ウィズコロナ時代のインバウンド 「新型コロナ流行のコントロールは可能」

6月に入り、日本では団体の外国人観光客を迎える用意が整った。しかし、外国人観光客が首を長くして待っていたこのニュースに暗い影がよぎった。第一弾として入国した外国人の団体ツアーで新型コロナウイルスの感染者が一人見つかったのである。そのほかにも、原因不明の小児急性肝炎が日本、イギリス、スペイン、オランダなどで続々と見つかっており、新型コロナウイルスの感染拡大と関係しているという報告もある。訪日観光経済の回復は日本の新型コロナ対策に緩和をもたらすのか、それともさらなる緊張をもたらすことになるのだろうか。そんな疑問を持って、5月25日、順天堂大学医学部附属順天堂医院の感染対策室を訪ねた。お相手は感染対策室副室長であり、小児感染症の専門家である久田研医師である。(文/青山 瞳)

 

久田医師は、同病院に感染対策室が設置されている理由を次のように語った。

「病院の入院患者にはさまざまな生活背景があり、免疫機能の状態も違います。患者同士のウイルス感染や医療従事者の感染を最小限に抑え、患者に安心・安全な医療環境を提供する、そのために感染対策室が設置されています。また、患者だけではなく、医療従事者に感染させないことも私たちの重要な仕事の一つです」。

また、原因不明の小児急性肝炎と新型コロナウイルス感染症の関係について、久田医師は次のように述べる。

「現時点ではまだ両者の直接的な関係を証明した報告はありませんが、原因不明の小児急性肝炎が多発している国ではオミクロン株の感染も多数確認されています。ですので、何らかの関係がある可能性は排除できないでしょう。また、今回の小児急性肝炎患者の半数近くからアデノウイルスが検出されたという報告もあり、それがこの急性肝炎の原因の一つだとも推測されています」。

感染対策が不十分だと、新型コロナウイルスが新たな感染症を誘発する可能性はあるのだろうか。久田医師もその点を不安視している。

「コロナ流行期には感染防止のためにマスクをしたり、ソーシャルディスタンスをとったり、以前にも増して手指の衛生に気をつけたりしたので、ここ2年間インフルエンザの流行はなくなりました。一方で、子供の冬の病気であるRSウイルス感染症は1年目にはほぼ流行しませんでしたが、2年目、つまり昨年の夏に流行したのです。そういったことから、新型コロナと疫病の流行とは何らかの関連があると推測できます」。

最近、日本では急速にコロナ前の日常が回復しつつあり、外国人観光客の受け入れも再開しているが、これは新型コロナに打ち勝ったということなのだろうか。

久田医師は次のように分析している。

「新型コロナウイルスの流行はまだ続くでしょうから、今の日本はアフターコロナではなく、やはりウイルスとの共存――ウイズコロナです。しかし、医療体制の拡充とワクチン接種回数の増加、そして治療法の確立にともない、重症患者はますます減っていくと思います。致死率にしても重症化率にしても、日本の数値は他国より低くなっています。新型コロナとの共存において、医療体制が維持できれば、事態の悪化と重症患者の増加を防ぐことができるのです。新型コロナの収束は難しいにしても、流行をコントロールすることは可能でしょう」。

その上で久田医師は次のように提案する。

「最近政府は、屋外の人の少ない場所ではマスクを外すことも考えられると言っています。しかし、感染リスクが高い場所では、やはりマスク着用は有効な対策だと思います。つまり、生活の正常化に向けて、屋外や人の少ない換気の良い室内では適度に措置を緩和するということも考えていく時期ではないでしょうか。この2年間、日本は経済活動と社会活動を制約してきましたが、これからはウイズコロナの時代、私自身は制度をもう一度見直すことで、経済、社会、教育などの各分野で持続可能な成長ができるのではないかと考えています」。

今後、新型コロナはインフルエンザの一種のようになっていくのだろうか。久田医師は、楽観はできないと警告する。

「新型コロナウイルスは非常に変異しやすく、毒性が弱まる可能性もありますが、ますます強くなる可能性もないとは言えません。近い将来、オミクロン株の感染力を超える変異株が出現するかもしれません。ですから、今後も医療体制の拡充を継続していく必要があるのです」。

ウイルスとの戦いは一進一退の持久戦である。新型コロナウイルスはその他の伝染病の流行や発生にまで影響を与えた。夜明け前とはいえ過度の楽観は禁物である。旅行中も感染対策はしっかりとすべきだろう。

 

情報元:「人民日報海外版日本月刊」

 

高規格・高品質で中国の スマート養蜂業の発展を促進

近年、中国養蜂業は新しい局面を切り開き、新しい道へと歩み出し、新しい発展段階を迎えている。そのなかで、中国品質万里行促進会エコ養蜂業専門委員会は主要な牽引役を果たしている。先日、「第5回中国養蜂業の高度な発展およびビジネス環境の最適化に関する国際フォーラム」が開催された際、本誌は中国品質万里行促進会エコ養蜂業専門委員会の主任委員である惲銘慶博士を訪ね、DX(デジタル技術による変革)で伝統養蜂業を活性化させ、貧困撲滅の戦いに打ち勝ち、カーボンニュートラルを推進する道のりについて伺った。(文/「人民日報海外版日本月刊」編集長 蒋豊)

 

 

品質で収益を上げ、基準の制定で空白を埋める

―― 中国品質万里行促進会エコ養蜂業専門委員会は設立されてから短期間で、国際化、系列化された一連の団体基準を定め、業界の空白を補填しました。なぜ基準の制定に多くの労力を費やしたのでしょうか。

惲銘慶 市場規範と高規格・高品質を推進させることは、中国品質万里行促進会の主要な職責です。促進会は1994年の設立以来、国家品質監督検査検疫総局の指導の下、品質検査部門、主流メディア、経済学者、優良企業、科学研究機関など多方面と力を合わせ、劣悪品を駆逐し優秀品を育て、市場を規範化するなどの分野で一定の成果を上げています。

中国品質万里行促進会エコ養蜂業専門委員会は2017年に設立されました。今年はまさに5年目の節目の年になります。専門委員会は設立後、中国のエコ養蜂業の高規格・高品質な成長を維持し、制度、システム、能力などの多くの分野でブレイクスルーとイノベーションを実現すべく努力してきました。同時に、「養蜂業名匠評価準則」、「高品質ハチミツ」、「エコ蜜源地通則」などの国際化、系列化した団体の基準の制定に着手していますが、その目的はわが国のハチミツ産業に規律をもたらすこと、養蜂農家に回り道をさせないこと、市場と消費者に利益をもたらすことにあります。

マクロの局面からミクロの局面へと見ていくと、わかりやすいでしょう。中国は養蜂大国で、年間生産量は50万トンと世界の生産量の三分の一を占めています。しかし、わが国は養蜂強国ではないということをはっきり認識しなければなりません。中国のハチミツ生産農家が苦労して収穫したハチミツは500グラムあたり20~30人民元(約400〜600円)にしかなりません。この価格は国際的な平均価格のわずか十分の一です。この数字には本当に心が痛くなります。

品質は産業に収益をもたらします。業界規格が実施された後、ハチミツ産業の製品規格、生産規格、安全規格、衛生基準は全て根拠を持つものとなりました。特許技術の認定と運用によって、ハチミツの品質が明らかに向上し、ブランド意識が樹立され、養蜂農家の収入は増加し、中国のハチミツ産業の国際的地位は向上しました。

毎年1回開かれる中国養蜂業の高度な発展に関する国際フォーラムは、大きな困難を乗り越え、オンラインやオフラインの形式で開催し続けています。ここでは、市場管理、品質規格、フィンテック、エコ環境、農林、観光、公共安全、ヘルスケア、情報化などの分野の国内外の団体、機関の力を十分に引き出し、全世界の養蜂業が伝統的な小規模農業生産から、IoT産業へと世代を超えた成長ができるよう後押ししています。

 

「両山」理論を実践し、カーボンニュートラル実現に協力

―― 昨年、「2021ノーベル賞SDGsファンドモルガンサミット」に招待され、「ダブルカーボン目標の持続可能な経済成長」をテーマとするスピーチをされました。同時に「DXを活用したミツバチ産業でカーボンニュートラル産業の成長を推進する構想と提案プラン」を発表、国際社会で先鞭をつけました。養蜂と環境保護とはどのような関係にあるのでしょうか。

惲銘慶 今まさに中国品質万里行促進会エコ養蜂業専門委員会は、中国科学院環境研究機構や、クリーンエネルギーと環境保護分野の専門家とともに、総合的に利用できるイノベーション主導型プランの研究に力を入れています。

過去数十年間を振り返ると、改革の実施に大ナタを振るい、生産力をリリースしましたが、粗放な経済成長モデルは生態環境に喫緊に解決すべき問題をまだ残しています。いかに産業チェーンをアップグレードし、養蜂の環境効果を向上させるかが、エコ養蜂専門委員会が設立後に注目している重要課題の一つです。

専門委員会は設立後、陝西省延安市、四川省広安市、浙江省千島湖市、湖北省神農架林区、遼寧省葫蘆島市、広西チワン族自治区の都安ヤオ族自治県に、デジタル化エコ養蜂業モデル試験地区を建設、地方自治体のサポートの下、エコ養蜂業の振興プロセスを通して、「両山理論」(緑の山河こそ金山銀山に他ならない)を実践し、貧困撲滅、農村振興と一帯一路経済の発展を推進してきました。

