サッカーについて②
勝たなければ話にならないものの、
ほとんど誰も勝つとは思っていなかった
カメルーン戦の勝利。
終盤、怒涛のようなカメルーンの攻めを何とか防ぎきって、
虎の子の1点を守り抜いた様は
「がんばった」の一言に尽きると思う。
これで日本サッカーの歴史に新しい1ページが書き加えられた。
さて本題。
1960年代、デットマール・クラマーの来日と釜本邦茂の登場によって
日本サッカー界はようやく産声を挙げる。
1968年のメキシコ五輪銅メダルでサッカーは一躍時代の寵児になり、
そしてすぐに忘れ去られた。
08年北京の前後のバドミントンやビーチバレー、
そして五輪直後のソフトボールと同じ状態だ。
しかしサッカーにとって幸いだったことは、
サッカーがソフトボールとは違い、
世界的なアイコンを持っていたことだろう。
そして、その世界的アイコンは定期的に全世界へ発信されるようになっていた。
言うまでも無くワールドカップ、ペレ、マラドーナ、ジーコ、クライフ……
サッカーを愛する少年たちは、一時的な日本代表の活躍だけでなく、
ペレやマラドーナになりたいという野心を持つことで
競技への愛着と興味を保つことができた。
これは、日本におけるどのスポーツにも無いことである。
野球は、日本伝統のものが尊重されすぎて、
メジャーへの興味はそれほどでもなかったと同時に、
メジャーの頂点を決めるものは年に1回行われるクラブ間の
戦いしかなく、そこに世界や国家が介在することはなかった。
何より野球は巨大すぎて、ナショナルヒーローへの憧れだけで
世界に通用しうる力を養成していくほどの成熟した実力を持っていた。
その「世界」が狭い、という反論は当然あるにしても。
バスケットボールは逆だ。
明らかに憧れの対象となるのは世界で、
その世界とはアメリカだけで完結していて、
4年に一度の世界選手権は未だにほとんどの人が注意を払っていない。
マジックやマイケルになりたいという野望は、
昔も今もバスケット少年が抱えているものではあるが、
それはもうジレンマに近いかもしれない。
なれないのだ。
少なくとも、なるためのステップが日本には用意されていない。
サッカーはそのステップを、68年から93年まで長い間放置したにせよ、
用意することに成功した競技だ。
そして、そのステップが用意されたとき、
人々がそこに関心を向けるタイミングであったという幸運もあった。
プロ化による強化を目指した競技は、何もサッカーだけではない。
もしバレーボールが東洋の魔女の時代にプロ化していたら、
バスケットボールが「ナイキとジョーダンとスラムダンクの時代」に
プロ化していたら、彼ら彼女らはサッカーのようになれたかもしれない。
いや、言い方が悪い。
プロ化の準備が整った頃に、東洋の魔女やマイケル・ジョーダンが
登場していたら。
70年代前半から90年代前半まで、
20年間サッカーが何をしていたのかはよく知らない。
だが、その間ブラジルのマジカルカルテットがあり、
ヨハン・クライフによるサッカーの進化があり、
子供たちがサッカーへの関心をつなぎとめる要素があったのだと思う。
だが少なくとも、この時代はONの時代であり、サッカーが日本のスポーツメディアに
強烈な印象を残す時代ではなかったと思う。
そして時代は巨人の不遇の時代に入り、サッカーに好機が訪れた。
着々と準備した川渕三郎によるJリーグ。ドーハ。マイアミ。ジョホールバル。
90年代はサッカーの時代だったのかもしれない、と本気で思う。
波は一度に大きく来てはいけないのだと確信してしまう。
断続的に、10年間波が続けば確実に競技力は上がる。
ジョーダンとドリームチームの衝撃は92年バルセロナ。
スラムダンクは96年で連載終了。
96年アトランタはドリームチームⅢで、そこにジョーダンはいなかった。
97年から99年までジョーダン・ブルズの3連覇は続いたが、
日本国内のバスケット熱はそこで冷めてしまった。
結局、バスケットは日本人に向いていないという諦めもあったかもしれない。
結局、代表が何も成し遂げられなくては真の定着はしないものだが、
代表が何かを成し遂げても定着をしない不幸な競技もある。
そういう中で、サッカーは色々なタイミングが噛み合った。
たとえJが低調で、代表が罵声を浴び、CLに飽きが来ている時代でも、
それでも4年に一度やってくる祭典は盛り上がる。
代表に僅かな期待を寄せながら、無心で世界のサッカーを楽しめば、
何かしらの得るものがあるように思える。
ワールドカップが手にした権威は、それほどの力がある。
他の競技には、それが無い。
誰もが楽しめる「世界」か、僅かでも期待を寄せられる「代表」か、
その大会が超人たちの戦いであるという「権威」か。
その3つを持ち、タイミングを捉えて日本人全てに訴えることができる競技が
あれば、それは次のサッカーになれると思うのだが。
サッカーについて①
スポーツと関わる上で避けては通れない競技、サッカー。
しかし自分は、この10年サッカーをほぼ避けてきた。
それはなぜで、サッカーとは何なのか。
ワールドカップが行われる1カ月、いい機会なので
いろいろと考えてみたい。
自分とて、初めからサッカーが嫌いだったわけでも、
日本代表に反感を持っていたわけでも、
サポーターと呼ばれる集団を軽蔑してきたわけでも、
その難易度の高いゲームへの理解に苦しんでいたわけでもない。
