・私が居合道を始めた時
マンツーマンレッスンでしたので
先生以外の方の居合を見たことがありませんでした。
(1年間の通常稽古で)
そのおかげで
居合道全国大会(岡山県)において
他の方の居合道
他の先生の居合道を初めて見た時は
ほかの人の抜き付けなど
細かなところを見ていなくて
結果
良かったと
今でも思っています。
たくさんのものを見るのは
長所と短所が当然ながらあります。
居合道を習い始めの時には
一つのお手本だけをみてきたことは
私にとっては良かったということです。
一般的にいいますと、
中途半端な知識や
中途半端な実力の間は
なまじっかそういう状況では
細かなこと(たくさんの知識・情報は)
「居合」であれば
小さくまとまってしまうということです。
・刀は重い
手で振ってはいけない
では
肘でなのか
手首なのか
腰なのか
どこに意識を置いて振るんだろうか?
《初発刀》などにおいて
この回答のまえに、
こういう言葉で
言い表して指導するだけでは不十分じゃないかという
ことを常々思っています。
言葉にしてしまうと、
例えば「刀は腕力じゃなく身体捌きで振るんだよ」
と言われたとしましょう。
腕力ではないということは
腕力じゃないもの、それで振るという事です。
腕力と腕力じゃないものに『別れ目』、つまり
境目が必ずできます。
腕力とそうでないもの
それが
『体捌き』なんだという事になります。
体捌きで振るときとは、どういうことをさしているのか>>・・・??
なんだかよく分からない??
言葉では、教えられないことと。教えられることがあります。
身体操作に関して
(形や軌跡などは教えられます)
見せればいいのですから
角度など数値で示することができます。
しかし、
当会の振り方は
『むすび居合』で教えています。
当会では「感覚を教えます」
その感覚はどうやってかというと
接触(皮膚操作)です。
刀と接触する際の感覚をお手本として
教えています。
むすびというのは、
居合道では、刀と刀を持つもの(人)をむすぶ
つまり一つとして動かすことを意味します。
これはできます。
・しかしながら
居合も、言葉を聞いて
その言葉の意味を理解して
自分の神経を使って
身体操作(刀法)を行っていくしかないのは
まぎれもない事です。
それはそれでいいのですが
その後は、
技の形を覚えたら
刀を持つ手には(手力)腕力、握力を使ってはいけません。
そういう「意識」を持つなという事です。
厳密にいえば
握力も腕力も少しながら使っています、
使っていますが、それは
独立した使い方ではないという意味においてです。
つまり
脊柱起立筋、大腿四頭筋、腹筋、大殿筋などを
総合的に(自動的に=無意識レベルで)使っているという事です。
腰を使うという意識では
腰が他の部分に優位的に動きます
例えば
手首を使うという意識だと
手首を使う働きがおもに
他に独立的に働きます。
このように説明には(言葉を駆使して)
限界があり
正確なことは伝わらないのです。
受け止める側のひとが
それぞれの認識(その人の実力)で
理解していくからです。
その点
ノンバーバルなむすび伝授においては
言葉は主にならず
表に出てこない為に
おなじ感覚を共有していきます
つまり野生動物の本能switchですね。