養蜂は農産品の品種改良、病気予防と増産に役立ちます。ミツバチの受粉は農作物の病気対策、増産を促進し、特に土壌と植物の炭素固定能力を向上させることができる有効なプロセスなのです。度重なる実験と検証を経て、われわれは国際専門組織の「人工介入」や炭素固定能力などの要素分析と計算の結果に基づき、ミツバチ授粉は植物の生命力向上に有効であり、したがって炭素固定能力が高まるというエビデンスを得ました。よって、エコ養蜂は生物多様性を維持できるだけでなく、ミツバチの高規格産業化を推進し、カーボンニュートラル事業の重要なコンテンツになるでしょう。

中国品質万里行促進会エコ養蜂業専門委員会は養蜂の環境収益の分野を掘り下げることに注力しており、これがISO(国際標準化機構)に注目され、認められました。特に、「養蜂プロセスを運用し植物と土壌の炭素固定能力を迅速に引き上げる」という推測と論証について、国家環境部の上層部から注目され、支持されています。信任と支持は、われわれに業務の意義の重要性、責任の重さを深く認識させ、信念をさらに強めました。そして、「品質、環境、健康、発展」という指導思想に引き続き真摯に取り組み、美しい農村の建設、農村の振興の実現、「ダブルカーボン目標」の達成のため、自身の責任を引き受けています。

 

スマート農業の発展で、貧困撲滅の戦いに勝つ

―― アジア金融協力協会金融包摂委員会の設立式典に出席された際、金融包摂(Financial Inclusion)の力を借りての「一帯一路」エコ養蜂業の発展を提案され、国内外の金融機関と農村振興やSDGsの関係者から大きな支持を得ました。これは伝統的な養蜂業にどんな影響を及ぼしますか。

惲銘慶 金融の力を借りて、養蜂業を発展させ、養蜂業の付加価値を高め続け、養蜂農家に「甘いハチミツ事業」の力を体感させることが、われわれ委員会がここ数年間進めてきた業務です。

以前、伝統的な人工飼育のプロセスでは、養蜂農家は非常に苦労が多かったのです。しかし、DXにより、養蜂農家は養蜂箱の温度、湿度、重量などの重要な情報をリモート追跡できるようになり、蜜源地の環境・気象観測などのビッグデータのサポートと組み合わせて、技術指導やソリューションなどの専門的サポートも得られています。養蜂産業はスマート農業の一コンテンツとなり、養蜂農家にミツバチの真の「甘さ」を体感してもらえます。

同時に、われわれは資源制約型貧困県の問題も軽視できません。14億人という人口に比して、わが国の有効利用できる耕作地は非常に限られています。一人当たりの農地は1.37ムー(約917平方メートル)しかなく、世界平均の約40%にも足りません。中国の農耕地資源は一人当たりの耕作地が少なく、優良な耕地が少なく、耕地の予備資源が少ないなど客観的にも限界があります。しかし、一部の資源制約型貧困県では高効率のスマート養蜂を推進しており、金融のサポートによって産業構造の調整を実現、IoTネットワークを構築して脱貧困の目標に到達しています。

一つのデータをご紹介しましょう。2020年のわずか1年間で、中国の延安市全体での養蜂業の生産額は1億元(約20億円)を突破し、「エコ、高品質、安全」な養蜂業の成長理念によって2000軒以上の貧困農家の脱貧困を実現しました。先日閉幕した第五回のフォーラムにおいて、延安分会場でおこなわれた「成熟アカシアハチミツ生産パイロット基地」と「高品質アカシアハチミツ基地」のライセンス授与式では、高品質・高規格養蜂が「甘い蜜」の生活をもたらし、貧困撲滅の戦いに打ち勝った現地農家の顔に浮かんだ笑顔を見ることができました。

 

―― 最近、中国共産党中央と中国国務院は「全国の統一的大市場建設の加速に関する意見」を公布しました。この国際的な意義はどこにあるとお考えですか。

惲銘慶 中国品質万里行促進会エコ養蜂業専門委員会はまさに統一的大市場について研究を進めているところです。統一的大市場を建設することの意義と内的要素を真剣に理解することで、的確な研究方向が定められ、その成果を社会に応用できるでしょう。

高品質・高規格なスマート養蜂業の発展は、国内の大循環を主体として、国内と国際の双循環が相互に促進する新しい成長モデルの一つの重要な構成部分を形成しています。新しい歴史段階と新しいスタートの上で、われわれ専門委員会は引き続き国際交流と提携を強化し、「共に創造、共に建設、ウインウインとシェア」のメカニズムを構築し、エコで健康的な蜂蜜事業を大きく成長させるべく推進していきます。

われわれは、全国の統一的大市場建設は絶対に閉鎖的ではなく、門を閉ざしておらず、一方通行なものではないこと、また広大で堅固な世界の大市場の一部であり、多国間主義を実行する取り組みであることを強調しています。中国が世界の中心にますます近づいている現在、われわれは中国の大市場をより良くする必要がありますが、これは実際には世界の大市場を良くするということなのです。

 

取材後記

業界基準を制定し、高基準・高品質で中国のスマート養蜂業の成長を促進する。金融包摂を導入し、農村振興と環境保護の健全な発展をサポートする。金融、科学技術、ヘルスケアなどの多方面を有機的に融合させ、養蜂業のビジネス環境を最適化する。中国の養蜂業を「大」から「強」へ、養蜂農家を苦しませない……人々は、中国品質万里行促進会エコ養蜂業専門委員会がさらなる「甘い生活」の創出を期待している。私たちはさらに積極的に環境保護+養蜂業がカーボンニュートラルとカーボン吸収源事業を推進していくイノベーティブな成長を探っていかなければならない。それと同時に、中国養蜂業がさらに国際社会とリンクしていくことを期待している。それは「一方通行」ではなく、世界の先進的養蜂の経験と技術を汲み取るよう努力する一方で、積極的に中国養蜂業の新しいモデルとロードマップを輸出し、多元的な動きによって人類運命共同体の構築に参画しなければならないのである。

 

情報元:「人民日報海外版日本月刊」

 

日本にとって中国が大切な  隣国であることを認識すべし

 

中国と日本の国交が正常化してから50年の歳月が流れた。今年は節目の記念すべき年であるが、コロナ禍の影響もあり、両国の往来は途絶えたままだ。しかも、政治的に両国関係は決して良好とはいえない状況にあり、友好ムードは高まりを見せていない。そうした中、政治評論家として50年にわたって活躍する森田実氏に、国交正常化50周年の現状と今後の中日関係の在り方などについて伺った。(文/「人民日報海外版日本月刊」副編集長 原田 繁)

 

日中平和友好は日本国民が平和に生きるための礎

―― 本年は中日国交正常化50周年です。50年前、多くの政治家や民間人の労苦により両国の新たな歴史の扉が開きました。50年たった今、両国の友好ムードはあまり高まっていません。50年前と現在の中日関係をどのように見ていますか。

森田 現在の日中関係は憂慮すべき状況にあると私は判断しています。

今年は、1972年の日中国交樹立から50年の節目の年であり、岸田文雄内閣総理大臣が率先して、日中国交樹立50年を祝うべきですが、この動きは、6月上旬現在、みられません。

1972年9月に日中国交樹立が実現した時、日本国民はあげてこの快挙を祝賀しました。しかし、50周年の2022年の今、国民世論は盛り上がっていません。日本の世論は米国政府が展開する「反中国世論工作」に操られ、日中友好の大切さを見失っているのです。

日本が平和に生きるためには、日中友好が必要です。日中平和友好は、日本国民が平和に生きていくための最大の礎です。日本国民は、米国政府の反中国宣伝と日本国内の反中国ナショナリズムに煽られて、日中友好の大切さを見失っているのです。私は、この状況は一日も早く克服し、日中友好の世論を高めなければならないと、決意しています。

 

 

日中国交樹立は日本に繁栄をもたらした

―― 冷戦下において、自民党政権は、日米安保条約を結び、そして中日国交正常化を決断しました。本年6月1日、経団連などが「日中国交正常化50周年交流促進実行委員会」を発足させ、最高顧問に福田康夫元首相と二階俊博・自民党元幹事長が就任しました。中日関係において、この50年来の自民党の功績をどのように評価していますか。

森田 日本は第二次大戦前大きな過ちを犯し、軍国主義に走り、中国をはじめアジア諸国を侵略し、米国に戦争を仕掛け、そのあげく、敗戦を体験しました。第二次大戦終了とともに日本は米軍の占領下におかれました。

米国政府は米ソ冷戦構造下で、日本を米国に縛りつけておくため、日米安全保障条約の締結を強要しました。

しかし、日本は米国一国だけとの関係では生きていくことはできません。

1954年、日本政府はソ連邦政府との国交樹立を実現しました。この結果、日本は国際連合に加入することができ、国際社会の一員になることができました。

1972年に日中国交樹立を実現し、広大なアジア大陸である中国との平和友好関係を実現しました。この結果、日本経済は飛躍的に成長することができました。日中友好は日本に大きな繁栄をもたらしました。

日中平和友好関係の発展には、自由民主党、社会党、公明党など多くの政党の指導者が超党派で協力しました。

自由民主党の政治家で、日中友好のためにとくに活躍したのは、石橋湛山、高碕達之助、古井喜実、松村謙三、田中角栄、大平正芳、三木武夫、河野洋平、福田康夫、二階俊博らでした。

