本日は歴史の話。

私が(あくまでも)思っている歴史史観についてです。

 

明治維新=日本の近代化に大きく寄与、文明開化、というポジティブな印象が今も強いと思います。

結果的に、明治~大正にかけて、日本は大きく発展したことは事実です。あからさまに否定するつもりもなく、この点はおおむね肯定的です。

だが、いまだに「明治維新を成し遂げた薩長は素晴らしい、江戸幕府・徳川家は時代についていけない、愚かであった」という見方をする人がかなりいます。

ここ数年、さまざまな書籍によって、それが必ずしも正しくないことは証明され始めてきたのは、喜ばしい限りです。

 

まず、ペリー来航により、幕府の権威が大いに揺らぎ、討幕~維新につながった、という見方ですが。

ペリー来航から討幕までは15年ほどかかっております。

もちろんその間、日本国内は大いに動揺し、激動の時代であったことは言うまでもありませんが。

ペリー来航後も幕府は15年間続いています。

その間、確かに幕府の政策も必ずしもすべて良いとは言えませんが、ペリー来航に際しては、言われているほどの動揺を見せず、浦賀奉行所などが冷静に対応し、翌年に和親条約を締結し、事なきを得ています。

この和親条約締結が、事実上の「鎖国」終了となるのですが。

幕府は数十年来、欧米諸国が東アジア近海を訪れ、しばしば交易・通商を要求していたことや。

アヘン戦争で清が大敗したことも認識しており、そのあたりの対策は(万全とは言えないが)幕府なりに検討していました。

なので、鎖国を終えるということもある程度は念頭に入れていたと思われます。和親条約締結は、その時代の流れからすれば決して間違っていないと思います。(アジアの植民地化の一端とみられるでしょうけども)

むしろ、鎖国終了に憤慨したのは、各諸藩の面々。

水戸藩がその典型ですが、長州や薩摩の下級武士たちもこれにならう。

結果として、彼ら尊攘派といわれる面々が、討幕を果たした形なので、幕府の政策が誤っていたという「勝てば官軍的」な論理に基づいて、歴史が語られてしまっています。

 

討幕という論理が出始めたのはいつ頃なのか?

おそらく慶応年間(1865~)以降ではないかと。

となると、ペリー来航から少なくとも10年以上は立っており、ペリーが来たからさあ幕府を倒さなくてはいけない、ということではなかったのです。

慶応年間に入る頃までは、少なくとも幕府主導で政治は動いていたはず。

もちろん、朝廷や薩摩、長州あたりからの横槍はありますが、圧倒的に力がある幕府・徳川家です。

薩摩で言えば西郷や大久保ら一部の下級武士たちはともかく、藩主の貢献者だった島津久光ら薩摩の首脳部のほとんどは、「佐幕」であり、討幕に傾いたのも、鳥羽伏見の前夜といっても大げさではないくらいだったそうです。

 

しかし、長州という、あくまでも幕府に徹底的にたてついた存在がありました。

もし、「幕府がやばい」という雰囲気になったとすれば、いわゆる第二次長州征伐で、幕軍が勝てずに終了したことでしょう。

たかが防長37万石の一大名毛利家を倒せず、それどころか一敗地にまみえる、ということが、結果として幕府の権威を大きく失墜させたのでしょう。

 

そして、慶応4年(1868)正月に起こった鳥羽伏見の戦い。

私はこの戦いは、日本史上において歴史の流れを最も劇的に転換させた戦いだと認識していますが。

圧倒的優勢だった旧幕府軍が、薩長に敗れ、一気に討幕へと突き進んでいきました。

どうも幕府は、薩長が本気で戦ってくるとは思わず、大軍で推し進めれば、薩長は逃げだし、楽々と京都に入れると思い込んでいたとか。

そこに、案に反して決死の薩長が捨て身の攻撃で戦い抜き、最後に勝利を得たというのが真相のようです。

正規の政府軍に、テロ集団が勝ったようなものではないでしょうか。

 

ここ一番で幕府側の腰抜けぶりが晒されたことになりました。

が、だからといって幕府側に人材がいなかったわけではありません。

それどころか、多くの俊材が幕府にはおり、それらの人材が日本近代化の陰の立役者となって事実を学ばなくてはいけないと思います。

その話はまた後日します。

写真は、その俊材の一人、小栗上野介。

(日時指定投稿です)

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