テレビ番組の視聴体験は、この30年で驚くほど変質した。かつてテレビは「窓」だった。外界の空気や情景、音楽、物語が流れ込み、視聴者はその窓辺に腰掛けて世界を眺めていた。ところが今、民放をつけるとその窓は「押し付け広告のスピーカー」に置き換わってしまう。音量と反復で存在を叩き込むCMの設計思想は、視聴者を鑑賞者ではなく標的として扱っている。これは広告ではなく、もはやノイズ公害に近い。
その最悪の代表例がPayPayのCMだ。宮川大輔さんが持つ本来の人間味や演者としての魅力は、ここでは使われない。彼はただ「PayPay!PayPay!PayPay!」とやかましい声で連呼させられる。1度言えば伝わる。視聴者は馬鹿じゃない。連呼された瞬間、思考は止まり、耳は殴られ、テレビの電源を切りたくなる。CMを流す側は「刺激=認知」と錯覚しているが、実際には「必要とされていないから叫んでいるだけ」なのだ。商品やサービスとしての自然発生的な需要がないから、音の圧で刷り込み、反復の量で埋め尽くす。その必死さこそが、市場からの不必要性の逆証明になっているという皮肉に気づいていない。
一方で、今でもSteinway & SonsやVincent Bachのような一流ブランドがテレビCMを大量投下しないのはなぜか。答えは単純だ。必要とする人が5万といるからだ。CMなど打たずとも、顧客が自ら検索し、楽器店へ向かい、試奏し、購入へ進む。認知を「作る」必要がなく、認知が既に「証明されている」。さらに生産や供給が逼迫しているほど需要が強い。価値とはそういうものだ。だから叫ばない。魅せるだけで十分なのだ。
そしてJoeにとって、かつてのCMは歓迎できるものだった。サントリーロイヤルのBGMにマーラー9番が流れ、コピーには文学的な比喩が纏(まと)っていた。「芳醇な味わい、褐色の恋人、〇〇…」そんな言葉は単なる宣伝文句ではなく、情景を描く詩のように機能していた。ロバート・ブラウンのCMにハーブ・アルパートがかかる。あの頃のCMは、商品を説明するのではなく、音楽と比喩で“世界そのもの”を魅せていた。だから歓迎できた。CMすらも短編作品として成立していたのだ。
しかし今のCMは違う。作品ではなく「装置」になった。余白を奪い、耳を叩き、思考を止める。繰り返しと音量で価値を代替しようとする設計は、テレビというメディアそのものの品格を貶めた。これは単なる「うるさい」という問題ではない。「視聴者の思考の不在を前提に作られている」という構造そのものが問題なのだ。そこに慣れてしまうことこそ、一億総白痴化と言わずして何と言うのか。
広告は本来、文化と情景で記憶に残すべきだ。必要とされるブランドは叫ばない。叫ぶCMは不要の証明。テレビは再び「窓」に戻るべきだ。耳ではなく、余韻で魅せるメディアへ。