いま、反中国の姿勢を強めている米国バイデン政権の圧力を受けながら、十倉雅和経団連会長を委員長とする「日中国交正常化50周年交流促進実行委員会」が発足し、最高顧問に福田康夫元首相と二階俊博自民党元幹事長が就任したことは、大変良いことだと思います。福田康夫元首相と二階俊博元幹事長の勇気に、敬意を表します。

2022年9月29日の日中国交樹立50周年には日本国民の圧倒的多数が参加するよう、これから努力したいと思います。日本国民は本心では中国が好きです。日中平和友好を望んでいます。

 

 

米国政府は対中国政策を改めるべき

―― 戦後国際政治の転換点となったニクソン米大統領の中国訪問から50年が経った今、米国の対中政策のキーワードは「協調」から「競争」へ、対立する関係に変化しており、50年前の中国との接触は失敗であったという声さえ聞かれます。米国の対中政策について、どのように見ていますか。

森田 米国政府は、世界平和を守ることにもっと熱心でなければならないと、私は思います。現在のバイデン政権の対中国政策は間違っています。米国は中国を友とし、世界平和のため、人類の繁栄のために中国と協力すべきです。しかし、バイデン政権は、平和を危うくする危険な政策をとっています。米国政府は対中国政策を改めるべきです。

米国政府は、50年前のニクソン、キッシンジャーの中国との友好政策に戻るべきです。

米国内で、50年前のニクソン、キッシンジャーの中国との友好を実現した政策を「過ちである」として、見直す動きがあるようですが、改めるべきです。

人類にとって最も大切なことは世界平和の実現です。米国政府は世界平和のため中国政府との友好関係を促進する政策をとるべきです。

バイデン政権は、直ちに反中国政策を停止し、友好政策に転換すべきです。米中両国政府が世界平和のために話し合えば、全人類が支持します。

 

 

日本はアジア諸国との友好関係が必要不可欠

―― 日本の政界を見ますと、中日関係において様々な立場があるようですが、近年、各政党の発言を聞いていますと、もはや親中派はいなくなったとさえ感じます。今後の中日関係構築はどのようにあるべきだとお考えですか。

森田 2015年頃までは、指導的政治家、経済人、指導的官僚のなかに、中国政府が推進している「一帯一路」政策に協力する指導者がいましたが、今はいなくなりました。背景にあったのは、米国政府の強い圧力でした。

米国政府は、「自由で開かれたインド太平洋」政策を推進し、日本国内の「一帯一路」支持者を抑え込みました。いまは、与野党を含めて、政府は「自由で開かれたインド太平洋」路線一色になってしまっています。

日本は、米国と日米同盟を結んでいますが、米国一国だけと関係を結ぶことは、大変危険です。日本にとって、アジア諸国との友好関係は必要不可欠です。

アジア諸国から孤立した日本に生きる道はありません。経済も成り立ちません。

今こそ、日本国民は、米国一辺倒の生き方は非常に危険であることに、気付かなければなりません。

今こそ、日本国民は、日本にとって中国が大切な隣国であることを認識すべきです。

 

情報元:「人民日報海外版日本月刊」

 

 

夢とロマンが凝縮されたウイスキーで中国市場を開拓

 

笹の川酒造株式会社は、福島県郡山市に本社を置く東北最古の地ウイスキーメーカーである。1980年代には「北のチェリー、東の東亜、西のマルス」と呼ばれ、同社が送り出した「チェリーウイスキー」は北の雄として人気を博した。先ごろ、同社安積蒸溜所を訪れ、10代目蔵元の山口哲蔵代表取締役に、ウイスキー造りの歴史、安積平野への思い、中国進出等について伺った。(聞き手/「人民日報海外版日本月刊」編集長 蒋豊)

 

東北地方最古の地ウイスキーメーカー

―― 御社は、酒造として300年の歴史を誇る日本の老舗企業です。1946年からウイスキー事業に取り組まれていますが、ウイスキー造りの歴史についてお聞かせください。

山口 猪苗代湖の南の地で1710年(宝永7年)に創業し、実際に郡山の地で酒造りを始めたのは1765年(明和2年)からです。創業以来、水と緑豊かな阿武隈川を抱く安積盆地で、日本酒や焼酎の製造・販売を行ってきました。

祖父の八代目当主・山口哲蔵から聞いた話ですが、太平洋戦争終盤の1943年、44年頃から、清酒造りに欠かせないコメが手に入らなくなり、本業に支障をきたすようになりました。

戦時下で全国的に食料米が不足する中、当社は甘藷や馬鈴薯を原料として蒸溜し、スピリッツを製造。これとウイスキー原酒を混ぜ合わせ、二級ウイスキーを製造すべく、郡山税務署を経て仙台国税局にウイスキー製造の許認可を受けるため努力していました。

試験醸造を重ねて、製品は完成したものの免許が下りないため販売できずにいました。当時の大蔵省(現財務省)主税局長は後に首相となった池田勇人でした。そこで祖父は、ウイスキーの製品サンプルと地元の産業だったタバコを持参し、池田勇人に直訴したそうです(笑)。その2週間後に製造免許が下りたわけですが、当時国の政策としてウイスキー製造が奨励されていたようなので、ようやく認可されるに至ったのだと思います。

製造免許が下りた1946年当時、東北地方で正式に免許交付を受けていたのは当社だけでした。そこで送り出した「チェリーウイスキー」は北の雄として人気を得、酒類が極端に不足していた時代でもあり、市場に大歓迎で迎えられ、品切れ状態が続く嬉しい悲鳴の連続だったと聞いています。

以来、地ウイスキーブームがあったり、サッチャーの強い要請による酒税法改定によって打撃を受けたり、紆余曲折はありましたが、東北地方最古の地ウイスキーメーカーである誇りを持ち、こつこつと出荷を続け、現在に至っています。

 

 

天使に分け前を与えながら時を紡いでいく

―― 本年3月、英国のウイスキー専門誌主催の国際品評会で、御社のウイスキーは世界最高賞に輝きました。御社のウイスキーの特徴と強みは何ですか。

山口 ウイスキーの原料は麦芽と水と酵母だけです。そして、もう一つ大切な原料は、時間です。時間がウイスキーの味をつくり出しているといっても過言ではありません。

原料の発芽大麦はイギリス、ドイツ、オーストラリアなどから輸入しています。これによりバラエティ豊かな原酒を製造しています。当社のウイスキーは、甘くて豊かな味わいが特徴です。口に含んだ後に感じるピートの戻り香が口中に広がって、その心地よさが楽しめるタイプです。

もう一つの特徴は、「天使の分け前」が非常に多いことです。樽の中で熟成を重ねる原酒が少しづつ量を減らすのを「天使の分け前」と呼びます。これは熟成が早くなる一つの理由で、普通2%ぐらいですが、当社は3%から6%ぐらい毎年無くなっているので、その分味が良くなっているのだと思います。

蔵で眠っていたウイスキーが、静かな眠りから目を覚まし、新たにリリースされる。忘れかけた時間の中で、十分に天使に分け前を与えながら、たくましく時を紡いでいくのです。

 

未来の郡山の発展を夢見た開成社の創立者たち

―― 2016年冬、安積(あさか)蒸溜所が始動します。安積平野に託された思いについてお聞かせください。

山口 安積平野は古来一度も耕されたことのない原野でした。水の便に恵まれないこの地を開墾するために、「安積開拓の父」といわれた中條政恒の呼びかけで、郡山の商人25人が事業に賛同し、明治初頭の1873年(明治6年)に「開成社」を興しました。

76年(明治9年)、明治天皇の巡幸の折、水路建設を進言した結果、猪苗代湖から安積原野に水を引く計画が認められ、79年(明治12年)に国家事業として正式に着工。オランダ人技師の監修のもと、近代土木技術が初めて導入され、わずか5年という短期間で疎水を通水させました。

安積疎水は、疎水に関わる日本の国営事業第1号として2016年4月、日本遺産に登録されました。安積疎水のおかげで、郡山ではよいコメが作れるようになったのです。ですから安積という地名には思い入れがあります。

この開成社創立の25人の内の一人が私の曽祖父にあたります。未来の郡山の発展を夢見た開成社の創立者たち。その夢は未来のためのウイスキー造りとして現在につながれています。

 

 

クラフトウイスキーの草分け的存在との出会い

―― 「イチローズモルト」の肥土伊知郎氏との出会いについて教えてください。

山口 2004年のある日、クラフトウイスキーの草分け的存在である肥土伊知郎さんから、ウイスキーの樽約400個とそのほかのウイスキーの原酒数千リットルを一時的に買い入れてほしいとのご依頼がありました。

肥土さんの会社が他人資本となり、「在庫のウイスキーを破棄するように言われた」とのお話でした。ウイスキーの製造には膨大な時間がかかります。樽の中で最低3年、長いものでは数十年かそれ以上になっても熟成を続けるものもあります。

酒の文化を考えた時、貴重なウイスキーが廃棄されるという事は、とても耐えがたく、在庫の引き取りを承諾し、将来の在庫の販売方法も打合せしました。肥土さんのウイスキーに対する情熱は熱く、世界のウイスキー市場、特に中国やインドの将来の需要予測などをお聞かせいただき、ウイスキーの可能性を学ばせていただきました。

実は当社のウイスキーは地ウイスキーブームで驚異的に売れたこともありましたが、平成に入って大打撃を受け一度休業しました。創業250年を迎えた2015年に原酒の蒸溜再開を決意するのですが、文字通り一からのスタートでした。その時に、肥土さんにいろいろと教わって、2016年3月に安積蒸溜所を本格稼働させ、3年後にウイスキーのシングルモルトを発売することができたのです。

