これまでの頑張りは
人から嫌われたくない、もっと好かれたい、
人の役に立つことで自分の価値を認めてもらいたいがゆえに人の上に立ちたい思いまでもがあった。だから我慢して、合わせて、本音を殺してきた。
しかし、その頑張りには
人から嫌われた時の苦しみが、好かれていない時の苦しみが、
人の役に立てなかったことで自分の価値に疑問が生まれたゆえに自分が惨めに感じることも多かった。もしくはたった1度のミスによる苦しみがあまりにも大きかった。
だから頑張るのをやめる。
自分軸で生きる、ありのままの自分を受け入れる、嫌われる勇気など、その言い方はそれを伝える、受け取る人によって様々ですが、この気づきの本質は
苦しみから解放され、幸せに生きる。
であるのだと思っています。
しかし、(かつての僕を含め)多くの人がこの「頑張るをやめる」ことの本質を、ちゃんと見られてないことがあります。
頑張るをやめるの本質が
苦しみから解放され、幸せに生きる。
であることまではわかったけど、
苦しみから解放され→幸せに生きる
ではなく、
苦しみから解放される=幸せになれる
と、非常に微妙な違いを同じものと誤解されることがあるのです。
だからなのか、とにかく自分の苦しかった人間関係や、
その場所(家庭・会社・学校など・・・)から離れては
何もしない、何とも関わらない
ことに至ってはさらなる課題が生まれることもある。
(何もないのに妙にモヤモヤしたり、どこか虚しさがあったり…等々)
その違いをちゃんと見られてないということを
決して悪いと言うわけでも、間違っていると批判するわけでもありません。(むしろ批判してはいけない)
そういう解釈、反応が出てきたということは、
それだけ「何もしない、何とも関わらない」という結果に至るほど
それまでの歩んできた道のりが、生活がしんどかった、苦しかったというわけですから。
嫌われないために、もっと好かれるために、認めてもらうために我慢し続けて、自分の本音を何度も何度も殺しながら生きてきた人の中には苦しみがあまりにも大きすぎるため、
自分を生きるということも、ワクワクすることにチャレンジすることも、輝く未来に向かうことも頭ではわかっていながらも、
心では
「とにかく今の苦しみから解放されたい」
「とにかく休みたい」
「とにかく平穏な状態を味わいたい」
という切実な願いが叫び続けられているため、
何もしないで安らぐこと以外のことまで
幸せについて受け入れる余裕が無かったのです。
苦しみへの反応や苦痛は人によってその基準が全く異なるものなので、あんなことがあったのにもすぐに立ち直った人もいれば、こんなことに見えてもその人からすれば一生ものの傷になることもあるように、
何もしない、何とも関わらない
状態が長いということは、それだけ回復までの、今まで殺してきた自分の本音との仲直りまでの時間が必要なだけの話なのです。
そこに良いも、悪いも、正しいも、間違いもあるはずがない。
ただ、その状態が目的や終着点ではなく、
次のステージ、更なる幸せのための準備期間であるということを知っておくだけで良いのです。
---
苦しまない、辛くない=幸せ
でも、
苦しまない、辛くない=ワクワク
でもないことに気づけば
何もしない、何とも関わらないことで得られるのは
平穏でニュートラルな状態であることがわかります。
かえていうと、
何もしない、何とも関わらないことで平穏な状態になるということは、
逆に何かをする、何かと関われば平穏な状態じゃなくなる可能性が生まれる。
悲しいことながら、人生において苦しみは一生私たちに付いてきます。まずはこの事実を認める必要があるのです。
そしてその苦しみの正体を理解すれば、
苦しみ自体を人生から無くすことは出来なくても、
その都度それらから自由になることも、さらには幸せになることも出来る。
これもまたよく誤解されがちなことで、苦しみはある対象から来るものではなく、実は自分の認識から生まれてくるということです。
例えば、その対象が高級外車であれ、憧れの人であれ、
それをある形として追求(車を買いたい、その人と付き合いたいなど)するまでは良いのですが、追求した結果が望んだ通りにならなかった時に苦しみが生まれます。
詳しく例えると、高級外車や憧れの人はあなたを苦しませるためにいるわけじゃないのに、勝手に自分で執着したり、そこで傷付いた記憶を何度も何度も繰り返すことでその苦しみが強くなる。
ここでまた誤解してほしくないことは、だからと言ってその対象を無かったことにしたり(ことも出来ないが)、諦めれば虚無感に陥りますし、それを追求する意思なんて生きている以上消すことは出来ないということです。(例えで車や人を書いただけで、その対象は一生変わり続けながら私たちの目の前に表れます。
もっともっと分かりやすく例えると、ある虫がどれだけ嫌いでもそれが目の前に表れてそれが認識出来ない限り、嫌悪感や苦しみは生まれないですよね。苦しみの対象はちゃんとどこかにいるはずなのに。対象の存在が苦しませるのではなく、対象への認識が苦しませるのです。)
このブログで何度も、何度も伝えているように、
自分というものは苦しい自分とも、楽しい自分とも固定されず
その場その状況によって常に変わり続ける存在ということです。
(お笑いを見ながら笑っている自分、映画を見ながら泣いている自分など…)
それがわかれば、
苦しみ(感情)を客観視することで
私は苦しんでいる
↓
何故苦しむのか
↓
こんなことをされたから、
それが手に入らなかったから
それが消えてくれないから
等々
↓
それでは、それに苦しむ理由は何だろうか
↓
こんなことをされるのが嫌いだから
それが手に入らないと嫌だから
それが消えないと嫌だから
↓
それを嫌がる「私」は絶対的に固定された本当の私なのか
↓
そうじゃない。ならばその嫌がる自分の姿に囚われる必要もない
(この記事で詳しく説明しています。)
と、何かをしながらも、何かと関わりながらも
何もしない、何とも関わらない時の平穏を得られることも、
さらには幸せでいることを選択することも出来ることに気づけるのです。
冒頭の説明に戻りますが、
頑張るをやめる、自分軸で生きる、ありのままの自分を受け入れる、嫌われる勇気を持つ、これらの気づきの本質は
苦しみから解放され、幸せに生きる。
だけではなく、
そもそも苦しみも、幸せもすべて自分の中にあった。
と、さらに気づくためでもあるのだと、僕は思っています。
そしてそれが心が聞きたがっていた話の本質であることも。
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何もしない、何とも関わらないことからの平穏を
もっと続けたいですか?
良いことです。あなたが納得出来るまで、
跳躍が出来る準備が整うまで続けるのです。
自分への愛を、自分軸を取り戻すため
自分だけを最優先にする時間を満喫していますか?
良いことです。あなたが納得出来るまで、
皆私と同じ大切な存在であることを知るまで続けるのです。
幸せも、愛もすべて自分の中から生まれることに、
私と同じく相手もそうであることに気づけましたか?
その幸せと愛をみんなと分かち合うのです。
分け合うことで倍増される瞬間を一緒に見守るのです。
---
頑張ることへの恐怖が歪んだ前提から来たことに気づけば
頑張りは苦しみでも、孤独でもなかったことに気づけるのです。
そして私たちは、そんな人たちの頑張りと協力を
人生を楽しんでいると、幸せであると言うのではないでしょうか

決して他人軸になろうというわけでも、苦しもうというわけでもないからね。
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