1月4日にS病院に転院した父だが、インフルエンザの流行で、8日から面会ができなくなった。

新しい環境に慣れただろうか?と心配していたが、22日の昼主治医から電話があり、父の容体が良くないとのこと。

早速面会に行ったが、私の呼びかけにも反応がなかった。

26日に二人の妹を呼んで見舞った時は、弱々しいながらも頷いたり、手を握り返してきたりしたので、何とか持ち応えそうだとひと安心した。

 

しかし28日にかみさんと訪れた時、先生から「今日明日が山・・・」と言われ、私は「ついにこの日が来たか」と覚悟した。

夕方、勤め先に明日は休むと連絡し、不安のうちに床に就いた。

夜半過ぎ、電話に出たかみさんに起こされ、S病院に急行。

当直医から父の死を告げられた。もう息をしない父に触れると暖かい。臨終には立ち会えなかったが、冷たくなる前に会えて良かった。

葬儀社(あいネット)に連絡を取り、妹に連絡し、一旦帰宅した。

 

1時30分、再びS病院へ。既にあいネットの車が待機していた。

遺体を車に乗せ、慈悲尾まで搬送する。搬送車の後に続いて、全く車の通らない真夜中の静清バイパスを走る。

霊安室に安置された時には、もう父の肌は冷たくなっていた。

葬儀等の打ち合わせを11時と決め、S病院を後にした。

2時30分に帰宅し、床に就いたが眠れないまま朝を迎えた。

 

29日9時、父の死をお寺に連絡。10時過ぎ、東京から急行した妹を迎え、かみさんと3人で慈悲尾のあいネットへ。

11時、枕経をして頂いた住職を交え、本部から来た営業マンと葬儀の打ち合わせ。住職はじきに帰ったが、打ち合わせはこまごまと3時間以上続き、疲れた。

通夜は2月2日18時、葬儀は2月3日12時30分、出棺は14時10分と決まった。

蕎麦屋で遅い昼食を取り、帰宅。

一休みして夕方、親戚数か所に連絡。

夕食後はドッと疲れが出て、すぐ寝てしまった。明日は仕事がある。

 

ー続くー