 

 

大切に造ったウイスキーで中国市場を開拓したい

―― 近年、中国では富裕層を中心に、日本のウイスキー人気が高まっています。中国のウイスキー市場をどのように見ていますか。

山口 中国で日本のウイスキーの評価は高く、けっこう高額な商品が売れていると聞いています。それはそれでいいと思うのですが、ただ、それほど美味しくないものでも高い値段がついているのが一番心配です。値段にふさわしいかどうか、飲む人が飲めば分かります。きちんとした商品が市場で流通しなければいけないと思っています。

私自身は中国市場を開拓したいと思っています。実は、東日本大震災前から中国の方とお付き合いしています。以前、福島県として、上海や北京のブロガー3人を招聘して、県のPRをしていただきました。当社と郡山の和菓子屋さんが選ばれたのですが、福島県産食品が輸入解禁になったら一生懸命販売に協力するという方もいらっしゃるので、早くその時期が来るよう期待しています。

 

―― ウイスキーの魅力とは何ですか。中国市場進出など、今後の夢をお聞かせください。

山口 ウイスキーは時間をかけて造るものです。一朝一夕にできるものではありません。原酒の一雫さえ、愛おしんだ作り手の思いが詰まっています。やはり、長い年月の中に夢とロマンが凝縮され、秘められた意思が、琥珀色の液体となって、人々にいっときの幸福を届けてくれるのです。

現在、当社が造っているウイスキーは、最長だと20年ぐらい先にならないと完成しません。どういう味になるのか分かりませんが、それだけ先のものを造っているという意識を持つべきだと思っています。

最近、「儲かるから造るべ」という方がいらっしゃいます。企業として利益を追求するのは結構ですが、ウイスキー事業に参入した以上、きちんと造ってほしいと思います。途中でやめない、始めたら続ける、「初志貫徹」が大事です。

「日本のウイスキー」の名を汚さぬよう良いものを造り続けながら、福島県産食品が輸入解禁になったら、積極的に中国市場を開拓したいと思います。

 

情報元:「人民日報海外版日本月刊」

 

 

医師を目指した初心を忘れず  パーキンソン病に立ち向かう

 

パーキンソン病は脳の神経の変性により引き起こされる難病で、1000人の中で1人から1.5人が罹患し、高齢になるほど発症率が高まると言われている神経難病だ。パーキンソン病研究の第一人者として知られる順天堂大学医学部長の服部信孝教授が医師を目指したきっかけは、高校生の時に見た映画「赤ひげ」の中で、「眼に見える病状だけではなく、頼ってくる患者さんの生活もみれば、家族もみる、そして患者さんの心をみることで病に向き合っていた」医師の姿に感動したことだったという。先ごろ、順天堂大学に服部先生を訪ね、パーキンソン病患者との向き合い方、医療現場の将来像、中国との医療連携などについて伺った。(聞き手/「人民日報海外版日本月刊」編集長 蒋豊)

 

 

オーダーメイドの治療で患者をエンカレッジする

―― 先生は、パーキンソン病研究の第一人者として知られ、現在も医療の最前線で活躍されていますが、パーキンソン病患者とはどのように向き合われていらっしゃいますか。

服部 パーキンソン病は脳の神経の変性により引き起こされる難病です。1000人のうちおよそ1人から1.5人が罹患し、高齢になるほど発症率が高まります。

当院の脳神経内科には年間約4000名のパーキンソン病患者さんが来院されており、日本一の患者数を誇ります。そこで得られたデータや検体をパーキンソン病の新たな治療法の研究などに活用できることが、当院の最大の強みです。

ただ、パーキンソン病は現状では治せない病気なので、できるだけ患者さんをエンカレッジ(励まし)して、個々の年齢や症状に応じて薬を変えたりして、オーダーメイド的な治療を行っています。

 

 

パーキンソン病領域でグローバルに高い評価

―― 先生は、日本パーキンソン病・運動障害疾患学会理事、日本神経学会理事などを歴任され、これまで全国からパーキンソン病患者が訪れています。パーキンソン病研究における順天堂医院の位置づけについて教えてください。

服部 2020年11月、『Newsweek』誌に発表された「世界の優秀な病院ランキング(World’s Best Specialized Hospitals 2021)」の神経学分野で、当院は日本国内1位、世界10位にランキングされました。

私自身、アジア・オセアニア地区の理事長を務めた経験もあり、また、Movement Disorders Societyよりパーキンソン病の基礎研究で優れた業績を残した人に与えられるデビッド・マースデン・レクチャーアワードを今年の大会で受賞する予定です。

そういう意味では、グローバルに非常に高い評価を受けていると自負しています。また、パーキンソン病領域のトップ100論文が発表されましたが、日本から5論文が選ばれていますが、そのうち4論文が我々順天堂グループから発表されたものです。

 

 

臨床研究で人口の多い中国と連携を組みたい

―― 中国との連携をどのように考えていますか。

服部 当院としましては、北京大学と協定を締結し、共同シンポジウムの開催、医師・大学院生・学部生と様々なレベルでの学術交流が行われています。また、蘇州大学や杭州大学など、互いに訪問するなどして学術交流を進めています。実は本年3月に蘇州大学の教授のご子息が当院の大学院を卒業しました。

中国は人口がものすごく多いので、一つの病院で看ているパーキンソン病の患者さんもすごい数ですよね。日本だと10万人当たり1人いるかいないかという病気でも、中国は一つの病院で400〜500人の患者さんがいるそうですから、臨床研究をするには、中国と連携を組むのがいいと思います。

ただ、中国では遺伝子は国家秘密であり、外に出さないルールになっているので、共同で研究しようとしても、なかなか「出せない」ということになるので、それが一番のネックですね。

 

 

画像診断は人間に代わってAIが行う時代が到来する

―― 順天堂大学と日本IBMは本年4月、「メディカル・メタバース共同研究講座」を設置し、順天堂医院をメタバース空間に再現した「順天堂バーチャルホスピタル」を設立すると発表がありました。また5月には、AI等に関わる研究・開発・社会実装を推進するため、順天堂大学大学院医学研究科AIインキュベーションファームを発足しました。今後、医療の現場では、何がどのように変わるのでしょうか。

服部 今後、画像に関しては、すべて人間に代わって人工知能(AI)が診断するようになると思います。例えば内視鏡などは、ファイバーを使わなくても、改良したカプセルを飲み込むだけですべての写真を撮影して、ドクターは何もせず、最後のチェックだけ行う、そういう時代が来ると思います。

また、オンライン診療については、私自身、時代を先取りして2017年から始めています。当院は日本だけでなく、中国、台湾、シンガポールなどのアジア地域、そして欧米に加えて、レバノンなどの中東地域など世界中から大勢の患者さんが来院します。渡航費を考えると、オンライン診療の方が効率的です。

国内からも北海道から沖縄まで患者さんが来院します。患者さんの負担を考えたときに、遠方から飛行機で来るよりは、オンラインで診療した方が患者さんの負担軽減にもつながると考えて始めました。

また、これからは、モニターに顔を映しただけで、認知症のリスクがあるかないかが分かる時代が来ます。パーキンソン病の患者さんの認知症になる率は40%−70%と高く、アルツハイマー病の病態が合併することが分かっています。ちなみに、お酒を召し上がる方も多いと思いますが、例えばナッツをおつまみにするとか、パンにオリーブオイルをつけるとかするとボケ防止につながります。こうした習慣が定着している欧米では、認知症の患者さんが減ってきているとする疫学調査があります。日本は、残念ですが依然増加しています。

 

 

研究成果をあげるにはスピードと情報が大事

―― 先生は3カ月で1200人もの患者を診療した実績をお持ちですが、先生が医師を志したきっかけは何ですか。そして、先生に影響を与えた医師のことや、人生の転機となったエピソードがあれば教えてください。

服部 私が医師を目指したのは高校時代に黒澤明監督の映画「赤ひげ」を見たことがきっかけでした。映画の中で赤ひげ先生が診ていたのは、眼に見える病状だけではなく、頼ってくる患者さんの生活もみれば、家族もみる、そして患者さんの心をみることで病に向き合っていました。

それは先端技術を持って神経難病の克服を目指す現代の医師にとっても、忘れてはならない姿勢です。

順天堂大学医学部を卒業後、地元長野に帰る選択肢もあったのですが、順天堂大学脳神経内科には優秀な先輩が沢山いて、そういう優秀な先輩達に鍛えてもらえる環境にいれば成長すると思い、脳神経内科に入局しました。

そこの初代教授が楢林博太郎先生という日本が世界に誇る神経学者です。2代目が水野美邦先生で、やはり世界的に評価の高いパーキンソン病の権威でした。

その水野先生から、「君は大学院に進みなさい」と言われ、大学院生の第1号になりました。そして、名古屋大学へ国内留学させてくださったのですが、研究生活が始まった当初は苦難の連続でした。

お金がなくて家具も買えず、六畳一間でミカン箱を机代わりにして、必死で研究に打ち込み、ある遺伝子の構造を医学雑誌に発表するつもりで準備していたところ、一歩先に別の研究者に同じ遺伝子構造を発表されてしまいました。最終的には二番手として遺伝子構造と詳細なプロモーター解析を行い何とか論文発表することが出来ました。実に4年以上の時間を費やしました。

