私たちは、かつては自分が持っている嫌な部分を

ちゃんと捨てられたかのように生きては、

 

嘘のように嫌な部分を思い出し、

その嫌な自分の姿に気づいては

すぐさま自分自身に失望をします。

 

そして

 

かつては人に言われ、認められた

自分のある姿だけが自分であるように生きては、

 

その姿から少しでもぶれることを恐れたり、

違う姿で生きることを拒否します。

 

 

その嫌な部分は、

そのあるべき姿は

 

親から、先生から、友達から

嫌われた経験を元に、

 

また

 

親から、先生から、友達から

愛されるための努力を元に

 

〇と×をつけては

×を付けた部分を表に出してはいけないと、

自分の一部を奥へ、奥へと隠しては

それを捨てられたのだと自分を騙し、

 

〇を付けた姿以外であってはいけないと、

自分の一部だけを表に、表にと演出しては

それだけが自分であると自分を騙す。

 

自己嫌悪も、人への厳しさも

すべては自ら作り出した〇と×から来るものなのです。

 

その自分だけの〇と×に拘り続けるから

さらに、さらにと×が増えていき、

さらに、さらにと〇で無ければならない理由も増えていくし、

 

だから大人になればなるほど

疲れるし、人が信頼できず、人生が苦いモノになっていく。

 

 

 

じゃあ、

 

その〇と×への観点が変われば、

世の中を見る視点も変わるということなのです。

 

それは別に難しいことでも、複雑なことでもなく、

 

ただ

 

 

×と思っていた姿を持っていても大丈夫と認める

 

そして

 

〇と思っていた姿だけに拘らなくても良いと認める

 

だけで良いのです。

 

 

弱い自分も、怠けた自分も、悲観的な自分も、

強い自分も、真面目な自分も、楽観的な自分も

 

すべて状況と場合に合わせて表れるだけのように、

 

自分の嫌な部分、好きな部分

ぜーんぶ持っていてはじめて自分であり、

 

今まで判断していた人のイメージもまた

一部しか見ることが出来なかっただけのことに気づくこと。

 

許しと理解は、そこから生まれるのですニコニコ

 

 

 

 

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これまでの頑張りは

人から嫌われたくない、もっと好かれたい、

人の役に立つことで自分の価値を認めてもらいたいがゆえに人の上に立ちたい思いまでもがあった。だから我慢して、合わせて、本音を殺してきた。

 

しかし、その頑張りには

人から嫌われた時の苦しみが、好かれていない時の苦しみが、

人の役に立てなかったことで自分の価値に疑問が生まれたゆえに自分が惨めに感じることも多かった。もしくはたった1度のミスによる苦しみがあまりにも大きかった。

 

だから頑張るのをやめる。

 

自分軸で生きる、ありのままの自分を受け入れる、嫌われる勇気など、その言い方はそれを伝える、受け取る人によって様々ですが、この気づきの本質は

 

苦しみから解放され、幸せに生きる。

 

であるのだと思っています。

 

しかし、(かつての僕を含め)多くの人がこの「頑張るをやめる」ことの本質を、ちゃんと見られてないことがあります。

 

 

頑張るをやめるの本質が

苦しみから解放され、幸せに生きる。

 

であることまではわかったけど、

 

苦しみから解放され→幸せに生きる

ではなく、

苦しみから解放される=幸せになれる

 

と、非常に微妙な違いを同じものと誤解されることがあるのです。

 

 

だからなのか、とにかく自分の苦しかった人間関係や、

その場所(家庭・会社・学校など・・・)から離れては

 

何もしない、何とも関わらない

 

ことに至ってはさらなる課題が生まれることもある。

(何もないのに妙にモヤモヤしたり、どこか虚しさがあったり…等々)

 

その違いをちゃんと見られてないということを

決して悪いと言うわけでも、間違っていると批判するわけでもありません。(むしろ批判してはいけない)

 

そういう解釈、反応が出てきたということは、

それだけ「何もしない、何とも関わらない」という結果に至るほど

それまでの歩んできた道のりが、生活がしんどかった、苦しかったというわけですから。

 

