バイクとクルマと音楽と、ときどきサッカー いつも食べ物
- 春の高校野球で選手がやった“ペッパーミルパフォーマンス”に賛否が巻き起こった。
- ちょうど日本中が注目していたWBCでメジャーリーガーが披露したのがその“ペッパーミルパフォーマンス”。胡椒を挽くポーズで粘り強く戦うという意味があるとか。
- 高野連はいかなるパフォーマンスも高校野球に相応しくないという見解。
- 一方、相手を侮辱するようなことでなければ、許容すべきという意見も。
- 問題とされた状況は、相手のエラーからであったから、問題だったというコメントも多くみられた。
- メディアでは両論併記が多かった。
- 気になったのは、メディアを中心に選手たちを“子どもたち”と何のためらいもなく呼んだこと。おかしくは思わないのか?
- 大人との対比で“子どもたち”と言ったのだろうけれど、高校生は“子ども”か?18歳になったら成人だよ。
- “子ども”というと、まだ判断力が十分でないという意味合いがあると思う。でも高校生は少なくともそういうレベルではない。同じ年ごろで社会に出て働いている人たちもいる。
- “子ども”⇔“大人”という対比ではなく、社会に出る直前の人たちと社会に出て経験のある年長者という図式で見るべきではないのか。
- 何ら疑問を持つことなく、“子どもたち”と呼ぶメディアは紋切り型を抜け出せない“子供思考”の典型のように見えた。あきれた人たちだ。
- 高校生に考えさせよう、彼らに決めさせよう。
- 高野連によると、高校野球も教育の一環だとか。であれば、彼ら自身に考えさせ、議論させ、決めさせれば良い。それが教育だ。例えば、こういうパフォーマンスは許容範囲だが、ああいうポーズは相手を侮辱する要素があるからやめるべきでは。また、状況で相応しい、相応しくないもある、と議論させるのだ。様々に考えるだろうし、そこで得られた結論は貴い。
- そういう場を用意するのが年長者の役割だ。高野連はオブザーバーとしてふるまう。明らかにおかしいことには横やりを入れればよい。コンプライアンスの勉強になるはずだ。
- 当然、決めたことが新しい時代に合わなくなることだってあるだろう。その時は同じように議論させ、変えていけばよい。決めたことに固執する必要はない。
- “大人”が高校野球を“支配”するのはやめるべきだ。つくづくそう考えた。

