人間関係において、「好き・嫌い」という感情はどこから来るのだろうか?

以前の職場(出先機関)で課長をしていた頃、どうしても逃げられない直属の上司がいた。

 

結論から言えば、私はその上司が100パーセント嫌いだった。

偉そうで、他人に対するリスペクトが微塵もない。

「よくこんな人間を昇任させたものだ」

と、組織の人選能力を疑うレベルの人物だった。

 

着任してわずか二日目。 私は彼を「嫌い」だと断定した。

 

この判断の速さには、脳科学的な裏付けがある。

人間の脳には「扁桃体」と呼ばれる部位があり、何か出来事が起きた際、それが自分にとって「快(安全)」か「不快(危険)」かを瞬時に判断する役割を担っている。

 

例えば、目の前に蛇が現れたとする。

「これは蛇だ。噛まれたら毒があるかもしれない」などと悠長に考えていては命を落とす。

だから脳は理屈よりも先に、「蛇=危険!」という信号を全身に送るのだ。

 

扁桃体がこの判断を下すのに要する時間は、わずか0.02秒と言われている。

 

あの上司に対する私の「嫌い」という感情は、まさにこの生存本能による警告だったのだろう。

 

しかし、人間関係の恐ろしいところはここからだ。

人のコミュニケーションにおいて、言語情報はほんの一部に過ぎない。

表情、声のトーン、まとっている空気感といった「非言語コミュニケーション」が、口に出した言葉以上のものを伝えてしまう。

「嫌い」という感情を持てば、相手からも「嫌い」という感情が返ってくる。

心理学でよく言われることだが、私の「こいつは危険だ」という非言語のシグナルは、間違いなく相手に察知されていたはずだ。

 

そこからのパワハラは凄まじかった。

もちろん、そこには相手の人間性の問題も大きく関わっている。

 

現に彼は、別の職場へ異動した今でも部下にパワハラを行い、組織の調査対象になっていると聞く。

 

よく自己啓発書などでは、「悪いところではなく、良いところを探そう」と説かれる。

 

だが、世の中には極めて例外的な事例が存在する

 

探しても良いところが見つからない、あるいは悪いところが圧倒的すぎて良いところが霞んでしまう人間は、残念ながら実在するのだ。

 

当時、妻にだけは弱音を吐いていた。

「職場でこんな上司がいて……」と悪口交じりに愚痴をこぼすと、妻はこう諭してくれた。

 

「回り回って相手に聞こえるから、外で言うのは止めといた方がいい」 

「悪口は私にだけ言って、家の中だけにしとき」

 

妻の言葉は賢明だ。

組織の中で生きる処世術として正しい。

 

古代ローマの劇作家、プラウトゥスもこう言っている。

 

『人の悪口を言うときは、それが自分に返ってくることを予期しておけ』

 

だが、今の私はこの格言にどうしても納得できない部分がある。

 

「悪口が自分に返ってくる」という因果応報の理屈が通じない相手もいるからだ。

 

クズ人間は、クズ人間のままだ。

DNAと、その人格を形成してきた環境が彼を支配している限り、本質が変わることはない。

 

私が扁桃体の警告に従って0.02秒で感じた「危険」は正しかった。

無理に好きになろうとしたり、良いところを探そうとして心をすり減らすよりも、「この物体は危険だ」と認識し、心のシャッターを下ろして自分を守ること。

 

それが、どうしようもない人間と遭遇してしまった時の、唯一の哲学なのかもしれない。