 

嫌われないために、もっと好かれるために、認めてもらうために我慢し続けて、自分の本音を何度も何度も殺しながら生きてきた人の中には苦しみがあまりにも大きすぎるため、

 

自分を生きるということも、ワクワクすることにチャレンジすることも、輝く未来に向かうことも頭ではわかっていながらも、

 

心では

「とにかく今の苦しみから解放されたい」

「とにかく休みたい」

「とにかく平穏な状態を味わいたい」

という切実な願いが叫び続けられているため、

 

何もしないで安らぐこと以外のことまで

幸せについて受け入れる余裕が無かったのです。

 

 

苦しみへの反応や苦痛は人によってその基準が全く異なるものなので、あんなことがあったのにもすぐに立ち直った人もいれば、こんなことに見えてもその人からすれば一生ものの傷になることもあるように、

 

何もしない、何とも関わらない

 

状態が長いということは、それだけ回復までの、今まで殺してきた自分の本音との仲直りまでの時間が必要なだけの話なのです。

そこに良いも、悪いも、正しいも、間違いもあるはずがない。

 

ただ、その状態が目的や終着点ではなく、

次のステージ、更なる幸せのための準備期間であるということを知っておくだけで良いのです。

 

 

---

 

 

苦しまない、辛くない=幸せ

でも、

 

苦しまない、辛くない=ワクワク

でもないことに気づけば

 

何もしない、何とも関わらないことで得られるのは

平穏でニュートラルな状態であることがわかります。

 

 

かえていうと、

何もしない、何とも関わらないことで平穏な状態になるということは、

逆に何かをする、何かと関われば平穏な状態じゃなくなる可能性が生まれる。

 

 

悲しいことながら、人生において苦しみは一生私たちに付いてきます。まずはこの事実を認める必要があるのです。

 

そしてその苦しみの正体を理解すれば、

苦しみ自体を人生から無くすことは出来なくても、

その都度それらから自由になることも、さらには幸せになることも出来る。

 

これもまたよく誤解されがちなことで、苦しみはある対象から来るものではなく、実は自分の認識から生まれてくるということです。

 

 

例えば、その対象が高級外車であれ、憧れの人であれ、

それをある形として追求(車を買いたい、その人と付き合いたいなど)するまでは良いのですが、追求した結果が望んだ通りにならなかった時に苦しみが生まれます。

 

詳しく例えると、高級外車や憧れの人はあなたを苦しませるためにいるわけじゃないのに、勝手に自分で執着したり、そこで傷付いた記憶を何度も何度も繰り返すことでその苦しみが強くなる。

 

ここでまた誤解してほしくないことは、だからと言ってその対象を無かったことにしたり(ことも出来ないが)、諦めれば虚無感に陥りますし、それを追求する意思なんて生きている以上消すことは出来ないということです。(例えで車や人を書いただけで、その対象は一生変わり続けながら私たちの目の前に表れます。

 

もっともっと分かりやすく例えると、ある虫がどれだけ嫌いでもそれが目の前に表れてそれが認識出来ない限り、嫌悪感や苦しみは生まれないですよね。苦しみの対象はちゃんとどこかにいるはずなのに。対象の存在が苦しませるのではなく、対象への認識が苦しませるのです。)

 

このブログで何度も何度も伝えているように、

自分というものは苦しい自分とも、楽しい自分とも固定されず

その場その状況によって常に変わり続ける存在ということです。

(お笑いを見ながら笑っている自分、映画を見ながら泣いている自分など…)

 

 

それがわかれば、

苦しみ(感情)を客観視することで
  
私は苦しんでいる

何故苦しむのか

こんなことをされたから、
それが手に入らなかったから

それが消えてくれないから

等々

それでは、それに苦しむ理由は何だろうか

こんなことをされるのが嫌いだから

それが手に入らないと嫌だから

それが消えないと嫌だから

それを嫌がる「私」は絶対的に固定された本当の私なのか

そうじゃない。ならばその嫌がる自分の姿に囚われる必要もない

この記事で詳しく説明しています。)

