016年初め、自身のブログで「戸籍が女性なら女湯を利用する権利がある」と語るのを認めて距離を置くようになった。

 

当たり前だが「女性だから」といって、全ての女性が女性用施設を利用できるわけではない。

 

入れ墨があったら言うまでもなく。法定伝染病に罹患していたら隔離されるし、基本的に生理中は共同浴場は避けるもしくはタンポンなど、外部に影響を及ぼさないような処理をする。手術跡など見られたくないからと服やタオルで傷を覆ったまま入浴することはできない(対応施設なら可能)。怪我が癒えない状態でも断られる。有料施設では代金が支払えなければ利用できない。

 

私は「ペニスがついた状態」を、このような女性用施設の利用に制限がかけられる状態のひとつと位置付けていたが、三橋さんは違うようだった。嫌悪感だけが残った。

 

 

 

2018年6月28日からTwitterを利用するようになり、同性婚がらみで様々なトランスジェンダーたちの存在を知り、その立場や状況、症状というものを理解していった。

 

社会システムを共有するにあたり、知らなければ賛成も反対もないので、問いに答えてくれる特に「トランス女性」には様々なことを教えて貰った。「アンブレラターム」なんて、聞くまで存在すら知らなかった。中には不快な質問もあっただろう、怒られたこともあった。しかし、多くは根気強く説明してくれる人たちで、私の場合、この期間の「貯金」が、いわゆる「トランス女性」への信用の担保になっている。自分に都合の悪い情報でも筋が通っているものは受け入れる姿勢には感服させられた。

 

中にはこの病気の解明につながるように、自らの死後に身体を解剖し研究してくれてもよいと語る人もいた。
私は彼女がこの問題に参加した初期の頃に話を聞いたことがあるが、石橋を叩いてから非破壊検査にかけるような慎重さにはひどく考えさせられるものがあり、「シス女性」への彼女の怯え、猜疑心や警戒感が十分以上に伝わってきて痛々しいものがあった。不幸にして凍結に見舞われた時は世界から排除されたような恐怖に駆られていたのだろうか。泣いてる様子が伝わってくるようだった。

 

もっとも、回数をこなして最近はたくましくなったようで、良かったのか、悪かったのか…事情を分かち合えるお友達がたくさんできたことは良かったのだろう。

 

困難に直面したときそれを糧として成長する者と腐る者がいるが、これはトランス女性についても当てはまるようだ。

 

大まかな事情が呑み込めてから改めて周りを見渡すと、私が初期に出会ったトランス女性たちは取り立てて良質の人たちであり、どうやら少数派のようだった。

 

しかし、私は彼女たちの誠実さを通し、この病気の正体が判明し治療方法が確立するまでしばしの間、この間の現象と何とか折り合いをつけ、仲良くやっていける方途を探ることを希望する。