その悔しさをバネにして、パーキンという若年性パーキンソン病の遺伝子の単離に成功しました。

その時、名古屋大学時代の仕事で共同研究していたのが、慶應大学で分子生物学が専門の清水信義という先生だったのですが、清水先生が開発した方法を用いれば、私が進めてきた遺伝子構造の解析もたった1週間で結果が出せると指摘されました。4年と1週間、スピードが全然違うわけです。そのときに学んだのが、いわゆる最新技術開発の情報のキャッチと実行するスピードの重要性です。

清水先生との共同研究によって、遺伝子を同定単離することに成功し、その論文が1998年の『Nature』に発表されました。

遺伝子の単離に成功したので、今度は機能を見るため、東京都の臨床医学総合研究所の田中啓二先生に共同研究を申し入れ、成果の論文が『Nature Genetics』に掲載されました。

4年かかった苦労が、その後の成果に飛躍的に結びついていったのですが、スピードと情報戦、この二つが今も大事だと思っています。

 

―― 今後、パーキンソン病の治療、新薬開発などはどのように進むのでしょうか。

服部 パーキンソン病は今のところ治せない病気です。せめて病気が進行しないようにしたいと考えています。これを疾患修飾療法というのですが、症状の進行を抑えることが一番の目的です。そして何れパーキンソン病は治せる時代が来ると信じておりますし、治せなくても症状を完全に止められると思っています。現在、新薬の開発、それからドラッグリポジショニングによる新しい治療法の開発を重点的に行っています。多分2、3年後ぐらいには結果が出てくると考えています。

 

情報元:「人民日報海外版日本月刊」

 

 

美術家は中日文化交流の大切な担い手

 

 
美術の各分野で活躍する在日華人芸術家たちが意気投合し、十数年前から定期的に交流イベントを行うようになった。彼らは文化サロン、芸術展、セミナーなどの形で、心を通わせながら芸術を礼賛してきた。その後、彼らの手によって全日本中国美術家協会が設立され、水墨画家の趙龍光氏が会長に就任した。先日、趙龍光会長が本誌編集部を訪れ、中日国交正常化50周年に際して、中日を互いに映す鏡としての芸術の役割を語ってくれた。(文/「人民日報海外版日本月刊」記者 王亜ナン)

 

民間の素朴な感情が中日芸術交流の原動力

趙龍光の本籍は安徽省六安市である。著名な現代画家で書道家の趙不仁の長子として生まれた。趙龍光は幼い頃から筆を手にし、以来手放すことはなかった。1986年、趙龍光は最も早期の私費留学生として日本に留学し、幸運にも、日本のある大手企業から経済的支援を受けることができた。

来日して間もない頃、趙龍光は千葉に住む薄井さんという老人と知己を得た。週末になると趙龍光を自宅に招き、生活費の足しになればと、彼の描いた水墨画の画集を友人たちに紹介してくれた。

この老人は若い頃、日本の「満鉄」の技術者として中国東北部に派遣されており、2人の子どもは中国生まれであった。老人が亡くなってから、子息が遺言と遺品を携えて趙龍光を訪ねてきた。渡されたお金は、趙龍光が芸術の道を心置きなく歩めるようにと、決して裕福ではなかった老人が遺してくれた最後の温情であった。これが、日本人の最も一般的で最も素朴な感情であり、趙龍光が中日文化交流に力を注ぎ、中日関係の改善と発展を疑わない理由のひとつになっている。

趙龍光は、多摩美術大学と東京学芸大学に学び、大学時代から講義も担当した。後に、夫人で画家の里燕と共に『龍光水墨画院』を創設し、日本の各界の芸術愛好家に中国画の知識と技法を教え、中国の伝統文化を伝えてきた。夫妻は水墨画で日本の画壇に名を馳せるようになったばかりでなく、多くの作品が中国国家博物館及び中国美術館のコレクションとして収められている。

 

 

美術家は中日文化交流の功労者

「中日国交正常化からの50年の道のりを振り返れば、両国は衝突と和解を繰り返してきましたが、様々な文化交流活動を通して美術家は常に重要な役割を果たしてきました」。

2018年、在日中国美術家協会の中核メンバーによる芸術展が、株式会社シーエイチアイ傘下のラディソンホテル成田で開催された。水墨画、油絵、彫刻、インスタレーション、書道と多岐にわたる出展作品は、在日華人芸術家数百名の代表作の中から選び抜かれたものであった。芸術展は大盛況となり、開幕式当日だけで1000名の芸術愛好家が来場し、両国の社会に大きな反響を呼んだ。本年6月15日には、中日の美術家による大規模な共同展覧会『2022国際水墨芸術大展(中日国交正常化50周年記念特別展)』が東京都美術館で開幕した。展示会には、文化芸術分野で活躍する100名近い中日の名高い芸術家たちの400点に及ぶ選りすぐりの作品が出展され、日本社会に中日交流の範を示した。

このイベントは、国際水墨芸術促進会、令和日中文化芸術交流協会及び全日本中国美術家協会が、半年以上の時間を費やして準備を進めてきたものだ。これまで10年以上にわたり、中日文化芸術交流に力を注いできた全日本中国美術家協会が、舞台裏から最前線に躍り出て、中日の文化芸術交流を牽引したのである。

 

 

中国と日本は未来志向で関係構築を

「芸術は人類共通のものです。特に中日の芸術は互いに啓発し合い影響し合ってきました」。中国の文人画や禅画は日本の水墨画に影響を与えたと言われる。趙龍光自身、自宅で目にした1920年代に出版された『第二回日華聯合絵画展覧会図録』に刺激を受けて、日本への留学を決めた。

彼はひとつのエピソードを語ってくれた。ある名の知れた日本の友人は、若い頃人民解放軍に加わり、中国の同胞と肩を並べて戦った。日本に帰国してからも、中国人留学生に学費や生活費の支援を行ってきた。ところが、彼女は自身が面倒をみてきた中国人留学生が、科学研究の分野で自分より優れた成果を収めたのを目にすると、憤怒したという。これは象徴的なエピソードだが、中日の民間で繰り返し現れる不協和音の誘因であると趙龍光は指摘する。

国交が正常化した当初は、日本の政府も民間も、技術、経済、教育の各分野において、中国を支援しようとの熱意に満ちていた。ところが、中国が改革開放からわずか40年で世界第二位の経済大国に発展すると、海を挟んで向かい合う日本は、台頭する大国に脅威を覚えながらも、経験主義の深みにはまったままでいる。

趙龍光が今も残念に思い起こすのは、10年前、民主党政権下での釣魚島(日本名:尖閣諸島)国有化事件によって中日関係が悪化し、予定されていた中日国交正常化40周年の記念イベントが相次ぎキャンセルされたことだ。それゆえ、様々な困難を克服して準備計画された6月の中日の芸術家による共同展覧会が、中日の交流史に彩りを添え、日本の人びとに中国をより深く理解してもらうための貴重な窓口となることを信じているのである。

 

 

取材後記

中日関係は国際情勢というマクロ環境と切り離すことはできない。国交正常化からの50年で両国の経済力は逆転した。次の50年、中日両国は経済世界の多極化と文明社会の多元化を共に目指すべきである。それは華僑華人芸術家の心からの願いでもある。 (編集者注:取材には、著名な華僑芸術家である東強氏、銭亜博氏にも協力いただいた)

 

情報元:「人民日報海外版日本月刊」

 

 

7月21日、東京で衆目が集まる中、比亜迪股份有限公司(以下、BYD)の日本法人・ビーワイディージャパン株式会社による記者会見が行われ、最新モデルの3車種がお披露目され、日本の乗用車市場への参入を明らかにした。(文/「人民日報海外版日本月刊」記者 王亜囡)

 

ビーワイディージャパンの記者会見

 

1999年、BYDは二次電池(充電池・蓄電池)を足掛かりに日本で事業展開を始めた。その後、純電動バス、新エネルギー蓄電システム、純電動フォークリフトを販売し、その優れた品質とマネジメントは日本のユーザーおよび日本社会に広く支持され、良好な市場基盤を構築し、ブランド価値を高めてきた。 

BYDグループの王伝福董事長兼総裁のビデオメッセージ

 

BYDの王伝福董事長がビデオメッセージを寄せ、次のように挨拶した。「当社は世界でいち早く新エネルギー車の研究開発に着手し、27年間クリーンエネルギーへの移行に取り組み、バッテリー、電気モーター、電気制御、車載用プロセッサー等、産業チェーンのコアテクノロジーを完全に掌握しました。この度、われわれは日本のユーザーの期待に応えるべく、新エネルギー乗用車を日本に投入することになりました。脱炭素社会の実現という共通の夢が、BYDと日本の多くのユーザーを結び付けたのです」。

「地球の気温を1℃下げる」ことは、王伝福董事長及びBYDで働く仲間たちの原動力であり責務であるとともに、地球上に生きるものすべての願いであり義務である。観測史上150年間で最も暑い夏が、そのことをなおさら切実に感じさせる。

BYDアジア太平洋地域自動車販売事業部総経理で、ビーワイディージャパン株式会社の劉学亮代表取締役社長が基調講演を行い、「本日よりわれわれは、日本本土の優秀な販売代理店及びパートナーの皆様と手を携えて、販売及びサービスシステムを着実に構築し、日本のユーザーの皆様に、より環境に優しいモビリティスタイルとサービスを提供して参ります」と述べた。

 

ビーワイディージャパン株式会社 代表取締役社長 劉学亮

 