 

 

と、何かをしながらも、何かと関わりながらも

何もしない、何とも関わらない時の平穏を得られることも、

さらには幸せでいることを選択することも出来ることに気づけるのです。

 

 

 

冒頭の説明に戻りますが、

頑張るをやめる、自分軸で生きる、ありのままの自分を受け入れる、嫌われる勇気を持つ、これらの気づきの本質は

 

苦しみから解放され、幸せに生きる。

だけではなく、

 

そもそも苦しみも、幸せもすべて自分の中にあった。

 

と、さらに気づくためでもあるのだと、僕は思っています。

そしてそれが心が聞きたがっていた話の本質であることも。

 

 

---

 

 

何もしない、何とも関わらないことからの平穏を

もっと続けたいですか?

 

良いことです。あなたが納得出来るまで、

跳躍が出来る準備が整うまで続けるのです。

 

 

自分への愛を、自分軸を取り戻すため

自分だけを最優先にする時間を満喫していますか?

 

良いことです。あなたが納得出来るまで、

皆私と同じ大切な存在であることを知るまで続けるのです。

 

 

幸せも、愛もすべて自分の中から生まれることに、

私と同じく相手もそうであることに気づけましたか?

 

その幸せと愛をみんなと分かち合うのです。

分け合うことで倍増される瞬間を一緒に見守るのです。

 

 

---

 

 

頑張ることへの恐怖が歪んだ前提から来たことに気づけば

頑張りは苦しみでも、孤独でもなかったことに気づけるのです。

 

 

そして私たちは、そんな人たちの頑張りと協力を

人生を楽しんでいると、幸せであると言うのではないでしょうかニコニコ

 

 

決して他人軸になろうというわけでも、苦しもうというわけでもないからね。

 

 

 

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私たちは誰かと恋愛や夫婦関係になると、

 

お互い

「好きだよ」

「愛してるよ」

などの愛情表現をします。

 

しかし、お互い付き合う時間が増えるにつれ、

価値観や意見の違いが見え始めては

 

「好きと言ってくれたのに」

「愛されてると思ったのに」

 

と、付き合うようになった切っ掛けや

付き合ってからの愛情とその表現を思い出しては

 

相手の人に失望したり、裏切られたと感じられ

ケンカをしたり、拗ねたり、憎しみ合うことがあります。

 

そういう時は

 

好きと全肯定は違うものなんだなー」

「自分も相手のことを全肯定までは出来ないもんなー」

 

と認めれば、一気にお互いへの理解が深まるのです。

 

 

そもそも、自分の子供や親はもちろん、

自分のことさえも理解しきっているとは中々言えないのに、

相手のことを完璧に理解出来ないまま全肯定することは出来ないものです。

 

最初の出逢いや付き合ったばかりの時期には

それだけ一緒にいる時間が短く、お互い自分の一部の姿しか

見せられないため、

 

その一部の姿を相手の全てと誤解しては

相手を全肯定出来てる自信を持ちながらも

段々「あれ…?」と思い始めるのが当然の流れでしょう(笑)

 

 

このように、

相手に「肯定出来た部分」や相手から「肯定された部分」と

「全肯定」は違うことを自ら認め、

 

相手が新たに見せてくれる(見えてくる)様々な姿から

新たに「肯定出来る好き」を少しずつ増やしていくことで

お互いへの理解も深まっていくのではないでしょうかニコニコ

 

 

 

 

 

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縁起が悪い、縁起の悪いと言って

避けたがる、それが起きると心配をすることがあります。

 

あなたにとって縁起の悪いことは、

 

月が赤く見えることですか?

それとも、
 

夜に爪を切ることですか?

 

道端で黒猫を見かけることですか?
 

箸が折れることですか?
 

靴紐が切れることですか?

