言語学習においてはインプットがなければ元も子もないですが、最終目標は学んだ言葉の使用、つまりアウトプットです。私の今までの日本語の勉強でフラッシュカードのデッキが中心的な役割を果たしました。AIを活用したアプリでフラッシュカードのデッキで単語を復習するのは間違いなく効率のいい学習法ですが、インプット中心になりがちです。それで、単語を身につけるにはアウトプットをしつつ、楽しくゲーム感覚でできる勉強法はないかと考えるようになりました。その結果、以下の勉強法を思いつきました。デッキの学習を進めながら、出てきた単語を出た順に使って一貫性のある文章を作ることです。この勉強法の実例が下に書いてあります。文章自体が私の思想をそのまま表現しているというよりも、空想のペルソナの視点を借りて書いたと理解していただけたら幸いです。興味のある方は、ご一読ください。そして、「この勉強法はいいかも!」と思われた方はぜひご活用ください。
実例
私はこの世にあって冷遇を受けているのだ。誰からかというと、一般社会からだ。貢献する思想があるにもかかわらず、その思想を形にする機会に恵まれず、今までは宝の持ち腐れだ。だが、それは人生ではないか。丸腰で兜首を取るのは至難のわざだ。舐めてはいけない。この人生に挑むのは小児が巨人に挑むようなことである。気泡が針に戦いを申し込むようなことだ。うかつに針に近づくと破裂する。一つの軽挙で人生を棒に振うことだって日常茶飯事だ。
こんな人生に置かれ、私は幾度も途方に暮れ、項垂れ、気が気でない心境で頭をぼりぼりかくことしか芸のない獣人間に化したこともある。自分に任されている辺鄙な領域をいいかげん他に割譲して、この世を去りたいと渇望するような思いもいつも内懐に潜んでいると否めない。だが、生存を断念する思いがあると同時に、「生きろ」と訴えかける思いもある。人は憂鬱になっても心臓の鼓動が続き、肺の膨張・収縮が続き、腎臓から膀胱へと尿が流れ続ける。体の各器官は生きることに余念がない。暗い谷間に落ちている時こそ、鮮明に輝く満天の星を仰ぐ千載一遇の好機だ。が、心の声がうざったいほどに耳元に世迷言を囁き、さらなる底辺へと追い込もうとする。巨大な龍の本影にいるときは、半影さえ遠く感じてしまう。少しの光明を浴びようと足掻いても龍がその鎌首をもたげて無慈悲に炎をふっかけてくる。
どんな勇敢な戦士にも龍の炎は恐ろしいものだが、その熱が思いのほか望ましい化学反応を起こすこともある。未熟や無知、鈍感などの原子が龍の炎に熱され、結合し、年の功という分子に成り変わる。やけどのトラウマがパニック障害の発作のように我が身を襲おうとも、それへの降参は物の数ではない。出世魚が大きくなっていくに伴って名前が変わると同様に少年と称された者が大人という名を勝ち取る。