7月4日、BYDはEV乗用車の販売及びアフターサービスを行うBYD Auto Japan株式会社を設立し、日本のEV乗用車市場に参入した。研究開発を怠ることのないBYDは、コロナ禍が招いた反グローバリゼーションの荒波の中でも、絶えず突破口を開いてきた。2021年、BYDは世界で60万台以上の新エネルギー乗用車を販売し、新エネルギー車の販売台数において、中国国内で9年連続の第1位に輝いた。

BYDは2005年7月に日本に進出し、日本法人を設立した。カーユーザーの間で新エネルギー車の概念がまだなかった年代に、BYDの電動トラックや電動バスは、既にヨーロッパ、日本、アメリカの道路を駆け巡っていた。今日、7万台以上のBYDの商用車が、世界6大陸の70を超える国・地域の400を超える都市の営みと密接に関わっている。そして日本も中国もSDGs(持続可能な開発目標)に取り組んでおり、両国は省エネ・環境保護、持続可能な開発の分野で大いに協力の余地がある。

 

(左)ビーワイディージャパン株式会社 代表取締役社長 劉学亮

(右)ビーワイディージャパン株式会社の執行役員、BYD Auto Japan株式会社代表取締役社長東福寺厚樹

 

ビーワイディージャパン株式会社の執行役員でBYD Auto Japan株式会社の代表取締役社長に就任した東福寺厚樹氏は、これから展開する最新モデルの3車種、コンパクトSUV『ATTO 3(アットスリー)』、プレミアムセダン『SEAL(シール)』、コンパクトカー『DOLPHIN(ドルフィン)』の特長を紹介した。

次世代車載電池『ブレード・バッテリー』により、BYDの新エネルギー車の安全性は従来車に遥かに勝り、機電一体化によって資源の利用効率は大きく高まり、「先進運転支援システム」によって快適性と安全性が担保された。美、インテリジェンス、効率性、安全性が集約されたBYDの純電動乗用車は、その開発において避けては通れない「車両価格の高さ」、「航続距離への不安」、「充電設備の不足」、「ラインナップの少なさ」といったハードルを一つひとつクリアした。

 

科学技術の粋を集めた従来車は次第に影を潜め、純電動SUV『 ATTO 3(中国名:元PLUS)』及び『SEAL(シール)』、『DOLPHIN(ドルフィン)』の3タイプのニューモデルが一同にお目見えした。BYDが新たに開発した「e‐プラットフォーム3.0」を採用した「海洋シリーズ」(注)のSUV『ATTO 3』は、メディアやカーマニアの注目を集めた。『ATTO 3』の命名は、物理学の分野で最小の時間の単位であるアト‐セコンドからインスピレーションを得たもので、0-100km/h加速は3.8秒という極値を誇る。

BYDのグローバルデザインディレクターであるウォルフガング・ジョセフ・エッガー氏による「Dragon face 3.0」には、さらにBYDの純電動乗用車の外観美を追求し、「スピードと情熱」を表現したいとの思いが込められている。内装は躍動感に溢れ、新しいものを進んで受け入れる若者向けのデザインとなっている。

コンパクトSUV『ATTO 3』は、2023年1月から日本での販売を開始する。コンパクトカー『DOLPHIN』は同年半ばに、プレミアムセダン『SEAL』は同年下半期に投入される。価格については、今年11月に公表される予定だ。

質疑応答では、劉学亮社長が「EV充電設備の設置」、「販売チャネル」、「品質保証」等、ユーザーが関心を寄せる問題について丁寧に回答した。輸入車は日本市場に投入される前に、日本自動車輸入組合傘下のPDI(出荷前点検)センターによる厳しい品質検査を受けなければならない。BYD Auto Japan株式会社はこれまで、世界で最も厳しいとされる日本の自動車市場の要求をすべてクリアしている。

記者会見では、7月30日から8月28日まで横浜赤レンガ倉庫で開催される、BYD Auto Japan株式会社をトップスポンサーとする『RED BRICK BEACH 2022 present by BYD AUTO JAPAN』において無料試乗会を行うことが発表され、会場にぜひ足を運んでニューモデルに触れていただきたいと望んだ。

 

劉学亮BYDアジア太平洋地域自動車販売事業部総経理(左から3人目)、李雲飛BYDブランドPR事業部総経理(右から3人目)、東福寺厚樹BYD JAPAN株式会社董事長兼総経理(左から2人目)

 

BYDブランドを掲げた歩みは、進めるに連れ信念、力強さ、自信を増していった。そして、BYD は27年間の奮励努力によって、世界の新エネルギー市場で大きなシェアを占めるようになり、布石も打ってきた。また、『e‐プラットフォーム3.0』を開発するなど、一つひとつ実績を残してきた。

グローバル企業として新エネルギー車の分野で「有名ブランド」となったBYDは、絶えざる技術革新によって、世界中のユーザーに、地球に優しい新エネルギーによるトータルソリューションを提供し、「地球の気温を1℃下げる」ことを命題として、グローバル化の波の中、堅実に歩みを進めている。

 

(注)BYDが現在展開するEV乗用車には、中国の歴代王朝から名付けられた「王朝シリーズ」と海洋関係から名付けられた「海洋シリーズ」の2つの商品群がある。

 

情報元:「人民日報海外版日本月刊」

 

 

ギャップが価値を生み出す メタバースで活躍する華人実業家

 

4年前、スピルバーグ監督は映画『レディ・プレイヤー1』で、万能なバーチャルユニバースを現出した。その目の眩むような特殊撮影、大胆かつ緻密なストーリーは、人間を制限するものは想像力だけであるというメタバースの魅力を中国の観衆に知らしめたのである。そして今、メタバースやNFT(非代替性トークン)などの新しい科学技術への好奇心を抱きつつ、日本メタバース協会を設立したCoinBest株式会社の雒東生代表取締役社長に話を聞いた。それは、華僑新世代が「ギャップ」を活用して価値を創造する物語である。(聞き手/「人民日報海外版日本月刊」編集長 蒋豊)

 

 

島根県民の記憶に残る留学生リーダー

24歳から29歳までの輝く青春期を雒社長は島根県で過ごした。島根大学での6年間は、学費の減免と奨学金によって安定した研究生活が保証された。彼は社会団体活動などの分野で精力的に取り組み、すぐに数百人の留学生の中で頭角を現して、留学生学友会の会長に推挙された。

東京や大阪などの大都市と違い、島根県は経済や貿易の資源が乏しい。雒社長はできる限りのツテを使い、様々な方法で環境を整え、在校生が社会に溶け込んで実習や仕事をするチャンスを増やすために尽力した。会長に就任後、島根大学の留学生を組織して大型の交流イベントを開催し、留学生が日本企業と交流できる場を作って、その活動を継続するための費用も募った。彼の情熱は島根県国際交流センターと中国大使館大阪総領事館の職員を動かし、彼らのサポートも得ることができた。

外国人留学生と島根県の現地企業との交流活動は、年3回の頻度で続けられ、人口16万人ほどの松江市で、街中のほとんどの人が彼を知っていると言っても過言ではないほどの「有名留学生」となった。

こうした心の絆は今も続いており、松江時代の知人や後輩は上京すると彼に連絡を取って、彼もできる限りのサポートをしている。

 

 

IT成長のギャップが創業の原動力

大学卒業後、雒社長は内藤証券、岩井コスモ証券などの有名企業に入社し、マーケティング業務を担当した。この間の仕事の中で、彼は形勢分析、リスク評価、トレンド予測、成長ポイントの発見などのスキルを身につけた。

「中国は日本より2、3年進んでいる」。彼は正確な数字で中日両国のIT技術発展のギャップを示した。2017年、深圳のある大手IT企業と技術基幹交流をした際、日本ではまだ試験段階だったブロックチェーン技術が、中国企業では多くの業務シーンで応用されているのを知ったという。物流を例に取ると、ブロックチェーン技術はデータを記録する、紛失しない、改竄できないなどの特性を持つため、特に生鮮品などの物流チェーンのトレーサビリティーに適している。ブロックチェーンのこうした特性は、大学入学共通テストなどの大型統一試験の成績表や、合格通知の安全性と唯一性を保証するのにも適している。

「発展のギャップはチャンスを意味する。後発の企業は2、3年の差を推進力に転化できるし、先発の企業にとって時間差は相当な価値を生み出せる」。深圳での体験は、大企業の手厚い待遇を受けながらも、年功序列の日本社会に甘んじていた雒社長に起業する決心を固めさせた。

彼は幾度か中国に帰国して人材を探し、2017年8月、東京にCoinBest株式会社を立ち上げた。設立して間もないころ、日本のある大手IT企業が三井物産や伊藤忠商事といった総合商社のために、ブロックチェーンをベースとする物流トレーサビリティー業務を計画していた。それらの大手IT企業がCoinBest社に打診してきた際、日本ではまだ試験段階にあるブロックチェーンの応用技術が中国ではすでに安全に実用化され、整備された運用維持システムと豊富な実践的経験を有していることを知った。

その結果、大手メーカーや大企業数社がCoinBest社を訪れ、ブロックチェーン技術のサポート提供を求めてきた。在庫管理、部品システム、配送期限などは、大量のデータをブロックチェーン技術と整理統合し、カップリングさせる必要がある。

話題は自然と、遅々として進まない日本のデジタル化問題へと移っていった。「日本人がマイナンバーカードに代表されるデジタル化技術に対して否定的な考えを持っているのは、ユーザー情報などのセキュリティー問題に対する国民の不安の表れである」。彼は日本社会のデジタル化がいつまでも低調な根本的原因を率直に指摘した。