 

 

---

 

 

縁起の悪いことは

「今」目の前に起きているある出来事を条件に

「未来」に起きるであろう出来事を予想したい心の表れであり、

 

その心は予想することの出来ない未来への

不安を減らしたい心から生まれ、

 

不安を減らしたい心は

恐怖と恐れへの否定から、

 

恐怖と恐れへの否定は

恐怖と恐れへの執着を生むのです。

 

そしてその恐怖と恐れへの執着は

 

いつか自分に起きた出来事を元に、

その出来事への自分の解釈を元に、

自分の解釈による感情を元に生まれ、

 

果てにはその執着を

折れた箸に、黒猫に、赤い月に結び付け

さらに、さらにと自分を恐怖に自ら束縛させる。

 

 

---

 

 

このように、言葉と心を探って行けば

縁起の悪いことの実体は通念的思想以外どこにも存在せず、

 

ただ自分の心と出来事への解釈だけがあり、

それらが実体のない恐怖を作り出すことがわかるのです。

 

今まで言われ、教えられて来た

通念(縁起の悪いこと)に対し、

 

自分の心が自らの解釈に囚われず、

ただ出来事への因果と心の反応を見守ること。

 

こうしてまた一つ、心の自由を

自ら手に入れられるのですニコニコ

 

 

 

 

 

 

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本当の愛とは

 

本当の勇気とは

 

本当の幸せとは

 

本当の豊かさとは

 

本当の自由とは

 

 

私たちには夢と希望を持てる存在としてこの世に生まれたおかげで、夢と希望と共に、ある理想を持つようになるのだと、僕は思っています。

 

私たちの寿命が延び、より健康でいられ、生活においても人類史上最も豊かで便利な世の中になったのは、私たち人間が持つ理想への信念と諦めない心が無ければ決して成し遂げられなかったことも事実でしょう。

 

 

しかし、時にはこの「理想」が私たちを苦しませることもあるのです。

 

理想があるおかげで私たちは個人的な欲と成長を超え、人類の発展に繋げられることになるため、理想はそれだけで完璧で美しいものであるのだと思っていますが、

 

それと同時に私たちは現実を生きているため、どうしても理想と現実を比べることになるのも事実です。

 

この事実が理想への原動力になれば良いのですが、問題は理想と現実のギャップがあまりにも大きいおかげで初っ端から諦めてしまうことも多いのです。

 

そして理想というものは人によってその形も、基準も異なる。

 

冒頭で書いた

 

本当の愛とは

本当の勇気とは

本当の幸せとは

本当の豊かさとは

本当の自由とは

 

の、「本当の」というものには

どういった基準が、形がありますか?

 

自分の犠牲にありますか?

 

命さえも惜しまない志ですか?

 

永遠なる継続性ですか?

 

物理的な地上楽園の実現ですか?

 

 

---

 

 

先ほど理想があるおかげで個人的な欲と成長を超え、人類の発展に繋げられることになるため、理想はそれだけで完璧で美しいものであると伝えました。

 

 

その理想がどんなものであれ、どれだけ高く、尊いものであれ、その理想を持つこと自体には何の問題も無いどころか、むしろ理想は持つべき大切なものでありますが

その理想と現実との比較が、理想への執着が

諦めを、苦しみを生むのです。

 

 

あなたが持つ愛に犠牲が無いからと言って

その愛が惨めな愛になることも無ければ、

 

あなたの感じる幸せに継続性が無いからと言って

その幸せがウソの幸せになることも無いように

 

理想を実現させた先に愛が、幸せがあるのではなく、

それらの道を歩みながら理想に近づいて行くのです。

 

 

---

 

 

あなたにとって最小限度

愛は、幸せは、勇気は、豊かさは、自由は

どんな姿をして、どんな基準を持っていますか?

 

それらの姿を、基準を

さらに身近なものに、さらに手ごろなものに

変えられそうですか?

 

もっと、もっとその基準を下げるのです。

 

下げて、下げて話にならないぐらい下がった所に

隠れていたそれらの種を自ら確かめるのです。

 

 

そして旅の醍醐味はその目的地になく、

目的地までの道のりにあることに、

旅そのものが目的であることに気づくのですニコニコ

 

 無欲、最小限度だけを追求しようではないからね

 

 

 

食の満足の基準も、下げよう
カレー食ったばっか
 
 

 

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