昨晩、書いた原稿から、

フラッシュヒットが

でましたので、続いて書きます。


僕は、いつも指導者が不在で、

自分がすごく困ったり、苦しんだり

してきました。しかし、じつは、

それがよかったんだ、と

思ったんです。

誰からも的確な指導を

受けたことがない笑。

また、いい指導者も

俺が出会うと

決まって遠ざかる。

そういう運命であった

わけですが、じつは

それが凄くよかったこと

なんだと気づいた。


指導者に恵まれないことに恵まれた。


これは、要するに、お手本がない

世界にいた、ということです。

正解や答えがない状態に

いつもいた。これは幸せな

ことだったと気づいたのです。

答えを出せる人がいなかった。

自分より前に答えを知ってる人が

いてくれなかった。ことがラッキー

だった。ぜんぶ自分で体験できたから、

です。自分で体験できたことだけを

考えてこれた。これが幸せなのです。

いつも、自分よりわかってる人が

いない、いてくれない世界に

いた。いつも、そうなってた。

だから、非常に、のたうち

まわるような体験も

してるんですが、

これが、よかった、

とふと、気づいた。



大昔に、僕にはある

憧れていた人が二名いました。

しかし、なぜか、その人たち

とは、遠ざかり、別れてしまって

いました。で、数年、修行した

時に、ある方から、「彼が

いなかったから、君は伸びた」

といわれたんですね。

それを、ふと、いま

さきほど、思い出したのです。

そういうことか!とね。


つまり、憧れのあの人が

そばにいたらダメなんですよ。

そばにいてもらったらダメなのよ。

でも、これは多くの大勢した

人には言えるんじゃないかなあ。


つまり、指導されないって

いうことの本当の豊かさ、

本当の凄さ、凄み、ってものを

やっと感じることができたんです。

その人がいたら、答えがあることに

なってしまうんですよ。答えがある

ことを見せられることは、その

世界に意味をなさない。答えが

あって、それを知ってる人が

おる世界では、ぜんぶ二番煎じ

になるんですよ。食えてもね。


逆にいえば、なぜ、指導されたら

だめなのか。なぜ、教わったらだめ

なのか。いい指導者に恵まれたら

だめなのか?これは、言葉足らずの

世界でいえば「指導者を超えられない」

ということになりますが、いやいや、

もっと深いような気がするのです。

それは、自分にしか直面してこない

ものごとを「超えられない」んですね。

ここだと思う。自分だけが直面する

事態を乗り越えられないんですよ。


これが指導者任せになってる人と、

指導者がいない我流の人では

世間体は違うかもしれないが、

土壇場や修羅場でものをいう力が

いかに大きいか、いつかわかります。

ということは、いい指導者に出会うと、

それがゆえの壁みたいなものが

ものすごく遅く現れてしまう。

だから、教わったら終わり、

習ったら終わりっていうのは

そこなんですね。独学や独特の

方法論を持ってるほうがいいん

です。答えをもってる人に

応えられたらいけないんですね。

答えをもってる指導者っていう

ものには、ろくなもんがおらん。

応えはぜんぶ二番煎じです。

そういう模範解答みたいな

もんをよしとしていたら、

大変な目にあう。大怪我するんです。



答えがないところから

答えを出すのが社会なんでね。

答えはないんですね、前提として。



だから、俺にはいつも指導者が

いなかったし、これからも現れる

ことはない。もう、現れることは

ないんです。なぜなら、指導されて

こなかったおかげで、俺は自分で

ぜんぶ考えられた。考える力が

身についた。人生でどこに

ハマルか、とか、ドコに溝が

あるか、みたいなことを

指導者がいてくれると

回避できます。だから、

ひ弱になるんですよ。

回避するために、

会費なんてのは

あるわけでしてね。

それが会費なんです笑。


自分で編み出さないといけない。


とくに、自分が生き残るには自分の

作法や打法を見に漬けなければいけない。

これは絶対に真似のできないものです。

人の力は借りれない世界。だから、速い

うちから、自分で勝手に成功や失敗を

繰り広げてるほうがいいんですね。

指導者に出会うと、失敗するって

いう機会、その大失敗してみる、

っていう最大のチャンスを失います。


徳川家康みたいに、若いときに、

無茶をしてみて、それでわかったこと

とかね、そういう大失敗、大しくじり

みたいなことがないと、いけない。

じつは、最大の失敗こそが最大の

成功のもとなんです。その失敗、

ああ、こりゃひでーな、っていう

実験結果みたいなもんを自分で

確かめないといけないんですね。

いい指導者は、そういう悪い実験を

させてくれないんですよね笑。

いつも正解を出してくれることが

いちばん不正解、いちばんの間違い。

実験とは事件ですからね。

そういう、やってみる、

しでかしてみる、やってみせた

失敗やしくじり、みたいなもんが

最大の栄養になるんですね、後年。


いい指導者というのは、大体その

失敗を未然に防いでしまいます。

だから、後で見たらわかるように

ぜんぶ同じような系譜や系列に

なってしまう。それは全滅されられ

やすいんですね。その指導者の

キャパシティを超えるものが

出ない。いわゆる、定型に

なってしまう。フォーマットに

なってしまう。そして、それが

その系譜に連なるものたちの

世界を凄く縮めてしまうんです。

すごく世界を狭めてしまう。

そのお手本が、本当は世界を

知らない、っていうことを

知らないから、なんです。

これが一番ダメな形です。


指導者がいるとね、絶対に

ナンバーツーで終わるんですね。

自分の意見をもつことがないわけ。

トップにたてない。立たなくて

いい人はいいでしょうが、いつも

風下です。指導者の下にいると

名前は出ません。覚えてもらえない。

あれはあれの弟子、といわれるよね。

指導者を超えれば名前が出ますね。

弟子だとしても弟子だとは呼ばれない。

「ああ、あの人なら知ってます」と

いわれる。これが「超えた」姿です。

指導者の横にいなければいけない笑

指導者の真横にいなければいけない。


僕は、いい指導者に恵まれなかった。

あるいは、いい指導者はいたかも

しれなかったが、合わなかった。

あるいは、その指導と合わなかった。

でも、そのおかげで、非常に気楽です。

彼らのおかげでなにか恩恵を蒙った

わけじゃないからです。彼らの

指導通りにやって、段位を上げた

わけじゃないです。その彼らは

今でも立派な方です。しかし

そのお世話になって俺は上がった

わけじゃないです。俺の弟子と

彼らは同レベルです。弟子の

レベルです。そういう構造に

世界はなるんですよねえ。