個人情報のデジタル化はもちろんのこと、デジタルコインの成長も、あるいは刷新され続けるインターネットの概念も根本は同じで、管理側が安全性を最重要視することが必須である。「各ユーザーの口座のセキュリティーは、利益よりも重要なビジネスの根幹である」とは、雒社長が日本の大手証券会社での勤務で磨き上げた仕事のリテラシーであり、彼が創業以来守り続けている理念でもある。そうしてCoinBest社は、顧客の利益を至上とするセキュリティー面での利点を生かし、何度も検証を重ね、2020年、ついに金融庁が認可する暗号資産交換業者となった。

 

近年、ブロックチェーン技術の追い風に乗り、NFTへの熱も急上昇している。正確なトレンドを予測するCoinBest社では、すでに技術を整備し、安定したオペレーションとメンテナンス、セキュリティーに優れたNFT取引のプラットフォームを構築している。また積極的に在日の公益団体や障害者美術館と連携し、障害者アートをデジタル化してNFT商品を制作、取引市場にリリースし、オークションによる収益を作家本人に還元している。とりわけ強調すべきは、この取引の全プロセスにおいてCoinBest社が無償でサービスを提供している点である。

長い人類の歴史を振り返ると、取引の決済で初めは貝殻が使われ、貴金属が貝殻に取って代わり、さらには手軽な紙幣が貴金属に取って代わった。そして情報時代の進展に伴い、電子取引が現金を文字通りの「紙切れ」に変えた。「近い将来、ブロックチェーン技術の合法的、規範的、合理的な開発と運用により、いっそう速く安全で効率的な生活モデルが作り出されるだろう」。雒社長はそう言って時おり無邪気な笑みを浮かべる。イノベーティブな人には永遠の若さがあるということか。

「本社を米国に置くSNS企業が、プラットフォームを5年間でメタバースプラットフォームに転換すると発表」、「中国の大型科技企業がVR設備のメーカーを巨額で買収」、「初めてのメタバース株、上場初日に株価50%上昇」など、2021年はメタバースのコンセプトが爆発的に成長した1年となった。

歴史は繰り返す。未知の世界への畏怖は人々に過度な恐慌を引き起こす。そう感じた雒社長は、JVCEA(日本暗号資産取引業協会)理事で元東京外国為替市場委員会副議長の大西知生氏とともに、2021年12月、日本メタバース協会の共同発起人となった。彼らの望みは、この協会を通して新興のものに対する人々の誤解と恐れを取り除き、専門知識によって、健全で完備された持続可能な業界の成長をルール化することにある。

想像するに、今の現実生活とネット上で隆盛しているビジネスモデルは、すべてメタバース世界でミラー再生できるだろう。「科学技術は象牙の塔にこもるものではなく、人類の文明に多くの財産を生み出し、人類社会をさらにスマートかつ高品質な段階へと推し進めるためのものだ」。雒社長はシンプルかつ断固とした言葉で、「メタバース」概念への疑問に答えてくれた。時代の先端を行く人たちはいつも試行錯誤を恐れない進取の気性の持ち主で、人類のために多くの幸福の門を開いてくれている。

 

伝統業界の成長のギャップに秘められた経済的価値

IT産業の分野では、中国の成長が日本に先んじている。しかし、農業、工業などの伝統産業において、中国と日本にはまだ明らかな差がある。このギャップこそチャンスと利益を生み出す源だ。

雒社長と農業との縁は20年前にさかのぼる。同じ漢字を使う縁で、松江市にある島根県立松江農林高校と上海市松江区にある上海市農業学校とが姉妹校となった。雒社長は学業の傍ら、松江市の農林高校で中国語を教えていた。1年余りの授業の中で、彼は日本の農業の発展状況を深く理解した。高品質、高価格、高級な農産品は日本の食文化を国際市場へと進出させ、日本の農家に大きな利益をもたらしただけでなく、資源の乏しい日本を農業大国へと押し上げた。地震大国でもある日本は、近代には様々な人工的な方法で火山灰中心の荒れた土壌を改良し、科学技術の力を借りて、農業を高付加価値を生み出す産業へと成長させた。日本では農業や農家は苦しく貧しいものではない。例えば、京都特産の「九条ネギ」は爽やかな口当たりとはっきりした香りにより、典雅な「京料理」に不可欠な食材であるが、認証を得た「九条ネギ」は高値で売買されている。

「水流の落差によって発電するのと同様、発展成長のギャップも経済価値を生み出す」。2018年10月、雒社長は日本農業発展促進協会を立ち上げた。その主旨は、中日の農業提携交流のためのプラットフォーム構築であった。当時はまだ起業したばかりの彼であったが、精神力と物資を自ら差し出し、中国の農業企業の日本への研修を何度も引き受け、高効率かつ省エネで、持続可能性を持つ日本の農業プロジェクトを積極的に発掘し、中日両国の農業のマッチングをサポート、プロジェクトが中国に根付くよう尽力した。

伝統的な農業大国である中国はいつ農業強国へと変わるのだろうか。中国の農家はどのようにすれば良い生活を送れるのだろうか。ブロックチェーンを利用し、NFT概念のサポートで農家に富をもたらし、IT技術をスマート農業に活かす……未来に向けてなすべきことはまだまだ多い、雒社長はそう述べた。

 

取材後記

あるデータによると、日本にあるIT技術関連の華人企業は1000社に上るという。新型コロナウイルス感染の暗雲は去らず、円安が進み、原油や食糧価格が高騰する内憂外患の現在、景気の良い企業もあれば落ち込む企業もある。逆境でも止まることなく成長してきたCoinBest社は、「ギャップの中に価値を見つける」ことに優れた華人企業家の経営の知恵を、われわれに教えてくれている。

情報元:人民日報海外版日本月刊

 

 

中国との友好を推進する 国民運動の流れをつくる

 

本年は中日国交正常化50周年にもかかわらず、両国の友好ムードはあまり高まっていない。そうした中の5月11日、岸田文雄政権が看板政策に掲げる経済安全保障推進法が参院本会議で可決、成立した。先ごろ、社会民主党の服部良一幹事長を訪ね、中国の経済発展をどう見るか、東アジアの国際秩序と経済安保法の考え方、今後の中日関係の在り方などについて伺った。(聞き手/「人民日報海外版日本月刊」編集長 蒋豊)

 

経済発展を遂げた中国は世界をリードする大国

―― 21世紀に入り、中国は飛躍的な経済発展を遂げました。こうした中国の経済発展をどのように見ていますか。

服部 中国の経済発展は、世界のどの国も認める流れであります。GDPそのものが、早ければ2025年、遅くとも2028年には米国を追い越すとも言われていますし、購買力を加味した評価では、すでに世界一になっているという評価もあります。

そして、中国人は昔からの華僑の歴史を有しており、世界的なネットワークを構築しておられます。ですから、いろんな意味で、今後の世界経済に決定的な影響力を持ち、世界経済をリードしていくことは、世界の誰しもが認めるところではないかと思います。

昨年、中国共産党100周年の記念行事に参加させていただいたときに、中国全体が豊かになるには、内陸部との経済格差を克服していくという課題があることもお聞きしました。そういう点では、中国の経済発展はまだ完成形ではなく、その途上にあるのだと受け止めております。

また、一帯一路の政策が、安保政策に絡めて、否定的に受け取られる部分があるのですが、やはり世界をリードする大国として、経済発展によって世界がウインウインになるような展望をお持ちであるだろうと期待しています。

 

インバウンドの予防対策は各国と協議して決めるべき

―― 新型コロナウイルスの感染拡大で、それまで1000万人におよぶ中国からの観光客は途絶えました。このことが日本の観光行政や地方財政にも影響を及ぼしていると言われています。アフターコロナに向け、インバウンドはどうあるべきだとお考えですか。

服部 世界中から観光客を呼び込もうというのが国の戦略です。乗り物に乗っても、日本語、英語、中国語、韓国語などで放送の案内があり、そうしたおもてなしが日本経済の活性化につながるという期待感がありました。

しかし、コロナ禍でそれがなくなり、ホテル業界や航空業界をはじめ観光業界全体が大打撃を受けています。ですから、一日も早く自由な往来が復活して、中国をはじめとした海外からの観光客が増えることが、国民的な期待だといっても間違いないと思います。

そのためにも、やはり日本と中国の友好関係を良好な関係にしないといけません。国と国があたかも戦争に向かっているような雰囲気をつくったり、そういうことを煽るような政策には反対をしていくのがわれわれの立場です。

―― 6月から日本への入国制限が緩和されますが、アフターコロナに向けての感染予防策が不透明です。

服部 中国と日本のコロナ対策は違います。日本も最初は中国と同様にゼロコロナ政策でスタートしたのですが、ここまで感染が拡大し、新しい変異株が出てきたりして、政策が追いついていないのが現状です。

また、日本はワクチン接種を前提にマスク着用を緩和していく方向ですが、海外との往来にどのような影響が出てくるのか、そして実際にコロナは収束していくのか、それとも新たな変異種のコロナの感染が広がっていくのか、まだまだ見通しがついていません。

そういう中でのインバウンド再開ともなれば、予防対策が非常に重要になってくるのですが、やはり一国だけでは決められないと思います。国によって予防対策も違いますので、例えば中国側の意見を聴くなどして、一緒にルールづくりをすべきではないでしょうか。

 

東アジアはウインウインの安全保障に取り組むべき

―― 近年、中米対立が激化する中、中日関係や日米関係にも影響が出てきていますが、東アジアの国際秩序について、どのように考えていますか。

服部 社民党は、土井たか子党首の時代に、土井ドクトリンという構想を打ち出し、北東アジアの安全保障体制を関係国でつくっていくべきだとして、北東アジアの非核地帯構想を打ち出しました。