ドーハの悲劇にはそれなりに落胆し、
(だが、ワールドカップというものを十分に理解したのは
ジョホールバルの時だったかもしれない)
Jリーグの開幕にはまずまず興奮し、
マイアミの奇跡は、多分フルマッチ見たと思う。
だが、野球やバスケの理解が極度に進んだためか、
権威を嫌う性格が代表への熱狂を理解できなかったからか、
とにかく自分は次第にサッカーを好きでなくなった。
もっと正確に言うと、プロ野球の人気低迷ということが言われ始めた
90年代後半から、それに取って替わろうとするサッカーに対して
反感を抱いたのだと思う。
Jリーグの経営方針に倣えという言説には、
Jは身の丈が小さいがために問題が表面化していない
未成熟の組織だと反駁した。
もちろん、プロ野球が抱える構造的な問題については
憂慮しながらも。
野球は世界においてマイナースポーツであると言う。
では、なぜサッカーはメジャーなのか。
何が人々を熱狂させるのか。
それを知りたい。
野球は確かに退屈なゲームだと思う。
自分は好きだが、本質的には退屈なゲームだ。
だが、サッカーも状況が動きにくいという意味では似たようなものだ。
エキサイティングという要素では、バスケットボールやアメリカンフットボール
に敵う競技はあるまい。
それはいい。
それで、サッカーとは何なのか。
どこから来て、どうやって日本に染みつき、いつこんな巨大になったのか。
その辺りから考えてみたい。
先日見た、「日本サッカー50年の歴史」という4回に分かれた
ドキュメントは一つのヒントになるような気がした。
非常に濃厚な数々のインタビューが展開される、
重厚な取材に基づいた大作だった。
ラストは、少し歯切れが悪かったが・・・。
次回、このドキュメントを若干なぞりながら、
サッカーの来し方・行く末について述べていきたい。
パ党の叫び
日経新聞に豊田泰光氏がコラムを書いている。
半分は何をいまさら、半分はそういうものだろうかという論旨だが、
一つ前提を間違えている気がする。
今のセ3球団の惨状は、FAなどで主力を引き抜かれた結果ではない。
選手獲得と育成に眼力が無かった結果だ。
横浜のドラフト上位指名が、過去10年間で
村田と内川の2人しか成功していないのは有名な話だ。
ヤクルトも早稲田との濃厚なつながりを駆使しすぎて、
いらない選手ばかり上位で指名している。
希望を託した高卒の大型投手たちは、なかなかものにならない。
広島には同情する。
緒方、前田、金本、野村といった綺羅星のような戦力を持っていた時代でも
優勝はできず、年々先細りになって遂に栗原だけになった。
ただ、このチームも、マーティー・ブラウンという安くて奇抜なだけの
パフォーマーを何年も監督に据えていた代償は払わないといけないだろう。
球界のトレンドは常にパ・リーグが発信してきた。
DH制、予告先発、交流戦。
いずれもセは呑まず、パのマネなどできるかと言い、
巨人戦が減ることを肯んじなかった。
交流戦の草案は90年代後半には出ている。
実現するまでに5年以上がかかった。
そして実現してみて、世間はセ・リーグの惨状を知った。
とは言っても、今はパの一番いい時代であるのも確かだ。
だが、ドラフトで素晴らしい才能を引き当てるのが常にパ・リーグなのは、
そこに着目した功績だ。
思えばダルビッシュも涌井も単独指名だ。
競合したのは田中や雄星ぐらいで、
杉内はほとんどどの球団も関心を寄せなかった自由枠。
岸は大隣が目玉と言われた中で、西武が着々と
スカウティングを続けた結果巨人を蹴った。
岩隈は誰も見向きもしなかった堀越からの下位指名だ。
その間、セ・リーグは大学球界の名だたる選手をかき集め、
そのほとんどが期待外れに終わった。
成功したのは石川ぐらいだ。
パ・リーグは西武の黄金時代が終焉してから、
死に物狂いでセを超える努力をしてきた。
メジャーリーガーはほとんどがパ・リーグ。
日本代表はほとんどがパ・リーグ。
その事実があっても、巨人トレンド率いるセ・リーグブランドは崩れない。
そうした風潮をせめて実力で凌駕するべく、努力した結果が
今のセの下位球団とパの下位球団の差になった。
西武を見てほしい。
90年代後半から見て、豊田が巨人へ。松坂と松井稼頭央がメジャーへ。
和田が中日へ。カブレラは西武の自由意志だが、放出した。
これだけの主力が流出しながら、まだ優勝争いをしている。
12球団の中で、広島に次いで低い総年俸でありながら。
全てはスカウティング。
中島は松井稼頭央がいなくなる前年に、既に一軍で使えるメドが立っていた。
今はその中島の流出に備え、浅村英斗が英才教育を施されている。
西武のドラフト方針は明確だ。
有名な選手には見向きもしない。
自分たち好みの選手であれば、どんなマイナーな選手でも取る。
そして、目当ての選手以外は誰が残っていても取らない。
指名を繰り上げるだけで、少数精鋭を保つ。
それが全て正しいとは言わないが、先を見据えて
現在固まっているポジションの将来を考えている。
その賜物が常勝西武と呼ばれる強さだ。
日本ハムも高田GM時代は、面白い指名で大きな成果を得た。
ロッテも最近独自ドラフト色が強くなっている。
パ・リーグはそうしないと生き残れない。
巨人戦収入で垂れ流しの赤字をせめてもの埋める、
それだけを考えていたセ・リーグの、旧態依然とした
組織では及ぶはずがないのだ。