日本には核を持たない、持ち込ませない、使わないという非核三原則があります。核保有大国である中国、ロシア、米国は国際的な条約の下で責任を果たすべく、北東アジアに非核地帯をつくるべきだという考え方は今も変わっていません。

この数年、米朝会談、南北会談が開催され、非核化に向けたステップ・アンド・ステップという流れがあり、私は大きく期待していました。

ところが、それがなかなか進まない理由の一つとして、米国の政策に問題があると考えています。せっかく北朝鮮が一歩踏み込もうとしているように見えても、米国は経済制裁を解除せず、韓国との軍事演習を続けています。これでは非核化地域の実現について、本気で米国が取り組もうとしているのか疑問です。

最近では、台湾有事を想定し、世界を価値観で分断するような政策を急に打ち出しました。それに日本が迎合したり、あるいは日本国民が何となくそういうムードになっていくのが一番危険なことですし、それに便乗して防衛費を上げるなど、軍事と軍事の競争になるようなことをしてはいけないというのがわれわれの立場です。

ですから、まずは朝鮮戦争の実質的な終結を関係国で話し合って、いわゆる昔の冷戦構造を完全に終結させ、お互いがウインウインになるような東アジアの安全保障に取り組むべきです。

米国に従属して、一緒に戦争をしようというようなことになると、日本そのものが破綻していくことになりかねないのです。

 

経済安保法は経済版中国包囲網

―― 日本は、安全保障では同盟国・米国を最重要視しつつ、最大の貿易相手国である中国との経済協力も重視してきました。そうした中、「経済安全保障」への関心が高まっています。「過剰に中国を意識しすぎると狭い価値観になる」との指摘もありますが、いわゆる「経済安保」について、どのようにお考えですか。

服部 私は経済安保法には反対です。極めて危険な法律だと考えています。これは、いわば経済版中国包囲網の法律です。

この法律は、高度な先端技術の海外流出を防ぎ、経済や生活に欠かせない物資を確実に確保することが狙いとされていますが、政府の企業への介入が自由な経済活動を萎縮させる懸念や、科学技術の軍事化がすすみ研究活動を制約するおそれがあります。

そして、この法律の制定には、米国の対中政策と連動し、中国封じ込めの一翼を担おうという意図が見え隠れしています。国家が経済活動と深く関わる中国の経済制度に対抗するために、政府が民間企業の活動を管理し、関与を強めようとするものだという危機感を強く抱いています。

 

中国との友好を推進する国民運動の流れをつくる

―― 本年は中日国交正常化50周年にもかかわらず、両国の友好ムードはあまり高まっていません。今後の中日関係をどのように展望していますか。また、良好な関係構築のために何かご提案はございますか。

服部 日本と中国との関係は友好関係でなければなりません。そのためには両国の交流を絶やさないことです。意見の違いや考え方の違いは当然あっていいわけですが、お互いが率直に意見を言い合える関係を築くことが最も重要です。

今年は国交正常化50周年の節目ですから、両国間の交流を盛り上げていくべきだと思います。しかし、今の政治の雰囲気では、訪中団を派遣して、友好を確認するというムードではありません。

しかし、こういう時こそ両国は、政治家、企業家、文化芸術団体、青年などさまざまなレベルで交流すべきであり、まずはその先陣として、本年9月の記念のときに超党派の国会議員で訪中し、率直に意見交換すべきであると提案しています。

また、日中間で取り交わした四つの政治文書について、もう一度しっかり学び、過去にどのような経緯で両国が合意をしてきたのか、50周年を節目に確認をする作業が必要だと思っています。

そのうえで、決して政治家やマスコミが両国の対立を煽るのではなく、若い世代を含め、友好を推進していこうという流れが出来て、国民運動になればすばらしいことだと考えています。

 

情報元:「人民日報海外版日本月刊」

 

中国の白酒文化を 中日交流の橋渡しに

 

「本年は中日国交正常化50周年です。その歴史を知る人びとの間では有名な話ですが、1972年9月、田中角栄首相が中国を訪れた際、周恩来総理は北京の人民大会堂で開かれた招宴の席で、茅台酒を振る舞いました。この50年、中日の政治、経済、文化交流の舞台では、しばしば茅台酒にまつわる美談が生まれました。茅台酒はすでに中日交流の橋渡し役を担っていると言えるでしょう」。6月1日、日本中国白酒協会の設立に当たり、初代の会長に就いた黄曜東氏は、われわれの取材に答えて率直な思いを語ってくれた。

 

「私が30数年前に来日した頃、日本では中国茶と言えばウーロン茶、中華料理と言えば麻婆豆腐とチンジャオロース、中国酒と言えば紹興酒とされ、中国の幅広く深淵な茶の文化、食文化、酒文化が日本では単一化されていることに不可解さを覚えました。これは両国の交流面における不十分さ、中国文化のプロモーション方法における問題、在日華僑華人が数的に弱小であることが要因ではないか、後にはそう考えるに至りました。そこで中国の酒文化、特に中国の茅台酒を広めたいとの思いから、日和商事株式会社を設立したのです」。

黄曜東会長は、中国の改革開放政策によって国の扉が開け放たれるや、繰り返し到来した「日本留学ブーム」をしみじみと思い起こす。

「当時、中日間には大きな経済格差があり、中国人留学生は苦学を強いられました。自身の学費と生活費を工面しながら、中国国内の親族の生活費の多くを負担するとともに、将来に備えて経済基盤も築かねばなりませんでした。当時、彼らの多くは毎日アルバイトを掛け持ちしていました。お金を貯めるためには、気ままに街へ出てお酒を飲んだり食事をしたりすることもできず、日本の友人と中華料理を食べに行ったとしても、それは『日本式』の中華料理で、日本人の食習慣に倣って『とりあえずビールで』ということになり、故郷の白酒とはほぼ無縁でした」。

黄曜東会長は感慨深げに話す。

「世の中は常に変化します。中国経済の発展、特に中国人の生活レベルが向上したことによって、在日華僑華人は百万人を超え、在留外国人の中では最多となり、彼らは懐かしい故郷の白酒を再び味わうことができるようになりました。さらに、多くの中国人留学生はアルバイトをする必要がなくなったばかりか、白酒の新たな消費者となったのです。3年前、茅台酒が協賛した中国の漫才師・郭徳綱の日本公演には、2日間で約1万人が来場しました」。

中国経済、華僑華人社会、中日交流における大きな変化は、中国の白酒文化の普及に新たなチャンスをもたらした。黄曜東会長は言う。

「近年、メーカーも日和商事も、日本市場での茅台酒と五糧液のプロモーション活動に力を入れています。例えば、新聞・雑誌に広告を掲載したり、池袋、新宿、秋葉原等、東京都内の主要駅付近に看板を設置したり、成田空港、羽田空港、北海道の空港の出発ロビーに広告を掲示したり、渋谷や目黒のドン・キホーテの外壁に大型の広告を掲げたり、日本のテレビ番組で茅台酒と五糧液の特集を組んだりしています。今年の北京冬季オリンピック期間中には、電通によるコマーシャルが、BSおよび地上波のテレビ局で31回放映されました。千葉・幕張で開催される『FOODEX JAPAN』には25年連続して出展しています。また、在日華人のコミュニティイベント等に協賛し、茅台酒、五糧液をはじめとする中国の白酒のために日本市場を開拓しています」。

黄曜東会長はさらに続けた。

 

「茅台酒も五糧液も健闘しています。2021年の世界時価総額ランキングにおいて、貴州茅台酒は16位、時価総額は3850億ドルでした。ディズニーは21位、トヨタ自動車は32位、コカコーラは38位、ソフトバンクは62位、マクドナルドは65位、宜賓五糧液は73位でした。2022年の『ブランドファイナンス Global 500』においては、茅台酒は32位にランクイン、ブランド価値評価額は492億ドルに達し、食品飲料業界で堂々の世界一に輝きました」。

黄曜東会長は今後の展望を語った。

「中国の茅台酒も五糧液も成長を続けており、日本における市場シェアも拡大しています。こうした背景のもと、日本人および華僑華人が白酒に対する理解をより一層深め、中国の白酒文化が大いに発揚されることを願って、われわれは『日本中国白酒協会』を設立することにしました。日本はアルコール大国であり、世界中のお酒を手に入れることができます。日本酒もジャパニーズウィスキーも、中国で大変人気があります。お酒に国境はありません。酒文化は異なる国家、民族間を結ぶ文化的紐帯と成り得るものです」。

黄曜東会長は自信満々に話す。

「中国の白酒メーカーは日本市場の開拓に期待しています。私もこの仕事を自身の使命と考えていますし、日本中国白酒協会を設立した目的もそこにあります。いつの日か、日本のお客様が中華レストランで『ハイボール』を注文するのと同じように、『バイボール』のボトルを注文する日が来ることを楽しみにしています」。

取材の最後に黄曜東会長はこう語った。

「50年前、茅台酒によって中日両国の新局面が開かれました。われわれは、茅台酒をはじめとする中国の白酒によって、中日関係の次の50年を開拓したいと願っています。今日、『国の交わりは民の親しきにあり』ということが言われますが、その過程において、白酒は必ずや特別な役割を果たすことができると信じています。そこには中国の歴史の重み、そしてまた文化の魅力があるのです」。

 

情報元:「人民日報海外版日本月刊」